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第三話 南へ
夜明けの町をかっ飛ばして家に帰り、昼過ぎまで眠った。物音に目が覚めて起きた時、部屋に伊依の姿はなかった。庭へ続く窓が開いており、哲司は裸足のままで飛び出した。
伊依は、遠くへは行っていなかった。門を出てすぐ、家の前の道路に突っ立っていた。哲司が追ってきたことに気づき、ゆっくりと振り向いた。
「……おれは、罪を犯したとは思わない」
「……ああ」
「あの人がああなったのは、そうなる理由があったからだ。おれは当然のことをしたまでだ。悪いことをしたとは思わない」
「……俺だって、そうだ」
嘘をついた。見栄を張った。哲司は、あの男のことを何も知らない。殺されるに値する理由があったのかどうか。しかし少なくとも、伊依にとってはそれが真実だ。哲司にとっては、それだけが確かだった。それだけで十分だった。
「あの人のために罪を償うつもりはない。罰を受けるつもりもない。そんなことをするくらいなら」
続く言葉を知っていた。剥き出しの白い足で、伊依は水溜りを踏む。細かい傷に泥が滲みる。
「逃げねぇか」
哲司が言うと、伊依は小さく息を吐いた。
「なんで」
「もうこの町にいる理由がないから」
「なんでお前がそんなこと」
「共犯だからだろ」
それは、あまりに甘美な響きだった。
哲司は一旦アパートに戻って、荷物をカバンに詰め込んだ。着替えと現金を詰めてしまえば、他に持っていくべきものなど思いつかなかった。三年住んだアパートなのに、必要なものはあまりにも少ない。
東京行きの夜行バスに乗った。直前の予約だったが、隣同士の席が空いていた。通路側にもカーテンがあり、閉めるとほとんど二人きりの空間になった。閉め切られた窓側のカーテンを少し開け、移りゆく車窓を隙間から眺めた。川と海に囲まれたこの町に、いよいよ別れを告げるのだ。
明かりが消され、少し眠った。サービスエリアで最初の休憩に入り、哲司は浅い眠りから覚めた。窓の向こうを眺める伊依の姿が目に入った。
「眠れねぇの」
「昼間アホほど寝たからな」
「オナニーすると寝つきよくなるぜ」
「ははっ、いかにも童貞が言いそうなことだ」
「もう童貞じゃねぇよ」
体を寄せて、肩を抱いた。伊依は哲司に身を任せる。抱きしめて、キスをした。眦に触れ、頬に触れ、最後に唇にキスをした。
「露出狂にでもなるつもりか」
「しねぇよ。こうしてたいだけ」
深夜の高速道路の景色など、そう面白いものではない。トンネルの淡い光に喜ぶのも最初だけだ。後はずっと、山を切り開いて敷き詰めたコンクリートの道路が続いているだけ。そんなものを漫然と眺めているより、息を潜めて肌を触れ合う方が、ずっと意味がある。
朝七時前。バスは定刻通り新宿に着いた。とにかく腹が減っており、目についた喫茶店で朝食を取った。チーズとハムのトーストサンドイッチを、アイスコーヒーで流し込んだ。
ここまで来たはいいものの、この先どうするかを考えていない。この時間、まだどの店も閉まっている。冷房の効いた落ち着いた店内に、モーニングだけで長居した。
カバンの底には、現金が四十万円ほど。哲司がバイトで貯めた金と、伊依が実の父親から送ってもらっていた金だ。初めて手にする札束の厚みは一センチにも満たないが、ひどく頼もしく思えた。これだけでどこまで行けるのか、どこまでだって行ける気がした。
南の島はどうだ、と伊依が口を開いた。何かと思えば、レジカウンターの壁に貼られているポスターを見て言ったのだ。青い海を背景に、小笠原まで25時間半、とポップな書体で書かれている。
「船で?」
「そうらしいな」
「遠いのかな」
「遠いだろ」
「よく分かんねぇ。そういうの、乗ったことねぇし」
話は決まった。運よくキャンセルが出たらしい。その場で予約を取り、竹芝から船に乗る。昼過ぎには海の上にいた。
東京湾を抜ける。陸地が遠く離れていく。右舷側に伊豆大島の島影が見え、他には何もない。見渡す限り、水平線が続いている。もう戻れないと強く思った。戻れないし、戻らない。あの、狭く息苦しい町には。
船内のレストランでカレーを食べた。山型に固められたライスを切り崩して、辛口のルーに浸して食べた。食後は船室に戻り、少し眠った。
下から二番目の等級の船室を予約した。上下二段ベッドの寝台で、カーテンを引いてプライベート空間を確保できるというものだ。どちらにしても狭い船室ではあるが、旅の疲れもあって、ぐっすり眠ってしまった。起きた時には日没を過ぎ、すっかり夜になっていた。
