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第二話 水に呼ばれて
めくるめく非現実の世界にひと息つく暇も、茶の一杯もなかった。久世 さんは立ち上がりざまに、さらっと情け容赦なく仕事を放って寄こす。
「ごめんなさいね。さっそく、ひとつお願いしたいの。玉川上水、小金井橋のあたり。水死体が上がったことは承知のとおり。あなたも心残りがあるはずよ、行ってきてください」
言い方こそ砂糖菓子みたいに柔らかいのに、断る選択肢がそもそも存在しない響きだった。やはりこの人がここの主なのだと、初日にして思い知る。オンボーディングなんてものはない。ここでも俺がやることは泥くさい現場仕事だ。
ゆうべ仏さんが出た玉川上水には、心残りが大いにある。幸せそうな笑みを浮かべて死んでいた男の、本当は死にたくはなかったであろう無念を晴らしたい。
三条 とやらのお手並みを拝見しようじゃないか。信じたくはないが被疑者が怨霊だの呪いだのだったとして、刑事の俺が手錠をかけられるわけがない。実体がないんだからな。
霞が関から小金井まで、下道なら小一時間はかかる。対策室には公用車があるというので、三条が運転を申し出た。
地下の駐車場へ降りると、黒塗りのセダンが一台停めてある。やたらと磨き込まれてぴかぴか光っていて、社用車というよりその辺の重役の愛車だ。よほど大事にしてるんだろうな。公的機関なのだし、血税で賄っているので当たり前か。そう思いながら近づくと、三条は運転席に乗り込むかと思いきや、なぜか助手席のほうへ回り込んで、すっとドアを開けた。
「あなたをお乗せするので、きれいにしておきました」
俺に向かって、うやうやしく手のひらを差し向けてくる。
「……なんだよ」
「お乗りください、桃山 刑事」
「いや、自分で開けるけど」
刑事だぞ、俺は。お偉いさんでもないし、相棒にドアを開けてもらって、お姫さまみたいにしずしず乗り込むわけがあるか。字面を想像しただけで、こめかみが痒くなる。思わずまじまじと、三条の顔を見てしまった。
すると三条のほうも、そこで初めて自分の行動に気づいたらしい。開けたドアに手を添えたまま、一瞬だけ動きが止まる。サングラス越しでもわかるくらい明らかにしまったという顔をした。
「……ああ。これは、失礼を」と軽く、目を伏せる。
「つい、いたしまして」
「つい、ってなんだよ」
「いえ……長い、癖のようなもので」
「変な癖だな。前の相棒にも、いちいちドア開けてたのか」
「いいえ」
三条はやけにはっきりと、即答した。
「あなただけ、です」
……なんだそれ。口説いてんのか。
突っ込もうとしたが、三条は何事もなかったようにドアを押さえたままだ。笑顔で突っ立って、動く気配がない。根負けしてばつの悪い思いで、助手席に乗り込む。後ろでぱたん、と、やけに満足げな音を立ててドアが閉まった。
なんなんだ、こいつは。
走り出した車のなかでも、引っかかりはしつこく胸に残った。長い癖、あなただけ、すべてが謎すぎる。この半日、俺は混乱しっぱなしだ。
考えても答えの出る気がしない。早々に降参して、窓の外を流れる甲州街道をぼんやり眺めることにする。
現場に着くと、見知った顔がいた。所轄時代から世話になっている、地域課のベテランだ。
「お、桃太郎。新顔じゃねか、お供を連れてんのか」
「こいつは俺の出向先の人間で、てかお供って——」
「きび団子、くださいにゃあ」
横から、三条が、しれっと出てくる。
微妙な沈黙のあと、ベテランは「面白い兄ちゃんだな」と豪快に笑って去っていった。
「お供に猫はいねえだろうが」
「かわいい猫ちゃんも必要かなと思いまして」
どのツラして、かわいいだ。自動販売機サイズのくせに。ため息一つで、俺は今日何度目か考えることをやめた。
俺の気も知らないで、マイペースに三条は橋の上に立ち、欄干から水面を見下ろす。
「ここはね、桃山刑事。結界の管轄外なんですよ」
