18 / 18

第三話 未来へ

 窓を開け、扇風機を回した。この宿のエアコンは、三時間百円の離島仕様だった。夜が明けるまで、自然の風で涼を取ることにした。海に囲まれているからか、特に夜になると、風が涼しくて気持ちがいい。  月だ、と伊依が言った。窓にもたれて、空を見ていた。哲司も同じように、窓から空を見上げた。銀粉をまぶしたみたいな星空に、半月が冴えた光を放っていた。   「……十三夜か」    伊依が呟く。哲司はもう一度月を見上げた。どう見ても半月。下弦の弓張月だった。   「……半月だけど?」 「そういう歌があんだよ」    伊依は、節をつけて小声で歌う。沖縄の民謡らしかった。   「どういう意味」 「月が綺麗なのは十三夜って」 「ふうん? 詳しいな」 「来る時の船で流れてただろ」 「そうだっけ」 「それに、前にも聞いたことがある」    もう一度、伊依は同じ節を口ずさむ。気に入って覚えているらしい。途中まで歌って、ふっと笑みを零した。   「でも、半月だって綺麗だよな」    よく分からないながら、哲司は頷いた。   「満月を過ぎても、三日月でも、綺麗だよな」 「……綺麗だよ」    哲司が言うと、伊依は柔らかな微笑を浮かべて、哲司の膝に頭をのせた。   「なんだよ」 「別に。おれが眠るまでこうしてろ」 「甘えたい気分? かわいいやつ」    哲司は伊依の髪を梳く。艶々とした黒い髪。光の加減で紫を帯びて見えるのが好きだった。柔らかく指に馴染む。するりと絡み、さらりと解ける。いつまでも触っていたくなる。  膝枕をしたまま、伊依が寝返りを打つ。前髪が流れ、瞳が覗いた。右目は哲司の陰に隠れて見えず、左目は、月明かりのせいか、微かに光が散って見えた。  澄んだ瞳が、真っ直ぐに哲司を見つめる。滑らかな唇が静かに動く。   「愛してる」 「……俺だって」 「おれの方が愛してる」 「なんだよ急に。やっぱ今夜は甘えただな」 「……うん」    素直に頷いて、伊依はもう一度寝返りを打ち、哲司の側へ顔を向けて、甘えるように抱きついた。哲司が頭を撫でると、さらに強く抱きついた。   「俺も、愛してるよ。お前を」    それ以上は何も言わなかった。伊依が眠るまで、そうしていた。    ずっと考えていた。己の犯した罪について。最も重い罪は、伊依に全ての罪を背負わせたことだ。  哲司は確かに人を殺した。あの男──哲司の人生には何の関わりもなかった男を、伊依と共に絞め殺した。憎くもなく、恨みもなかった男を、殺した。伊依を愛していたから。あいつを救いたかったから。ただそれだけで、殺した。  死体を隠そうと言い出したのは哲司で、死体を山に埋めたのも、ほとんどは哲司がやったことだ。捕まるまで逃げ続けようなんて、馬鹿げたことを考えていたのも哲司の方だ。  何度真実を話そうと思ったかしれない。伊依が出頭した後、事件がニュースで取り上げられる度、大声で叫びたくなった。本当に悪いのは俺なんだ。そいつでなく、俺を裁いてくれと、何度言おうと思ったかしれない。  出頭しようか何度も悩んだ。そうすることで、あいつの罪が少しでも軽くなるのなら。罪を肩代わりはできなくても、分かち合うことはできるはずだと。  その度に、あの手紙を思い出した。便箋は燃やしたが、封筒は大切に取っておいた。石垣の海が描かれた封筒だ。それを見る度、思い留まった。  伊依に対して、愛も情も残っていた。むしろ、愛と情しか残っていなかった。あいつの選択を尊重したかった。あの決断がどれほどの痛みを伴うものか、哲司には痛いほどよく分かった。  面会に行く度、元気そうな顔を見ては安心した。おれ達の家を守っていてくれと、伊依はよく言った。それだけが、哲司にとっての生きる希望だった。いつかあいつが帰ってくる時、万全の状態で迎えられるように。あいつの帰るべき場所を、二人で住むための家を、哲司は一人で守り続けた。  たとえ、罪を重ねることになるとしても。それ自体が、何よりも重い罰になるのだとしても。十年以上を二人で暮らしたあの町で、哲司は一人で待ち続けた。金を使う先もなく、貯金ばかりが増えていった。おかげで旅行に来られている。    石垣波照間航路は、日に三便だ。おまけに、欠航率は三割弱。季節によっては五割を超える。行きはよくても帰りの船がないとか、一週間帰れなくなったとか、そんな話もあるらしい。今回は運がよく、滞在中ずっと晴れていた。  夕方の最終便に乗った。石垣島でも数日過ごし、飛行機で羽田まで帰る予定だ。  前回と違って、今回は帰れる家がある。向かうべき目的地があり、帰るべき愛しい我が家がある。それはひどく幸福なことだと、身に沁みて知っている。放浪でも、逃避行でもない。今回の旅は、平凡でありきたりな、だからこそ素晴らしい、娯楽としての観光旅行だ。  出港を控え、港には多くの見送り客が集まっていた。港まで送ってくれた民宿の親父も、哲司達を見つけて手を振っている。二人もデッキから手を振った。  ぼおおっ、と力強く汽笛が鳴る。船はゆっくりと離岸する。ハテルマブルーが遠ざかる。潮風が伊依の髪を靡かせる。   「また来ようぜ」    哲司が言うと、伊依は笑う。   「そう簡単に来られる場所でもないだろ」 「けど、人生は長いんだしさ」 「もうお互いおっさんだ」 「俺、今の倍以上は生きるつもりだし」 「はっ。八十過ぎのジジイになるまでか」 「当たり前だろ。もちろん、お前も一緒に老いぼれるんだぜ」    少しおどけた口調で言えば、伊依はつんと唇を尖らせた。照れくさい時、時々こういう顔をする。   「死ぬまでお前を抱くつもりだし。よぼよぼのジジイになってもな。だから、お前には死ぬまで隣にいてもらわねぇと困るんだよ」    伊依は、精一杯の渋い顔を哲司に向けた。   「なにバカなこと言ってんだ」 「バカかな」 「昨日だって、勃つか分からねぇとか言ってたろ」 「でもちゃんと勃ったろ。それに、俺が言ったのは連続は無理かもってだけだし」 「……」 「ちょ、黙んないでよ。あれ、もしかして勃ちが甘かったとか? 実は全然満足してない的な? 結構イキ狂ってたと思うんだけど」 「うるせぇ。もう、黙れ」    肘で脇腹を突つかれる。哲司は伊依の手を捕まえ、指を絡めて握りしめた。伊依は手を振り解かなかった。   「なぁ、また来ようって」 「休みが取れたらな」 「つか、他の離島も行きてぇよな。慶良間諸島とか、ダイビングの聖地だってよ」 「別に、沖縄じゃなくてもいい」 「ああ、だな。じゃあ次は、雪国の温泉にでもする?」 「……どこでもいいんだ。お前といられるなら」    楽園なんて、どこにもない。だが、楽園ならここにある。繋いだ手が、汗でぴったりと張り付いた。  南国の日差しを浴びて、海は青く澄んでいる。今年もまた、夏が来る。

ともだちにシェアしよう!