下のベッドに寝ていた哲司は、寝台の天井を叩いた。上のベッドに伊依が寝ている。起きているなら部屋を出て飯でも食おうぜという合図だ。すぐにカーテンが開いて、伊依が顔を覗かせた。
レストランは閉店していた。かれこれ六時間も熟睡していたらしい。仕方がないので自動販売機でカップラーメンを買い、人気の失せたラウンジで夕食にした。
船内を少し歩いた。乗船時には豪華客船のように感じられたけれども、夜のひっそりとした雰囲気の中では、学校か病院のように思えた。古臭いというのではなく、無駄がなくきっちりとしていて、装飾が少ないという点において、公共施設のように見えた。
一等客室へは階段が通行止めにされていて行けず、レストランも売店も閉まっており、デッキへ出ても暗いばかりで何も見えない。やることが尽きて、結局船室へ戻った。眠れそうにないと思ったが、既に消灯時刻を過ぎており、目を瞑れば夢の中だった。
物音に目が覚めた。時刻はまだ夜明け前。天井を叩いても返事がなく、よじ登って確認すると、伊依の姿がなかった。
伊依は展望デッキにいた。日の出にはまだ時間がある。欄干にもたれて、じっと海を見ていた。ロマンチストじゃんと言って、哲司は伊依の隣に立った。
「船酔いしただけだ」
360度見渡しても、陸地どころか島影すら見えない。ここは海のど真ん中。すっかり外洋に出ていた。
「夜は揺れるってアナウンスされてたもんな」
「お前はぐーすか寝てたけどな」
「いびきうるさかった?」
「おかげで余計に眠れなかった」
溜め息の代わりに笑みを零した。
インクを一滴落としたように、水平線が色づいていく。海の底が燃えている。闇を掻き消し、世界が色づく。黄金の朝日が昇った。
伊依の横顔が照らされていた。過去を見つめるために隠された左目と、燃える朝日を見つめる右目。そのどちらもが美しいと、哲司は強く思った。
キスをしていた。朝日を見つめる伊依の前にぐっと顔をねじ込んで、キスをした。伊依が口を開けるので、舌を入れて唾液を飲んだ。伊依の後頭部に手を回し、軽く押さえて舌を噛んだ。
欄干を掴む伊依の手が震えている。哲司は上から手を重ね、指を絡めて握りしめた。伊依が微かに声を漏らした。
片方の手で、伊依は哲司の服を掴んだ。引き千切らんばかりに握られる。伊依がこちらに体重をかけ、もたれてくる。哲司はどうにか受け止めた。唾液がいくらでも溢れてきて、口の端を伝い落ちた。
「っ、ぅ……ッ」
抱きしめた体がびくりと震えて弛緩した。唇を離して、哲司は伊依を抱き止める。伊依は、唾液に濡れた唇で荒い息を繰り返す。熱っぽい瞳が哲司を見つめた。
哲司は周囲を見回した。もはや日の出は過ぎている。熟年夫婦や親子連れ、お一人様の旅人など、朝日を見に多くの乗客が集まってきていた。ふらふらと足元のおぼつかない伊依を連れて、哲司はその場を逃げ出した。
「はーあ、とんだ恥をかいたぜ」
「てめぇ、そりゃこっちの台詞だろうが」
一旦船室に戻って心身を落ち着かせてから、朝食用におにぎりを買い、再びデッキに出た。考えることは皆同じらしく、デッキは混雑しており、ベンチの確保も一苦労だった。
「だってお前、あれだけでイクとか普通」
先程の痴態を揶揄すれば、伊依は顔を赤くして怒った。テーブルの下で、思い切り哲司の足を蹴る。
「おまっ、いてぇって。変な痣になんだろ」
「うるせぇ。やっぱ露出狂じゃねぇか」
「いや全然露出はしてねぇけども」
昨晩替えたばかりの下着をすぐに替えることになったので、伊依は機嫌が悪いのだった。一つ百二十円のおにぎりで機嫌を取ろうとしたせいで、余計にヘソを曲げられた。
「でもいいじゃん。朝焼け見ながらキスするとか、映画みたいで」
「ロマンチストはお前の方だな」
「だって、もうすぐ着くんだぜ。遠かったな、小笠原」
都心から南へ千キロ。海も空も南国のものへと変わっている。降り注ぐ日差しも、海を渡って吹く風も、故郷のものとは別物だった。遥か彼方の北の果てに、何もかもを捨ててきた。
船が入港し、下船する。一日ぶりに踏む陸地は、いやに硬く感じた。揺れを感じないのが不思議なくらいだったが、その変な感覚もすぐに薄れた。何しろここは南の果てで、どこを見ても観光客しかいないのだった。
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