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第一話 効かない男
深夜二時の玉川上水は、世界から音を間引かれたみたいに静かだった。
桜並木の葉はもうすっかり繁って、まばらな街灯の光を切り絵みたいに切り刻んでいる。緑道の柵の向こう、暗がりの底で、用水路の水がちろちろと流れていた。
今夜、歴史ある用水路には不景気な黄色い規制線が張られている。
俺は顔見知りの地域課の巡査に軽く手を上げて、テープをくぐった。
桃山矢太郎 、三十二歳。警視庁小金井警察署、刑事課強行犯係。交番勤務から刑事になって八年、たいていの現場じゃもう眉ひとつ動かなくなった。所轄の連中からは「桃太郎」だの「桃さん」だの、いいように呼ばれている。図体がでかいのと、この名前のせいだ。鬼でも退治してこいってか。あいにく、きび団子を分けてやる子分の心当たりもない。
なんて軽口を頭の中でこねていられたのは、ブルーシートをめくるまでだった。
仏さんが、笑っている。
引き上げられたのは五十がらみの会社員だ。終電を逃して緑道をふらついていた酔客が、水に浮いているのを見つけて通報した。死因はたぶん溺死。争った跡も、外傷もない。事件性は薄い。普通なら事故か自殺でおしまいだ。
そうは問屋が卸さない。玉川上水で人が水に引き込まれかけたのは、これで三度目だ。前の二度は近くにいた誰かが引っ張り上げて、どうにか助かっている。死人が出たのは今夜が初めてだ。
妙なのは、今の玉川上水がそう深い川じゃないことだ。場所によっては、水深なんてくるぶしもない。大人がうつ伏せにぶっ倒れたって、顔は出る。ここで溺れて死ぬほうがよっぽど難しい。器用なもんだ、と言いたくなるのを、仏さんの前なのでこらえた。
助かった二人は、揃って同じことを言っていたらしい。
——水に、呼ばれた。気がついたら、足が勝手に、水のほうへ向かっていた、と。
しらふの人間が、くるぶしほどの流れに、自分から歩いて入っていく。挙げ句、今夜のこの人は、笑って死んでいる。まだ初夏だ、怪談話にはちょっと早いぞ。玉川上水で入水自殺したって言えば、太宰治だ。文豪の幽霊に呼ばれたのか。
「桃さん、これ、普通じゃないっすよ」
後輩が、声をひそめて言った。
俺は、笑っている仏さんの顔を、もう一度見下ろした。
子供の頃から目の端で実体のないものが動くのを、何度も見てきた気がする。視界の隅をよぎる小さくて素早い影とか、誰もいないはずの場所でうめき声が聞こえるなんてのはよくある経験だ。うちは三代続く警察一家で、基本的にフィジカルの強さで世の中を生きている。幽霊みたいなもんが見えるなんて言った日には、じいさんから眠気覚ましの一発食らって終わりだ。
「普通じゃねえなんてことが、世の中にはたまにあるんだろ」
我ながら、ずいぶんいい加減な返事だった。これ以上の言葉を、俺は持ち合わせていない。持っていたところで、たぶん使い道もない。
そのときだ。規制線の外、街灯の届かない並木の奥に、人の気配がした。
スーツの男が一人。こちらに背を向けて、ゆっくりと立ち去っていく。野次馬にしては、足取りが妙に落ち着いていた。草木も眠る丑三つ時だぞ、興味本位の見学とは思えない。俺はその後ろ姿を追って、声をかけた。
「——ちょっと、すんません」
男は数歩いったところで足を止めて振り返る。ぎりぎりで現場のライトと、規制線の灯りが届く距離だった。
かなりの長身だ。俺も上背があるほうだが、その男は俺よりわずかに高い。大柄で均整の取れた身体に、お値段のはりそうな黒いスーツがよく馴染んでいる。夜だというのにサングラスをかけていて、その下の顔立ちが妙に整っていた。通った鼻筋、細い顎の線。深夜の現場灯に照らされた肌が、フィルターでもかかっているみたいに白くて滑らかだった。
時代劇に出てきそうな面差しだ。今どきの派手な美形じゃなくて、昔の掛け軸から抜け出してきたような品のある雰囲気。