三条は、欄干に肘をついて、ゆっくりと続けた。
「東京という街はね、ぐるりと、一枚の大きな結界で囲まれているんです。陰陽寮が明治から大正にかけて、四十年ばかりかけて組み上げたものでして」
「……四十年って」
「街そのものを術で守るというのは、それくらい手のかかる仕事なんです。とはいえ、なにもないところに、いきなり線を引いたわけじゃありません。すでにそこにあるものを、結界の骨組みとして使いました」
防衛や都市開発といった一般的な話じゃない。三条の話は理解の範疇をまたもやK点超えしていった。
「たとえば、鉄道です。山手線がぐるりと環になっているでしょう。あれはただ人を運ぶためだけの環じゃない。あの環の内側を、邪なものが容易には荒らせないよう、結界の縁取りにしてある。中央線は、その環から武蔵野へまっすぐ西に伸びていく、いわば補助線です。それから、五色不動 。都内に点々と祀られている五つのお不動さまが、結界の要所要所を地面に留めておく、杭の役目を果たしています」
毎朝のように乗っているオレンジ色の中央線、あれが結界の一部なのか。にわかには信じがたい。眉唾ではないのだろう。久世さんが言う通り、こいつらは明治に解体されたはずの陰陽寮なのだ。連綿と続く呪術によって日本を守る組織。オカルトや迷信なんぞ信じていない俺だが、目の端でちらつく影の存在なら嫌というほど実感している。
普通じゃねえなんてことが、世の中にはよくあるってことだ。
「で、ここがその管轄外ってわけか」
「ええ。玉川上水は、その環の、ずっと外を流れています。江戸の頃からある古い水脈なのに、明治の結界にはついに組み込まれなかった」
三条は、足元の細い流れに、目を落とした。
「だから結界の内側なら、とうに祓われてしまっているような古いものが、今でも、ひっそりと棲みついている。さっきの水妖も、その一つです」
「祓われずに、残ってる、ね」
「ええ。本来は人に悪さをするようなものではないんですけどね」
「ふーん」
理解できないながらも、思ったよりすんなり頭に入ってきた。三条は懐から透明な液体入りの小瓶を取り出し、橋の上からほんの少量を水面に撒いた。
水面にほんの少し、紋様が浮かぶ。
陰陽道のことなんかなにひとつ知らない、俺の目にもそれは見えた。驚きを隠せない俺に、くすりと微笑む。「これは塩水に呪 をこめたものです」
「これが水妖なのか」
「これから呼びます。玉川上水に古くから棲む小さな精です。なにかに反応して、人を呼んでしまっている」
呼ばれた、というのは、助かった二人の証言と一致する。言葉通り、呼ばれていたのか。
俺が言葉を探しているあいだに、三条は懐から和紙で作られた人の形のようなものを取り出した。
「河臨祓 、というものです」
三条は人形 を指先で軽く掲げてみせた。
「河や池、水辺で行う古式の祓いです。この人形に穢れを移して、水に流す。陰陽師が千年やってきた、由緒正しいやり方ですよ」
欄干から水面へ落とすと、紙の人形はくるりと一回転して流れに乗る。
それから三条は欄干に両手をかけ、軽く目を伏せて、水面に向かって、低く呪文のようなものを唱えはじめた。
「南斗北斗 、三台玉女 、左青龍 、右白虎 、前朱雀 、後玄武 、前後翼輔 。急々如律令 !」
どんな意味なのかはわからない。古い言葉のようでもあるし、ただの音の連なりのようでもある。声はささやくほどに低いが、その一音一音が静かに流れる水の音にすうっと溶けて、届いていくのがわかった。
指の運びがいちいち無駄なく美しい。首をわずかに傾ける角度、声を落とす間合いも、様になっている。長い指が宙に印を結ぶたび、空気がほんの少し張り詰める。
よくできた操り人形を見えない誰かが動かしているようだった。生きている人間の動きとはどこか違う。何百年も同じことを繰り返してきた者の手つき。
そんな言葉がふと頭をよぎって、自分でもなぜそう思ったのかわからなかった。
