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第四十話 「お前の主は、今からは俺だ」

 庚人(かのと)が俺に向かって手を伸ばした。また首を掴まれる——と身構えた瞬間、白い光が割り込んだ。  衣織(いおり)だった。  傷だらけの身体で俺の前に立って、両手を広げている。光の壁が衣織の掌から噴き出していた。さっきの結界とは様子が違って、庚人を押し込めようとしている。 「たかが猫又(ねこまた)が陰陽師の真似事をしていると、油断をしているな」  丁寧な敬語が消えていた。俺の知っている衣織の口調じゃない。 「お前が封印されし七百年、私は鍛錬を積み、宗孝(むねたか)さまの魂を見守ってきた。この命をとしても、ふたたび土の下へ戻してやる!」 「戯言を、妖怪ふぜいが。大人しく転がっていればいいんだ」  庚人が手をかざした。黒い邪気が衣織の結界にぶつかる。衣織が両手で押し返す。岩場が震えた。空気が軋んで、足元の石が浮き上がる。  衣織が押しているように見えて、押し返されていた。黒い波が衣織の光を食い破ろうとする。衣織が歯を食いしばって踏みとどまり、また押す。一進一退だ。七百歳の猫又の霊力と、七百年の封印から放たれた陰陽師の力が、岩場の上でぶつかり合っていた。  衣織の足元が崩れ始める。庚人の術を背中に受けた傷は開いたままだ。それでも削れるだけの霊力で結界を支えている。  衣織が俺のそばに戻ってきた。倒れ込むように腰を抱いて、耳元に息を落とした。 「もう持ちません。早く——封印を」  覚悟を決めた衣織を、俺は抱きしめた。衣織が息を呑む。 「いいから、黙っていろ」  深呼吸をして、目を閉じる。  胸の奥のあいつ。宗孝から受け取った、名前のないなにか。ずっと眠っていたそれが、どくどくと脈打っている。宗孝の声が蘇る。  ——俺は大博打に勝った。——お前はどうだ?  おまわりさんはギャンブル厳禁だっつうの。  大きく息を吸うと、口が勝手に動いた。 「東海の神、名は阿明(あめい)。西海の神、名は祝良(しゅくりょう)。南海の神、名は巨乗(きょじょう)。北海の神、名は禺強(ぐうきょう)。四海の大神、百鬼を退け、凶災を祓う……」  覚えたはずのない言葉が溢れてくる。衣織に叩き込まれた封印の呪詞(じゅし)じゃない。宗孝が胸に残した光が、俺の声ですらすらと形になっていく。  身体が光に包まれた。  足元から這い上がるように光が全身を走る。今まで感じたことのない力だ。俺に眠っていた霊力が、確かにここにある。 「これは……私が教えたものでは——」  衣織は戸惑っている。そりゃそうだろう。俺にだってわからないまま、口を動かし続けている。  目を開けた。庚人が笑っている。余裕の顔で、また手を振り上げた。 「悪を止め……」  呟いた瞬間、腕の中の衣織の身体が震えた。金色の目がはっと見開かれる。  この(しゅ)を知っているはずだ。七百年前に宗孝が唱えて、ずっと衣織が唱えていたからだ。  衣織の唇が動いた。俺の声に重なるように。 「悪を止め、善を成す、天地人、一切内外障気(しょうき)を祓いたまえ!」  ふたつの声が、ひとつになった。 「急々如律令(きゅうきゅうにょりつりょう)!」  光が爆発した。  白い光が岩場を包み込んで、庚人の身体に呪が巻きついていく。黒い髪が解けるように散る。着物の裾が輪郭から融けていった。五芒星(ごぼうせい)の残骸が共鳴して、崩れた結界が呪の鎖に変わる。陰陽師たちの呪が、天狗たちの力が、衣織と俺の声に乗って庚人を締め上げていく。  庚人の顔から余裕が消えた——いや、消えていない。笑っている。崩れながら、笑っている。 「……やだなあ」  軽い声だった。庚人の目が俺を見ている。  俺を——俺の中の宗孝を。 「宗孝、よほどボクが好きなのかな。愛だねえ……反吐が出るよ」  この期に及んでも、歪みに歪みきっている。なのに最後の笑みだけが、ほんの少しだけ寂しそうに見えた。  庚人の目がふっと動いた。足元に倒れている砂月(さつき)を、一瞬だけ見る。なんの感情かはわからなかった。  俺の掌に光が集まった。温かくて、丸い形になっていく。朱色の光——ほおずきだ。宗孝から受け取ったなにかが、ここで初めて形になった。七百年前に宗孝が庚人を封じたのと同じ、ほおずきの実。  庚人の魂が実に吸い込まれていく。庚人の唇がまだ動いていた。声はもう出ない。最後に形だけの笑みを残して、消えた。  久世(くぜ)さんが差し出したガラス器に、俺はほおずきを納めた。金文字が一斉に光って、蓋が閉まる。  封印が完了した。