警察じゃなくても、一発で覚えられる人相だ。
俺はこう見えて刑事らしい強面の顔をしている。職質をする際はたいてい相手が緊張するのに、男はにこりとした。人懐っこい、初対面の人間に向けるには、少しばかり距離の近すぎる笑顔だ。
「警視庁の方ですか」
俺が手帳を出すより先に、男のほうが口を開いた。ますます物言いがあやしい。一般の市民は制服だろうが私服だろうが、俺たちを「警察の方ですか」とたずねるだろう。わざわざ「警視庁」と区別している。
「ええ、小金井署の者です。失礼ですが、あなたは——」
言いかけて、俺は妙なものを見た。
男がサングラスをわずかに下へずらした瞬間。背後の規制線の内側で、いっせいにため息が上がる。
ブルーシートの脇にしゃがんでいた、白髪頭の鑑識のおっさんが、ふと顔を上げて、ぽうっとなった。記録用紙を手にした若い女性警官が、ボールペンを取り落とす。仏さんを検分していたはずの検視官まで、手を止めてこちらを見ている。
様子がおかしい面々に男がさらに軽く会釈をすると、現場の空気はいよいよ盛り上がってしまった。
中年の警部補が照れたように咳払いをし、女性警官は両手で頬を押さえ、おっさんの鑑識にいたっては、初恋の人に再会したみたいな顔をしている。深夜二時、死体の上がった川っぺりだというのに、その一角だけ背景に花吹雪が散っていそうな有様だった。
ガキのころに従姉妹に無理やり読まされた少女漫画だ。あの隅々まできらきらした、花びらが散る背景。
いったいぜんたい、なんだこれは。
俺だけが周りの雰囲気に取り残されている。しげしげと男を見つめた。男は困ったようにサングラスのふちを指でなぞり、露わになった目を細める。
「……見つめられると、照れますね」
「あんた、なにもんだ。本店から来たのか」
「いいえ、ただのお役所勤めです」
「お役所の人間が事件現場に来る必要があるか、ことによっちゃ話を聞かせてもらうぞ」
「あなたに隠しごとなどしたくありません。桃山 矢太郎 さん、お邪魔して申し訳ありませんでした。またすぐお目にかかります」
「おい、待てっ——」
立ち去ろうとするのを制止しようとした直後、俺は身動きひとつ取れず、声も出なくなっていた。目を見開いて驚きを隠せないでいると、男はサングラスをかけ直して一礼する。
俺は硬直したまま夜のなかへ歩み去っていく姿を見送ることしかできなかった。普段なら走って追いかけてでも、有無を言わさず身分証を見せろと迫るはずなのに。
しばらく思考停止して、はたと気付く。あいつ、俺の名前を言わなかったか。
俺は一言も名前を名乗っていないし、警察手帳を見せた覚えもない。それなのにあいつは去り際に俺のフルネームを呼んだ。最初から知っていたような口ぶりだ。
「桃さん、どうかしたんすか」
追ってきた後輩に、俺は答えなかった。答えようがなかったからだ。
翌朝、出勤すると課長に呼ばれた。
いつもなら書類を放って寄こすような人が、その朝はやけに改まっている。俺が向かいに座るのを待って、ようやく喋り始めた。
「桃太郎、お前は異動だ」
「はい?」
「出向だよ、二年間。今日付けでな」
課長はコーヒーのプラコップを両手で包んだまま、しばらく黙っている。薄くなって面積の広がった額に、しわをいっぱい寄せた。
「……正直に言うとな。俺だって、引き留めたかったよ。お前みたいな叩き上げで、妙なところで勘が利く刑事は、そうそういないからな。一緒にやってきて、八年だぞ」
課長とは俺が刑事になりたての頃からの付き合いだ。現場で怒鳴られたことも、帰りに一杯おごってもらったことも数えきれない。こんな顔を見るのは初めてだった。への字に結んだ口が、何度かほどけては結び直される。
「だがな、これは俺の一存でどうこうできる話じゃない。上の、もっと上の、そのまた上から、名指しで降りてきた」
課長は一語ずつ、置くように言葉を続けた。
