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第三十九話 冬枯れの杉林で、前世に会う

 庚人(かのと)の手が、ゆっくりと持ち上がる。  指が宙をつまむような動きをした、と思った瞬間——俺の身体が浮いた。  足が地面から離れる。首のまわりに見えない手がかかっていた。ふれられてもいない。庚人は腕を伸ばしているだけだ。三メートルは離れているのに、喉が締まっていく。肺が潰されるように息ができない。 「ずうっと、待ちわびていたよ」  庚人が笑っている。切れ長の目を細め、なぶる玩具を見つけたみたいな顔で。 「イメトレってやつだよ。七百年もあったから、ずいぶん上手くなっちゃった」  視界がちらつく。足をばたつかせたが蹴る地面がない。砂月(さつき)が倒れている地面だけが遠い。 「離しなさい!」  声と同時に白い光が走った。久世(くぜ)さんの霊符(れいふ)だ。光の帯が庚人の手首に巻きついて、見えない手の力が一瞬ゆるんだ。空気が喉に入ってくる。  庚人が鬱陶しそうに手を振った。霊符が弾けて、紙片が散って消える。 「邪魔だよ。女ごときが陰陽頭(おんみょうのかみ)など、陰陽寮も世も末だ」  久世さんの目が据わった。凄腕の陰陽師の顔になっている。 「祖母も優秀な当主で室長でした。モラハラというやつですよ!」  右手から霊符が三枚、四枚と扇状に飛ぶ。庚人の足元、頭上、左右に展開して四方を囲んだ。金文字が光って拘束の陣を組んでいく。庚人の動きが一瞬止まった。見えない手の力がさらにゆるむ。 「衣織(いおり)くん、今です! 桃山(ももやま)くんを!」  白い影が視界の端で弾けた。  衝撃。肩と腰を一度に掴まれて、宙から引きちぎられるように地面へ引き戻される。転がった。背中を岩肌に打ちつけて息が詰まる。目を開けると衣織の顔が真上にあった。サングラスが吹き飛んで、金色の目がぎらぎらしている。  俺、こんなんばっかりだ。  衣織の爪が伸びていた。指の先から黒い鉤爪が突き出て、犬歯が唇の端から覗いている。瞳孔が縦に裂けて猫又(ねこまた)の目に戻っていた。 「さわるな!」  庚人は久世さんの拘束陣を内側から砕く。金文字の残骸が紙吹雪みたいに散った。首を傾げて衣織を見る。 「猫ちゃん、しつけがなってないねえ」  衣織が跳んだ。あの図体で、地面を蹴る音ひとつしない。右の爪が庚人の首を薙ぐ。  かわされた。  庚人が半歩ずれただけで、爪が空を切る。衣織が左の爪で追撃し、下から上へ。胴を裂く軌道が空振りする。庚人は着物の裾を引きずったまま、踊るように身をかわした。 「おっと、当たったら痛そう!」  二撃、三撃。爪が岩肌を抉る。火花が散る。衣織が本気で仕留めようとしているのに、庚人は遊んでいた。 「わしらも忘れては困るぞ、久世の姫君、三条(さんじょう)どの!」  頭上から声が降ってきた。杉若坊(すぎわかぼう)だ。風を切って急降下してくる。同時に玄昌(げんしょう)が横から突進した。赤い肌の大天狗が腕を振り上げて岩場を揺らすほどの衝撃波を叩きつける。長老が杖で地面を突いた。大きな地鳴りだ。大地そのものが庚人を押さえ込もうとしている。  衣織と天狗が同時に庚人を囲む。八人の陰陽師が崩れた五芒星(ごぼうせい)を必死に繋ぎ直して退路を塞いだ。光の線が交差して、庚人の周囲に何重もの壁ができていく。  持てる力の総力戦だった。  庚人が苛立ちを滲ませて、ため息をつく。 「どいつもこいつも、鬱陶しいなあ」  不穏な音がする。黒い波だ。  庚人を中心に、邪気が球状に爆発する。見えない衝撃波が岩場を薙ぎ払う。杉若坊が空中で弾かれて木の幹に叩きつけられた。玄昌が腕で顔を庇いながら後退する。長老の杖が折れた。陰陽師の何人かが、まとめて吹き飛ばされる。  衣織だけが踏みとどまった。爪を地面に突き立てて、膝をつきながら耐えている。金色の目から涙でも血でもない、光のようなものが滲んでいた。  全員でかかって、傷ひとつつかない。  これが七百年前に宗孝(むねたか)すら消すことができなかった男の力か。俺はどうにか呪詞(じゅし)を差し込めないか、タイミングを見計らっていた。  俺の様子に気がついたのか、庚人が衣織を見下ろし、片手を俺のほうに向ける。  胸の奥で、なにかが引かれた。  物理的な力じゃない。身体の中の、もっと深いところ。魂を直接引っ張られている。立っていられない。膝から崩れて、両手をついた。視界が暗くなっていく。 「ねえ、猫ちゃん」  庚人の声だけが鮮明だった。 「どっちを取る? ボクを止める? 桃ちゃんを助ける? ——両方は無理だよ」  衣織の叫び声が聞こえた。俺の名前を呼んでいる。  衣織の腕が俺を抱きかかえていた。庚人に背を向けて、俺を庇っている。迷わなかった。一瞬も。 「あはは、愛だねえ。反吐が出るよ!」  庚人がケタケタと笑い声を立てている。  衣織の背中に黒い光が叩き込まれた。嫌な音がした。骨が軋む音。衣織の身体が跳ねた。吐血する気配。それでも腕はゆるまない。