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第四十二話 ほおずきは灯る

 数週間後の高尾山は、初夏の緑に埋もれていた。  薬王院の裏手、あの岩場。砕けた磐座(いわくら)の跡に、小さな祠が建っていた。木の香りがまだ新しい。祠の中に、金文字のガラス器が納まっている。  奉納の儀は、驚くほど静かだった。  神主の資格を持つ久世(くぜ)さんが祝詞(のりと)を上げて、陰陽師の代表が数人、頭を垂れている。天狗たちが岩場をぐるりと囲んで、羽をたたんで控えていた。あの決戦の日と同じ顔ぶれで、誰も血を流していない。それだけで上等だ。  儀が終わると、長老が杖をついて祠の前に進み出た。 「この山の番、たしかに引き受けた!」  しわがれた声が岩場に通る。盲目の長老が見えないはずのガラス器をまっすぐに向いていた。 「ワシらは死ぬが、山は死なぬ。番は途切れぬよ。二百年経てば次の代が継ぐ。そのまた次も、次もじゃ」  永遠の番人はいないが、番は永遠に続く。七百年、代われる者のいない役目をひとりで抱えてきた男の隣で、俺はその言葉を聞いていた。  衣織(いおり)は、なにも言わずに祠から目を離さない。 「して、玄昌(げんしょう)杉若坊(すぎわかぼう)。おぬしらの代の番、しかと務めよ」 「はっ。拙僧、命に代えましても」 「ワシもじゃ! ……時に長老、番のあいまに動画を撮るのは構わんかの」  岩場の空気が固まった。 「修行仲間の山伏にすまほをもろうた。祠の前で舞う天狗、絶対にばずると思うのじゃ。てぃっくとっくに、番人ちゃんねるを」 「拙僧は反対したのですぞ、長老。ぽっどきゃすとのほうがこんてんつとして面白かろうて」 「たわけ者がァッ!」  長老の一喝で天狗どもが首をすくめた。久世さんが袖で口元を隠している。華奢な肩が震えていた。 「のう、三条(さんじょう)どの」  玄昌がのっそりと歩み寄ってきて、俺と衣織を順に見た。それからなにやら得心したように、ふむ、と鼻を鳴らす。 「主をやりこめるとは、おぬしもすみに置けんわい」 「……なんの話でしょう」 「なんの話かのう。かっかっか!」  長老が呵々と笑い、天狗どもがいっせいに羽を鳴らした。衣織が珍しく返事に詰まっている。俺はといえば、やりこめられた主とやらに心当たりがありすぎて、顔が上げられなかった。  解散の段になって、衣織は祠の前で長いこと黙っていた。手も合わせず、頭も下げず、ただ見つめている。 「七百年、あれを守ることが私の役目でした」と、誰に言うでもなく。 「あなたが新しく封じ直して——こうして山に納まった。もう私でなくてもいい」  衣織の横顔は晴れていた。役目に蓋が閉まる音を、俺は隣で聞いた気がする。  帰り際、祠を振り返った。  夕暮れの岩場から、穏やかな東京が一望できる。庚人(かのと)が呪詛しようとした街だ。あの灯りが、これから毎晩、この祠の足元に広がる。七百年前にこの山で封じられた男は、永遠に自分が滅ぼし損ねた街の夜景を眺めて過ごすことになる。  せいぜい悔しがって眠ってろ。願わくば、もう二度と目覚めないでくれ。  対策室は、あれから書類の山に沈んでいる。  封印がひとつ吹き飛んで、建て直したのだ。報告書だの申請書だの、霞ヶ関の紙の呪いは陰陽師にも容赦がない。久世さんは連日、額のガーゼも取れないうちから電話と判子に追われている。今朝も内閣官房のお偉方に何時間も説明していた。世界を救った女傑の戦後は、思ったより地味だった。 「桃山(ももやま)くん、次はあなたの番ですからね。決裁、三件溜まっていますよ」 「うへえ、承知っす」  俺の戦後も地味だった。  高遠砂月(たかとおさつき)は逮捕のあと、取り調べが続いている。  担当はあの捜一の刑事だ。対策室にも調べの経過が回ってくる。意外なことに、砂月(さつき)は素直に喋っているらしい。鬼灯衆(ほおずきしゅう)の組織図、金の流れ、御子柴(みこしば)に指示した内容まで、問われれば淡々と答えているという。 「憑き物が落ちた、というやつでしょうかね」  報告書をめくりながら、衣織が言った。  どうだろうな。憑き物なんて上等なもんじゃない。砂月の中にいたのは、生まれたときから聞こえていた声だ。それが消えて、空っぽになって、空っぽのまま問われたことに答えている——そんな気がする。埋め直すものを見つけるのは、これからだ。裁きを受けて、務めを果たして、その先でわかること。  逃げんなよ、ともう一度だけ思った。  神楽坂に帰り着いた頃には、夜になっていた。  飯を食って、風呂に入って、ソファに並ぶ。衣織はほうじ茶、俺は缶ビール。すっかり定位置になった並びだ。  俺はポケットからポチ袋を出した。 「ほら」 「……なんですか?」 「いいから開けろ」  衣織がポチ袋を開けると、掌の上に小さな鈴がころりと転がる。銀色の、なんてことのない鈴だ。ゴーグルを買った百均で見つけて、気づいたら買っていた。  衣織が首をかしげて鈴を見ている。