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【R-18】第四十一話 後追い

 帰りの中央道は、行きと同じくらい空いていた。  ハンドルは衣織(いおり)が握っている。俺は助手席で泥みたいになっていた。身体のあちこちが痛い。霊力とやらを使った反動なのか、骨の芯まで疲れている。 「ジャパニーズ・オカルティック・パワーの、歴史的勝利ですね」 「いまだに信じられねえ……」 「素晴らしかったですよ、矢太郎(やたろう)さんには才能があります」  行きの車内ではひとことも喋らなかった男が、いつもの調子で喋っている。ただハンドルを握る手だけは、指の節が白くなるほど固い。まだ現実感がないのは、俺だけじゃないらしい。  バックミラーの中で高尾山が遠ざかっていく。あの山のどこかに、ガラス器に納まった庚人(かのと)がいる。七百年ぶんの決着が、あっけないほど静かに後ろへ流れていった。  車は神楽坂の衣織のマンションへと向かう。俺の避難生活の荷物がまだ置いてあるし、なによりふたりとも、あの部屋に帰るのが当たり前みたいな顔をしていた。  玄関で靴を脱いだ瞬間、どっと重力がやって来る。  相変わらず生活感のない部屋だ。白い壁、白いカーテン、フローリング。テレビ台の端では、塗装の剥げたゴジラが今日も鎮座している。数日前、俺はこの世の終わりみたいにショックを受けていたが、もし下手をこいていたら本当に世界が終了するところだった。  同じ部屋に、俺たちは生きて帰ってきている。  交代で風呂に入って、ソファに並んだ。衣織が冷蔵庫から缶ビールを出してくる。俺のために買い置きしてあるやつだ。自分はほうじ茶の湯呑みを両手で包んでいる。 「なあ。識神(しきがみ)って、なにすんの?」 「なに、とは」 「いや、俺、主なんだろ。契約したんだよな。でも識神がなんなのか、実はよくわかってねえ」  契約してから中身を訊く奴があるか。我ながら順番がめちゃくちゃだ。 「主の命に従い、術の補助をし、身辺を守護します。契約で魂が結ばれていますから、あなたの居場所は常にわかりますし、危機には駆けつけます」 「ふうん。今までと変わんねえな」 「ええ。七百年やってきたことと、ほとんど変わりません」 「じゃあ、俺が死んじまったらお前どうなんの」  衣織が湯呑みを置いた。 「識神は本来、主の寿命とは関わりなく在るものです。ただ——私のような妖怪や、力を持つ付喪神(つくもがみ)が識神になる場合は、独自の契約を結ぶことがあります」 「それってたとえば?」 「宗孝(むねたか)さまとの契約は、あの方の肉をいただくことでした」  ビールが気管に入りかけた。 「……は、食う? 主を?」 「ええ。猫又(ねこまた)にとって、力ある術者の肉と魂はなによりのご馳走ですから。行き倒れていた私を拾ってくださったとき、そういう約定で識神になりました。お役目の間はお仕えして、あの方が亡くなるときに、身体をいただく」 「お前……」 「もっとも、お仕えしているうちに、やめることにしましたが」  絶句している俺にかまわず、衣織はほうじ茶をひとくち飲んで喋る。飯の献立でも語るみたいな顔で。 「あの方と暮らし、有能なくせにどこか抜けていたり、下手くそな笛を楽しげに吹く姿なんかをずっと見ていたら、食欲が湧かなくなりまして。妖怪としては失格です」  庚人の件の前だ。役目もなにもない頃に、こいつはもう食うのをやめていた。 「宗孝さまが亡くなられたら、あとはご子孫にでもお仕えしようかと、そのくらいに考えていました。——庚人の件が、あるまでは」 「……それからの七百年、か」 「ええ。あの方は転生の道を選ばれた。私は封印の守り手と、転生する魂の見守りを託されました。あなたの魂を探しては、見つけて、見送る繰り返しです」 「やっぱ何人も見送ったのか?」 「……数え切れないほど。生まれてすぐ亡くなった赤子であったり、戦で武蔵国を出たばかりに命を落とした武士であったり。豪農のひとり娘に生まれた代もありました。嫁いで、子を産んで、孫に囲まれて畳の上で亡くなりました。私は垣根の外から、それをずっと見ていました」  淡々とした声だった。七百年ぶんの人生を、湯呑み一杯のあいだに並べていく。もちろん俺に覚えはない。 「それで、俺のときは」 「あなたが生まれた夜、練馬に駆けつけました。産院の窓越しに、あなたの魂を見て——」  衣織がそこで、初めて俺の目を見た。 「私の命は、この子にお仕えして消えるのだと、悟りました」  部屋が静かだった。冷蔵庫の低い唸りだけが聞こえる。  生まれた夜に、もう決まってたのか。俺がまだ名前もついてない赤ん坊のうちから、こいつは自分の消滅をわかっていた。  なんて言えばいいのかわからなくて、俺はビールを呷る。衣織がふっと顔を上げた。 「まあ、あなたのことは、違う意味で食べましたね」 「ぶっ」  脇腹に肘を叩き込んだ。くそっ、筋肉が硬い。筋トレなんかろくにしてねえくせに。 「痛いです」  わざとらしく反応する衣織がますます腹立たしい。こいつの人生に同情して、ちょっと優しくしてやろうかなと思いかけていたがやめた。 