俺を抱いて膝をついたまま、口が動き始めた。 「ひふみをはらえ、あまのかずうた、ふるべゆらゆらとふるべ——」  聞いたことのない言葉だった。日本語じゃないかもしれない。抑揚のない、祈りみたいな声。背中に庚人の邪気を受けながら、自分の身を削って。  だめだ。意識が、もう持たない。  視界が、暗い。  衣織の腕の温度だけが最後まで残って、それも消えた。  目を開けると、杉林だった。  見上げるほど太い杉の幹が、左右にずらりと並んでいる。高尾山のようだが、さっきの岩場じゃない。整備された参道じゃなく、獣道に近い細い道だ。木々は冬枯れて、葉を落としていた。空気が冷たい。息が白い。季節が違う。  夢ではない。  意識がはっきりして、身体の感覚もある。足元の土を踏んでいる感触がちゃんとあった。  道の先に、男がいる。  こちらに背を向けて立っていた。白っぽい装束。衿の合わせが深い。髪を後ろでひとつに括っている。俺より背が低い。肩幅も狭くて、肌も白かった。  男がゆっくりと振り返る。  壮年の痩せた男だった。頬が削げて、こめかみに白いものが混じっている。か弱そうなのに目だけが引かない。腹を括った人間の目。 「——お前か」  落ち着いた低い声だった。 「俺の魂が、とうとう俺に会いに来たか」  香陽宗孝(かようむねたか)だと、すぐにわかった。理屈じゃない。顔はまるで違う。身体つきも違う。なのに、こいつが俺の前世で、俺がこいつの転生で、七百年前にこの山で庚人を封じた男だということが、胸の奥でわかる。 「あんたが宗孝か」 「そうとも」  宗孝の目が俺を上から下まで見た。値踏みするような目だ。それから小さく息を吐いた。 「あの猫は……俺との約束をきちんと果たしてくれたのだな」  あの猫。衣織のことだ。宗孝が右手を差し出した。  なにも言わなかった。差し出されたものがなんなのか、説明はない。  俺は宗孝の手を取った。  掌がふれた瞬間、なにかが入ってくる。温かい光。言葉じゃない。映像でもない。もっと深い場所に、直接流し込まれるみたいに。掴もうとしても指の間をすり抜ける。衣織のこと。あいつが生き抜いた七百年のこと。それだけはわかった。それ以上は、まだ、形にならない。 「お前はもうわかっている。俺なのだから」  宗孝が手を離した。冬枯れの杉林に風が吹いて、枯れ葉が足元を転がっていく。  わかっている? 俺は、なにもわかっていない。胸の奥に確かになにかがある。でもそれをどう使えばいいのか、見当もつかない。 「俺は大博打に勝った。七百年は長い賭けだったが、お前が来た。——お前はどうだ?」  まったくわからない。大博打。賭け。俺になにを賭けろと言っているのか。  答えられないまま、宗孝を見つめ返した。  宗孝が笑う。こめかみの白髪が風に揺れて、据わった目が少しだけゆるむ。 「衣織はようやってくれた。俺には過ぎた識神(しきがみ)だった」  遠くから声が聞こえた。衣織の声だ。俺を呼んでいる。呼び戻しの儀。必死で俺を引き戻そうとしている。 「——行け」  宗孝が背を向けた。冬枯れの杉林の奥へ歩き出す。 「俺が、衣織を守る番か?」  宗孝が立ち止まった。振り返らなかった。 「ああ、頼んだ」  一歩踏み出そうとして、宗孝の声がもう一度届く。ひとりごとのように小さかった。 「もしお前が救ってくれるなら、俺はもう安心して眠れる」  光が溢れた。杉林が白く飛ぶ。衣織の声が近づいてくる。  目が開いた。俺は衣織の腕の中にいる。  衣織がぼろぼろだった。唇の端に血が滲んでいる。着物の背中が焼け焦げて、下の肌が赤く爛れていた。庚人の術をまともに受けた痕だ。それでも腕は俺を抱いたまま、一度もゆるまなかったのだろう。  金色の目が俺を見ている。潤んでいた。涙は落ちていない。落とすまいとしている。 「……矢太郎(やたろう)さん」  かすれた声だった。 「おかえりなさい」  俺は衣織の冷たい頬にふれた。いつもは人間より少しだけ低い体温が、今はもっと冷たい。俺を呼び戻すために、霊力を注ぎ込んだのだろう。 「泣くなよ、けっこう泣き虫だな」 「……泣いていません」  嘘つけ。起き上がった。身体は動く。頭もはっきりしている。胸の中に、さっきまでなかったものがある。温かい。宗孝から受け取ったなにか。まだ形にならない。  庚人がそこにいた。  岩場の中央に立って、面白そうに首を傾げている。 「へえ。戻ってきちゃった。猫ちゃん、やるねえ」  周囲は壊滅的だった。五芒星の結界は完全に崩壊している。陰陽師が半数倒れていて、残りが必死に呪詞を唱えていた。天狗たちが負傷しながら庚人と俺のあいだに立ちはだかっている。久世さんが木の幹にもたれて額から血を流していた。  もう全員、限界だ。  まず庚人を封じるしかない。呪詞は覚えている。それだけは確かだ。  衣織の手を握った。冷たい、ぼろぼろの手。  封じたあとのことは、まだわからない。でもこの手は離さない。

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