水面の紙人形が、ふいにぴたりと止まった。流れに逆らって、その場に留まっている。
「来ます」
三条が低くつぶやくと、紙人形のまわりの水が内側から押し上げられるように、ぷくりと盛り上がった。
透き通った大きなものが、水中で身じろぎする。形ははっきりとは見えない。ただ水のうねりと光の屈折だけが、存在を告げている。
三条は声の調子をほんの少しだけやわらげる。叱るのでも、追い払うのでもない。むずかる子供を寝かしつけるような響きだった。
水のうねりが、少しずつ収まっていく。
もう一息、というところだった。
水妖が最後にひとつ大きく身をよじったらしい。水面が跳ね、しぶきが三条の顔にかかる。三条は反射的に、サングラスをずらした。
しんと静まり返っていた世界が急に騒がしくなる。
橋の向こうで散歩中の犬が、狂ったように喜んで吠え、リードを持った小学生が硬直した。そのすぐ脇で通学途中の女子高生が三条に見とれて、電柱に額をぶつける。通りすがりのおっさんが、「……きゃっ」とつぶやいて両手を口元にやって頬を赤らめる。
オーケー、オーケー。大丈夫だぞ、奇怪な出来事には慣れ始めた。俺だってなあ、高校卒業して交番勤務から、酔っぱらいだのストーカーだの反社会的勢力だのと対峙してきたんだ。こんなの、たぶん大丈夫だ。
俺はこめかみに手をやって、しばらく揉みしだく。もう理由なんて説明されても理解できない。いくら美形だからって、そこまでの反応をしなくたっていいだろう。
俺は違う世界にでもやって来てしまったのか。
三条はしぶきを拭きながら、サングラスの外れた素顔でこちらを見る。笑っているようにも見えたし、泣きそうにも見えた。長いあいだ探していたものを、ようやく見つけた人の顔のようにも、見つけてしまったことを、どこかで少し悲しんでいる人の顔のようにも。なのにその奥にあるものは、俺にはまるで読めなかった。
ひとつ引っかかったのは、初対面の相棒に向けるには切羽詰まりすぎた表情だったことだ。
もっとも根拠はない。刑事の勘なんてけったいなものでもなく、ただの感想だしな。
「……やはり、効かないようで」
「なにがだよ」
「こちらの話です」
「物騒なツラだな。しまっとけよ」
俺がそう言うと、三条は少し意外そうに眉を上げた。今度はずっと人間くさく吹き出して、サングラスを掛け直す。
「不可抗力です」
立ち上がりかけて、三条の視線が岸辺の草むらに向けられる。歩み寄ってしゃがみ込むと、「桃山刑事、これを」と指さした。
小さくて赤い、乾いたほおずきの実だった。
「ほおずきか、これ」
「ええ」
しゃがんで、その実を覗き込む。よくある夏の実だが、今は五月だ。ほおずきが赤く色づくのは夏の盛りの七月と八月。それがこんなに乾ききって、川べりの草むらに落ちている。
この一帯にほおずきを植えている家も鉢も見当たらない。誰かがわざわざここまで持ってきて落としたか、あるいは置いたということだ。妙なことにたった一個だけ。
「なあ。これ、季節、外れてねえか」
「ええ」
「だいたい、なんでこんな場所に、ほおずきが一個だけ……」
言いかけて、俺は口をつぐんだ。
三条が沈黙して答えないからだ。
訊いてもいないことまですらすら講釈を垂れる男が、今はその赤い実をじっと見下ろしたままなにも言わない。口元から、さっきまでの人懐っこい笑みがすっかり消えている。
現場で何度も嗅いだにおいだ。これは作為的なものであり、事件のにおいがする。
やがて三条は懐から取り出した和紙でそのほおずきをそっと包んだ。またけったいな文字が書かれている。壊れ物でも扱うような、ずいぶん丁寧な手つきだった。
「……拾っておきます」
「心当たりでもあるのかよ」
「……あると言えばあるのですが、確信が持てないのでひとまず預からせてください」
三条は、ようやくいつもの笑みに戻る。
確信ありありの雰囲気だが、三条は説明しようとしない。ほおずきを包んだ紙を大事そうに胸の内ポケットへしまっただけだった。