俺の意図に気づいていないらしい。 「猫には鈴だろ」  照れくさくて、理屈をつけた。 「お前、気配消してどこにでもいるからさ。鈴くらいつけとけ」  契約で魂が結ばれてるんだ。本当は鈴なんか要らない。ただなんとなく、渡したかっただけだ。鈴でもつけろって、こいつが言ってたから。  衣織が鈴を指先でつまんで、ちりん、と鳴らした。  小さい音が部屋に落ちて、空気を震わせて消える。 「……大切にします」  声が少しかすれていた。衣織は鈴を両手で包んで、しばらく黙っていた。いちいち大げさだ。  間を置いて、切り出した。 「矢太郎(やたろう)さん。ひとつ、白状することがあります」 「なんだよ、改まって」 「あれね、賭けでした」  湯呑みの横に鈴を置いて、衣織はまっすぐ俺を見た。 「儀には識神(しきがみ)の消滅が必要——あれは本当です。室長も私も心から信じていました。私はおのが宿命を受け入れて消えるつもりでした」 「……知ってる」 「ですが、ひとつだけ」  衣織の指が、鈴にふれた。 「根拠なんて、どこにもありませんでしたが。私が食う約束をやめると告げたとき、あの方は、ああそうか、とだけおっしゃいました。恩に着せもせず、理由も訊かず。そのくせご自分の約束は、どんな小さなものでも違えたことのない方でした。そういう方が、転生などという大それた道を選ぶとき、識神の行く末だけ考えずにおくはずがない。きっと、私を救う道も遺してくださっている。そう信じました」 「……信じただけかよ。それだけで」 「それだけです。しかも、たとえ道があったとして、それを拾うのはあなたです。強要はできません。教えることも、頼むこともできない。あなたが自分で気づいて、自分で選ぶのを、信じて待つしかなかった」  衣織の声は静かだった。 「負けても、消えるだけです。それは最初から決まっていた運命ですから、失うものはなにもない。だから私は、消える前にひとつだけ、自分のために願うことにしました」 「……願うって、なにを」 「あなたの心が、私に向くように」  金色の目が、揺れずに俺を見ていた。 「役目のためではありません。儀のためでもない。消える前に一度だけ、あなたに——桃山矢太郎(ももやまやたろう)に、愛されてみたかった。七百年で初めて、自分のためになにかを欲しがりました。それが賭けの正体です」  缶を持つ手が止まっていた。中身はとっくにぬるい。  思い返せば、心当たりだらけだった。  丁寧に俺を扱って大事に守る、あの距離の詰め方。俺の名前を呼ぶ時の優しい声色。消滅すると俺に告げたあとも変わらなかった、あの張りつめた健気さ。全部、消える前提の男が、最後にひとつだけ欲しがったものの形だった。 「私はあなたが欲しかったんです」  ずるい告白だった。策略と呼ぶには、いじらしすぎる。  衣織が、目を伏せた。鈴を見て、それからまた俺を見た。 「あの岩場で、あなたが私の手のひらに霊符(れいふ)を書いてくださったとき——ますます惚れ直しました。ああ、この方は拾ってくださった。宗孝(むねたか)さまの遺したものを、私の七百年を、ぜんぶ。あなたはご自分でもわからないまま、書いたのでしょうけれど」 「悪かったな、わからないままで」 「いいえ。わからないまま賭けてくださったから、なおさらです」  俺は自分の気持ちの出どころを疑ったことがある。衣織を好きなのは俺なのか、宗孝の残り香なのか。答えはまだ出ていない。たぶん一生出ない。でも、こいつだって同じだ。七百年の役目と、七百年の恋を、こいつ自身もう切り分けられない。お互いさまってやつだ。 「……お前も博打打ちかよ」  やっと出た言葉が、これだった。 「宗孝は転生に七百年賭けた。お前は死んだ主のお前への信頼に賭けた。で、俺はなんだかわからねえまま霊符を書いたってか。揃いも揃って、よくやるな」 「今なら万馬券もあたりそうですね」 「……ああ、買ってみる?」  衣織が笑った。声を立てて、肩を揺らして。それから笑いの余韻を残したまま、ふっと目を細めた。 「私はね、本来なら、矢太郎さまとお呼びしたいのですよ」 「やめろよ、それは。ぞわっとする」 「ふふ。そうおっしゃると思いました」  わかってて言ってやがる。衣織が鈴をつまみ上げて、もう一度鳴らした。  ちりん。  窓の外に目をやると、神楽坂の街に灯りがともり始めていた。坂の下から順に、ぽつ、ぽつと。飲み屋の提灯、家々の窓、遠くのビルの窓明かり。小さな朱色の灯りが、夜の底に次々とともっていく。  ——ほおずきみたいだ。  ずっと嫌な色だった。事件のたびに現場に転がっていた、あの朱色。七百年の因縁の色。それが今は、ただの街の灯りに見える。誰かが帰ってきて、誰かが飯を食って、誰かが眠る、その数だけともる灯り。  隣で衣織が、同じ景色を見ていた。  ちりん、と、手の中でまた鈴が鳴った。  ―了―

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