「内閣官房の直轄で、特殊霊異対策室、っていう部署だ……俺も、詳しいことまでは知らされちゃいない。ごくまれにお前みたいなのがあそこに引っ張られていく。どうしてお前なのか、ってのはうすうす、見当はつくがな」
カップに目を落として、ぽつりと言った。
「お前はガキの頃から変なものが見えたりしなかったか」
ガキの頃から心当たりなら腐るほどある。ここで「はい、見えます」と認めるのは、八年やってきた刑事のプライドが許さなかった。往生際が悪いが、黙ってしまう。
「……いいんだ、言わなくて」
ふっと笑った。
「悪い話じゃないらしい。あそこを出た奴はたいてい良いポストで戻れるんだと。二年だけだ。二年の辛抱だと思って、行ってこい」
「けど、昨夜の仏さんの件は」
「こっちの手を離れた。やっこさんたちの管轄だとよ」
課長は大きなため息をつき、「ちょっと一服してくるわ」と俺の肩を叩いた。それまでに荷物をまとめて行け、ということだろう。課長らしい別れ際だ。
警察の異動命令は絶対だ。もとより私物を持ち込むタイプじゃない。残るものは未解決のヤマだけ。最後まで関わりたかったが、仕方ない。後ろ髪を引かれる思いで八年通った刑事部屋をぐるりと見回し、指定された霞が関へ向かった。
「はあ、こんなとこなんだな」と俺はおのぼりさん丸出しで中央合同庁舎のエントランスをくぐる。練馬区生まれ練馬区育ち、警察学校も府中で、今の所属も小金井署と来たもんだ。都会のど真ん中には縁がないし、お偉いさん方のいる中央なんてもっと縁がない。
指定されたのは中央合同庁舎の第二号館だった。これがまた、引っかかる。
二号館といえば、総務省やら消防庁やらと並んで、警察庁が入っているビルだ。警視庁の人間なら、誰でも知っている。俺たち都道府県警察を上から束ねる、霞ヶ関の本丸。所轄の刑事が足を踏み入れるような場所じゃない。
異動先は内閣官房直轄の部署のはずだ。どんな事情で警察庁の城に内閣官房の看板がぶら下がってるんだ。
受付で来意を告げると、警備員は俺の身分証をちらりと見て、なにも言わずに通した。内閣官房がどうこうという話はいっさい出ず、ただ「地下へ」とだけ告げられる。
案内された先は、警察庁のフロアを抜けたさらに奥。一般の省庁のIDじゃ入れない区画らしく、扉がいくつも続いている。控えめに言って不気味だった。
そのいちばん奥にあったエレベーターに乗って地下まで降りる。着いた先の質素な扉に「特殊霊異対策室」と書かれたプレートが、ぽつんと掛かっていた。看板の立派さに対して、扉のしょぼさが目立つ。
ノックをして「失礼します」と声をかけてから、おそるおそる中へ入った。
部屋は思ったより広い。古い和綴じの書物が並ぶ棚、デスクトップパソコンとラップトップ、現代的な事務机。壁にものものしい筆跡で書かれた御札が貼ってあり、机の上には和紙の束がいくつも置いてある。けったいな香りの煙まで漂っている。神社と寺を煮詰めて、警察署で割ったような、奇妙な部屋だ。
奥のデスクで、誰かが立ち上がり、こちらへ歩いてくる。
シルエットからも察せる、うさんくさい雰囲気。やたら高そうな黒いスーツ。部屋の中だってのにサングラスをかけている。人懐っこい笑み。
「お待ちしておりました、桃山刑事」
昨夜の男だった。
「お、お前!」と思わず指を差してしまう。
「改めまして。三条衣織 と申します。今日から、あなたの相棒を務めさせていただきます」
俺があっけにとられて口をパクパクさせていると、奥から和服の女性が現れた。五十がらみだろうか。シルバーグレイの髪をきっちりと結い上げ、背筋がぴんと伸びて、立ち姿に隙がない。目元は一切笑っていないが、きれいに引かれた口紅の端がゆるんでいる。一目でここの主だとわかる佇まいだ。俺は居住まいを正した。
「いらっしゃい、桃山刑事。久世千鶴 です。ここの室長を預かっています」
「本日付で出向に参りました、小金井署刑事課、巡査部長の桃山矢太郎です」