あたりがしんと静まり、風の音だけが岩場を吹き抜けていく。  衣織のほうへ振り返ると、指先が透けていた。じわりと光っている。足元から少しずつ、身体の輪郭がほどけ始めている。消えかけていた。 「……衣織」 「いいんです。これが……本来の」 「いいわけあるか!」  衣織が微笑んだ。消えることが自分の役目だと、七百年信じてきた顔だ。  そうはさせるかよ。宗孝が残した光が、まだここにある。さっき庚人を封じたときに使い果たしたと思ったが、手のひらに残っている。 「俺を信じろ。大丈夫だ」  消えかけた衣織の手のひらを掴んで、俺は無意識になにかを書いていた。ぐにゃぐにゃとした、記号のようなもの。宗孝が俺に託したものは、ほおずきだけじゃない。 「矢太郎(やたろう)さん、これは——」  衣織の消えかけた顔を両手で挟むと、ぐいとこちらに引っ張って唇に口づける。 「三条衣織(さんじょういおり)。お前の主は、今からは俺だ」  これは識神(しきがみ)を使役する霊符(れいふ)だとわかる。宗孝の大博打に俺も乗った。衣織をこのまま失いたくない。  光が弾ける。衣織の身体に、足元から色が戻っていく。掴んだままの手のひらに重みが返ってきた。すり抜けそうだった感触が、ちゃんと肉の手になっている。 「矢太郎、さん」 「泣くなっつったろ」 「……無理です」  衣織が崩れるように俺の胸に顔を埋めた。焼け焦げた腕が、震えながら俺の背中に回る。冷たかった手が、少しずつ温かくなっていった。  岩場が静まった。朝の光が差している。  最初に聞こえたのは、砂月の声だった。 「庚人……さま」  掠れた声。返事はない。当たり前だ。もうここにはいない。庚人はガラス器の中にいる。  砂月が目を開けた。俺が止血した手首を片手で押さえたまま、上体を起こそうとして崩れる。白い装束が血と泥で汚れていた。目が岩場をさまよって、庚人を探している。磐座(いわくら)は砕け散ったままだ。  砂月の目から光が消えた。見つからないとわかった目をしている。庚人がこの世界のどこにもいないと理解してしまって、ひとりで放り出された少女の顔だった。  俺は砂月の身上を知っている。十五で両親を亡くして、鬼灯衆(ほおずきしゅう)に引き取られてから、ずっと庚人の声だけを頼りに生きてきた。夢の中で聞こえる声。それが全部だったんだろう。  木立の向こうから足音がした。  スーツ姿の男がひとり、結界の残骸を踏んで歩いてきた。四十がらみで背が高く肩幅もしっかりしている。雰囲気で同業、それもベテランだとわかった。  久世さんが木の幹にもたれたまま、軽く頷く。段取りは済んでいたらしい。  男は砂月の前まで来て、片膝をつく。手錠は出さなかった。まず砂月の手首の止血布を確認して、それから穏やかな声で言う。 「高遠砂月(たかとおさつき)さんだね」  砂月が顔を上げた。焦点が合っていない。 「警視庁捜査一課の者です。私も対策室出身でね」  男が懐から折り畳んだ書面を出して、砂月の目の前で開いた。逮捕状だ。日付が今日になっている。ゆうべのうちに裁判官のところへ走った人間がいるということだ。 「高遠(たかとお)砂月。殺人教唆の被疑事実により、逮捕します」  砂月が小さく頷いた。もうすべてどうでもいい、という態度だ。  男が腕時計を見て被疑者確保の時刻を告げ、手錠を取り出した。砂月の両手首に、傷口を避けてかける。丁寧な手つきだった。必要な手続きを、できるだけ痛みが少ないようにやっている。  俺は砂月のそばにしゃがんで、目の高さを合わせた。 「おい、高遠」  砂月が俺を見た。なんでお前がここにいるんだ、というきついまなざしだ。怯まない。こっちも覚悟の上でここにいる。 「やったことから、逃げんなよ」  砂月の唇が引き結ばれる。 「お前がやったことには、お前が答えを出さなきゃなんねえんだ。ぜったいに逃げんな」  砂月のうつろな瞳には怒りか悔しさか、それとも別のなにかが浮かんでいる。唇が震えて、声にならない言葉を形作ろうとして、それもできずに俯いた。  捜一の男が砂月の肩にそっと手を置いて立たせる。砂月は自分の足で立った。よろけたが、支えられることは拒まなかった。  二人が木立のほうへ歩いていく。砂月が一度だけガラス器のほうを見た。庚人がいる場所。それから前を向いて、歩いていった。  衣織が俺の隣に立っている。ぼろぼろだ。背中が焼けて、唇に血が残っていて、足元がおぼつかない。それでも立っている。俺の歩幅に足を合わせて。

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