昼下がりの玉川上水は、すっかり日常の風景に戻っている。穏やかにちろちろと水が流れていた。俺たちは車を停めた場所まで向かう。
「お疲れ様でした、桃山刑事」
「呼び方、堅すぎねえか。あんた警察じゃねーんだろ。呼び捨てでいいけどな」
「とんでもない……恐れ多いです」
恐れ多いって。俺はもはや突っ込むことも疲れて、好きに呼ばせることにした。三条の役職なんぞ知らないが、いちばんの古株ならそれなりのポジションだろう。俺より年下っぽいのにいちばんの古株ということは、任期自体が短いんだろう。
陰陽師って異動できんのか。もしくは天下り先でもあるんだろうか。そもそも、特殊霊異対策室のやつらは正規職員なのか民間職員なのか。その謎を解明すべくアマゾンの奥地へ向かう気力は、俺にはない。
並んで歩くとあらためて思うが、三条は背の高い男だ。俺もたいていの相手は見下ろす側だけど、こいつの横だとわずかに見上げる側にまわる。鍛えているのか、身体つきもデカい。
三条はしばらく無言で歩いていたが、ふいにこちらへ視線を向けた。サングラスごしに、しげしげと俺の横顔を見ている。
「桃山刑事は……いいお顔をしていらっしゃると思いまして」
「……からかってんのか」
「おや、真面目に言ってますよ」
「物好きだな、お前」
照れ隠しと気づかれない程度に、ぶっきらぼうに応える。正直、悪い気はしなかった。三十二にもなって、面と向かって顔を褒められることなんてそうそうない。顔に出すのは負けた気がする。誰に負けるのかは、自分でもわからないが。
俺が前を向くと、三条はなにか言いたげに口を開きかけてやめた。代わりに、ほんの少しだけ困ったように笑う。その笑い方が妙に引っかかった。
なぜそんな顔をするのか。こいつ、今日、何度こういう顔をしてるんだ。車のドアのとき、しぶきを浴びたとき、ほおずきのとき。そして、今だ。
詮索したところで、どうせはぐらかされる。三条の性格は半日一緒にいて、もうわかった。
俺は足元を流れる細い水を見下ろす。
「この水、本当に四百年も流れてんのか」
「江戸の頃から。古い水脈ですよ」
「ふーん」
おかしな一日だった。
昨日まで俺は事件が起きればかけつける、まっとうな所轄の刑事だった。それが一晩明けたら、水の妖怪だの結界だのほおずきだのと言う、得体の知れない男の隣を歩いている。
それにしても俺の地元が、こんなおかしな目に遭っちまって。
死んだ親父と同じ自衛官に憧れて、地方の駐屯地に行く道もちらっと考え、志願しようとして原因不明の高熱にかかり、十八でそのまま警視庁に入った。気づけば生まれた練馬から東小金井へ移っただけ。警察一家の、判で押したような三代目だ。ずっと武蔵野台地の上にいる。
地元から出られない星の下に生まれたらしい。
普通じゃねえなんてことが、世の中には、これからは高頻度であるんだろう。うちに帰りたい。
「桃山刑事。もう一件、気になる動きがあるんです。武蔵野市のほうで」
「また近場だな」
「ネットで素人の呪術が出回っている。それだけなら効果もないし、見過ごしてもいいんですが、『マナの呪術講座』を運営する人物がきな臭いのです。フリマアプリを使って悪質な護符を販売しています」
三条はサングラスごしに俺を見た。
「陰陽師が書く霊符 はきちんとした手順を踏み、形式を重んじます。素人がやろうとしても、まったく効かないんですが……ちょっと気になりまして。次はこちらを調査しましょう」
「なんだよー、またそういうのかよ」
「慣れてください」
三条は口元だけで、やわらかく笑った。
「お付き合い、いただけますか。桃山刑事」
「……ああ。行くよ」
三条は満足そうに頷いて、歩く速度を少しだけ俺に合わせた。
胸元の、スーツの内ポケットのあたり。和紙に包まれた小さなほおずきが、歩みに合わせてことりと、揺れた気がした。
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