「ふふ。すみません。もちろん、あなたが天寿を全うしたら私も後追いに決まってるじゃないですか」  ぜんぜんすまなそうじゃない顔をして、不穏なことを衣織はのたまった。七百年の重さも、食う食わないの物騒な話も、この笑い方ひとつで軽口の高さまで降りてくる。ずるい男だ。  衣織が湯呑みを置いて、唐突に手をぱちんと合わせた。 「……引っ越しましょう」 「え、ああ、いいんじゃねえの。心機一転で」 「あなたと私の城ですからね。寝室はぜったいに一緒がいいです。低層マンションとタワーマンションだったら、どちらがお好みですか? ああ、一軒家派ですか?」 「は、え、同棲する気かよ? てか買うのかよ! タワマンとか、どこにそんな金が」 「金ならあるんですよ、お忘れですか?」  そうだった。歌舞伎町のキャバクラに潜ったとき、アタッシュケースから札束をレンガみたいに出してきた男だ。あのとき、一晩であっさり大金を溶かして、私のお金には使い道を決めてありますとかなんとか。使い道がなんなのかは、教えてくれなかった。 「私の資産の使い道は、すでに決めてあると言っていたでしょう?」  長年かけて増やした金を俺に使う気だったのか。呆れたいのに呆れきれない。文句を言いたいのに言えない。 「……そんなに俺が好きかよ」 「はい、それはもう。愛してますよ、矢太郎さん」  真正面から返された。ごまかしも、へらず口もない。金色の目が俺だけを見ている。長い年月がこもった視線だ。  缶を置いて、ソファの上で距離を詰める。  衣織の手が伸びてきて、俺の頬にふれた。冷たい温度だけど、今はちょっと温かい気がする。  口づけは、どちらからともなくだった。  最初はたしかめ合うような、甘いだけのものだった。けれど衣織の吐息が俺の喉にふれた。金色の目の奥で、瞳孔が縦に裂ける。 「……矢太郎さん」  掠れた声で名前を呼ばれるだけで、背筋に痺れが走った。衣織の指が俺のシャツのボタンをひとつ、ゆっくりと外す。指先が肌をなぞるたび、そこだけ熱くなる。 「食べて、いいですか」  さっきの愛してますより、ずっと獰猛な声だった。七百年前、こいつは俺の前世を食う約束で識神になって、食うのをやめて、見送り続けた。それでも飢えだけは消えなかったんだろう。 「……好きにしろ」  衣織は喉の奥で笑った。立ち上がって、俺を軽々と抱き上げる。寝室へ向かう足取りは、七百年の重荷を降ろした男の、見たことがないほど軽いものだった。  ベッドに沈む。シーツの感触に背中を預けると、衣織の身体が重なって、耳元で衣擦れの音がした。 「……ずっと、この瞬間だけを、夢見ていたのかもしれません」  甘い言葉とともに、首元に湿った感触が落ちる。舌先が鎖骨をなぞる。焦らすように甘噛みされるたび、考えることがひとつずつできなくなっていく。  衣織は俺のシャツを剥ぎ取り、肌を食み、しるしを刻んだ。キスの痕が、鎖骨から腹まで数を増やしていった。  なのに手つきは、笑ってしまうくらい丁寧だった。指の腹で肋骨をひとつずつ数えて、掌で腹を撫でて、腰骨の形をたしかめる。じれったくて、俺は衣織の髪を掴んだ。 「……焦らしてんのか」 「いいえ。嬉しくて」  金色の目が薄闇の中で細まった。いつものもったいぶった顔じゃない。緩みきった、無防備な顔だった。 「夢では、ないのですよね」 「そう思うなら、殴っていいぞ」  衣織が声を立てて笑った。こいつの、こんな笑い声を初めて聞いた。笑いながらキスをされて、笑いの震えごと飲み込まれる。  そこから先は、丁寧さが保たなかった。  歯が肩に食い込んで、大きな手が骨の軋むような強さで俺の腰を掴んだ。加減を忘れた猫又の膂力。痛いのに、その痛みのぶんだけ、こいつがやっと遠慮をやめたのがわかった。  指先が絡み合って、互いの体温をたしかめる。衣織の腰が、俺の身体の芯を捉えて正確に突き上げるたび、絡めた指に力がこもった。 「矢太郎さん……愛してます……」  喉の奥から絞り出される吐息が、俺の耳元を熱く濡らす。衣織は何度も俺の名前を呼んだ。返事のある名前を呼べることが、まだ信じられないみたいに。 「……いおり」  呼び返した。自分でも聞いたことのない声が出た。衣織の動きが一瞬止まって、それから、もっと深くなった。金色の目の縁が濡れている。呼ばれるだけで泣きそうになる男を、俺は強く抱きしめた。  しばらくは、互いの息の音しか聞こえなかった。  カーテンの隙間から、薄い夜明けの光が差していた。  俺の胸に顔を寄せて、長い睫毛を震わせながら衣織が俺を見上げている。サングラスも、へらず口も、役目も、ぜんぶ脱ぎ捨てた顔だった。 「……あなたのおそばを離れません」  衣織が俺の指を絡めとり、強く握りしめる。その目はもう、なにかを見送るためのものではない。  俺は笑って、その髪にふれた。  俺が生まれた夜から始まって、こいつに守ってもらって、俺もこいつを守った。  よかった、こいつが生きてて。  俺は衣織の額に唇を寄せた。二度目は、もっと深かった。

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