久世 さんは頷いて俺に椅子を勧めると、自分も向かいに腰を下ろして、改めて俺の顔を上から下まで、ひとわたり眺める。
「いい面構えね、根性がありそうです」
物言いは落ち着いていて、それでいて、どこか世話好きの気配があった。
「さあ、桃山くん……そう呼ばせてください。あなたは私が無理を言って引っ張ってきた人材です」
俺も久世さんの姿を眺め回した。日常で、しかも勤め人が着物姿というのは違和感しかない。基本的に地味なスーツか制服の世界で生きていたし、この部屋が醸し出す異様さも相まって、俺は少々面食らっていた。微笑を浮かべて俺を見つめている三条 とやらが、そばに立っているのも気に食わない。
「単刀直入に言うわね。あなたは「見える」血筋なの。お祖父さま、そうだったでしょう。とても優秀な方でしたね」
心臓がいやな具合に跳ねる。祖父の話をこんな場所で、初対面の女性から出されるとは思わなかった。祖父は元警視庁の刑事で、それなりに鳴らした人だったと聞いている。聞いている、というのは、本人の口から聞いたことが一度もないからだ。武勇伝なんかいくらでもありそうなのに、自分の話をしたがらなかった。久世さんは祖父を知っているみたいにさらりと言う。
「娘さんであるお母さまも、実は気配ぐらいなら感じているはず。今も現役の警察官でいらしているのね。亡くなられたお父さまは、自衛官だったでしょう。まったくその力がない方です。あなたは強くおじいさまの気質を受け継いでしまった、つまり隔世遺伝なんでしょうね」
俺の経歴ならいくらでも調べることはできるだろうが、どうしてちょっと人と違うものが見えるという俺や、じいさんたちのことを知っているのか。俺がまだガキの頃、幽霊が見えると泣くので、じいさんは「ありゃ、放っておくんだ」と教えてくれた。見えるとも見えないとも明言しなかったが、俺と同じものが「見えていた」と思う。
寡黙なじいさんのことだ、他言などしない。なぜ久世さんが。
「我々はね」
久世さんは、声を少しだけ落とした。
「表向きは、明治三年に解体されたことになっている、陰陽寮の末裔。肩書としてはもう存在しない陰陽師の集団です。お役所の上では、内閣官房の、地味な事務方ということになっているけれど。あなたみたいに見える人を、警察からときどきお借りしているの」
「……お、陰陽師? 実在するんですか」
「ええ、もちろん。安倍晴明だって歴史上の人物ですからね。二十一世紀にもなって、と、自分でも思うけれど」
久世さんは、おかしそうに目を細めた。それからみずからの後ろに立っている男のほうへ、軽く手のひらを向ける。
「あなたのバディが、そこの三条衣織 。うちで一番のベテランです。腕は確かだから、安心してください。彼のことは、おいおい、本人から自己紹介してもらって。私が先回りするのは、野暮だものね」
俺のキャパはもはや限界ではあったが、なんとか後ろを睨みつける。三条はにこにこと笑っているだけだった。なにひとつ答えるつもりはないらしい。俺はずっと引っかかっていたことをぶつけてみた。
「あんた。昨日、俺の名前」
「ああ」と、三条は悪びれもしない。
「先に存じ上げておりました。引き継ぎ書類で」
引き継ぎ書類なあ、と一瞬だけ納得しかけて頭を振る。
辞令が出たのは今朝だ。引き継ぎ書類なんてものがあったとして、作られたのはどんなに早くても今朝しかない。なのにこいつはゆうべの時点で、現場で、もう俺の名前を呼んでいた。
順番がおかしい。
はっきりそう思ったはずだが、その違和感は口に出すより先に、指の間から砂がこぼれるようにするりと消えた。この男ならさもありなんと、どういうわけか納得してしまったのだ。
あとに残ったのは妙に据わりの悪い、それでいて嫌いになれない感じだけだった。
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