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第三十八話 七百年目の朝

 夜明け前の中央道は嘘みたいに空いていた。  俺がハンドルを握って、衣織(いおり)が助手席。高井戸から乗ってひたすら西へ走った。新宿の高層ビルなんてとっくにバックミラーから消えて、窓の外は黒い山の稜線がじりじりと近づいてくる。空はまだ群青で、東の端だけが薄い灰色に溶け始めていた。  衣織はずっと窓の外を見ていた。サングラスはかけていない。膝の上で両手を組んでなにも言わず、いつものへらず口も今朝はひとつも出てこなかった。  昨夜は結局ふたりとも一睡もできず、並んで横になって手を絡めたまま暗い天井を見上げて、夜明けを待った。衣織の手は朝まで一度も離れなかった。 「眠くねえのか」  俺が訊くと、衣織は少しだけ笑った。 「七百年、ほとんど寝ていませんでしたから。今さら一晩くらい、どうということはありません」 「嘘つけ。いつだって俺の隣でぐうぐう寝てたじゃねえか」 「あれは、矢太郎(やたろう)さんだからですよ」  さらりと言われて言葉に詰まった。こいつはたまにこういうことを顔色ひとつ変えずに言ってのける。俺はアクセルを踏み込んでごまかすみたいに前を見た。  八王子を過ぎると、山のにおいがした。湿った土と青い木々のにおい。高尾山口の駐車場に車を停めたときには、東の空がようやく白み始めていた。  まだ薄暗い参道に観光客の姿はひとつもない。土産物屋もケーブルカーの駅もぜんぶ眠っている。蕎麦屋ののぼりが無人の風にゆっくり揺れていた。 「裏道です。こちらへ」  衣織が先に立って表参道を逸れた。結界の管理者しか通らない道だ。前に一度こいつに連れられて登ったときと同じ道。杉の巨木が両側に立ち並んで空が細く切り取られている。表参道のざわめきは数歩で遠のいた。  登るにつれて空気がぴりぴりと張り詰めていく。結界だ、とすぐにわかった。前に来たときよりずっと濃い。何重にも張り巡らされた見えない膜を一枚ずつくぐっていくみたいだった。  薬王院の本堂の裏手を抜けてさらに上へ。木立が途切れて、ひらけた岩場に出た。  息を呑んだ。  磐座(いわくら)を中心に、五芒星(ごぼうせい)の結界が敷かれていた。  地面に白い線で星形が描かれ、その頂点に赤やら黄色やら色のついた砂が盛られている。星の線上に等間隔に八人が立っていた。全員が霊符(れいふ)を構えて低く(しゅ)を唱え続けている。八つの声が重なって、岩場の底に地鳴りみたいな唸りを作っていた。  全国から集められた陰陽師のようだ。白髪まじりのスーツ姿の男がいて、その隣に学ランの高校生。フーディにジーンズの若い女が腕を伸ばして霊符を構えている。いちばん年嵩のばあさんは割烹着だ。服装はてんでばらばらなのに、唱える呪だけが寸分の狂いなく揃っている。なんだか親近感がわいた。  磐座は記憶にある姿よりずっと黒く爛れていた。岩肌を這う黒が生き物みたいにじわじわと広がって、その染みが岩の奥で脈打っているのが素人の俺の目にもわかった。五芒星の結界がかろうじてそれを押さえ込んでいる。  結界の外に見慣れた姿があった。 「来ましたね」  久世(くぜ)さんだった。いつもの着物姿だが、今日は白い襷をかけている。穏やかな室長の目が消えて、芯だけが残った顔だった。陰陽師の名家・久世家の第三十八代当主。今日はその顔で立っていた。  久世さんの足元に木箱がひとつ置いてある。蓋が開いていて、中に透明な器が収まっていた。大ぶりの壺のような形で、夜明け前の薄明かりを吸って鈍く光っている。表面にびっしりと細い金文字で呪が刻み込まれていた。対策室の呪具開発セクションが三年かけて焼いた特殊強化ガラス器。開発費はなんと戦車一台ぶんくらいらしい。 「あとは、あなた方次第」  久世さんの声に余計な言葉はなかった。  岩場の上のほうで羽音がした。杉の梢から黒い影がいくつも舞い降りてくる。くちばし、赤ら顔、葉団扇、高下駄。天狗たちだ。先頭に見覚えのある小柄な影がいた。あの長老だ。その後ろに腕を組んだ玄昌(げんしょう)と、そわそわした杉若坊(すぎわかぼう)。 「来たか、なつかしいお方よ」  長老が俺を見てしわがれた声で言った。 「あんたが知ってるのは、俺じゃねえけどな」  長老が鷹揚に笑う。きっとこの天狗は宗孝(むねたか)を知っているのだろう。 「わしの盲いた目では姿形など無意味よ。魂はいつだって同じ色をしておるわ」  長老の目は焦点が合っていないのに、見透かすように物事を見ている。 「ワシらもおるからな、安心せい」  杉若坊が胸を張る。声には妙な頼もしさがあった。  玄昌は腕を組んだまま磐座を睨んでいる。 「この山は七百年前から封印の地よ。守人の務め、果たさせてもらうぞ」  地響きのような低い声だ。会うたびに小ボケをかます天狗たちじゃなかった。  東の空が白から橙に変わった。夜が明ける。  その瞬間、岩場の空気が硬くなった。陰陽師たちの呪がぴたりと止んだ。久世さんが顔を上げる。天狗たちが羽を半ば開いて低く身構えた。  ひらけた岩場の向こう。結界の外の木立の切れ間に、白い人影が立っていた。  砂月(さつき)だ。  一人だけ白い装束に身を包んでいる。神社の神主さんみたいな、儀式のための衣だった。  サイドで結んだ髪が朝風に揺れている。右手に白木の小刀。左手に握っているのは霊符だった。墨の色じゃない。あの赤黒い滲みは、血だ。自分の血で書いた霊符。 「高遠砂月(たかとおさつき)」  久世さんが声を張った。この女にはさんざんな目に遭ってもなお、俺たちは砂月の孤独だった少女時代を知っている。 「おやめなさい。あなたは、あの男に利用されているだけです。荒海(あらみ)の血を——」 「お前たちはわかっていない!」  砂月が遮った。久世さんの言葉を聞く気すらない声。感情がむき出しの、金属を引っ掻くような叫びだ。 「おのれの領地を迫害され、みじめに生き残るしかなかった者たちの成れの果てを! お前たちが七百年、追い詰め続けた嘆きを——人はそれを怨念と呼ぶんだ!」  砂月がほおずきを高く掲げた。庚人(かのと)の魂を封じたあの大きな朱色の実。その光がぶわりと膨れ上がった瞬間、砂月の周囲が陽炎みたいに歪んだ。  小さな光が、ひとつ、ふたつと地面から浮き上がってくる。朱色の粒。それが十、二十と増えていく。  ほおずきだ。小さなほおずきの実が何十と、砂月を囲んで浮かび上がっていた。ひとつひとつが淡く光っている。 「あれ、ぜんぶ人の魂か?」  衣織が低く呟いた。声が震えていた。 「ええ。——あれほど集めていたとは」  鬼灯衆(ほおずきしゅう)が七百年かけて集めてきた魂のエネルギー。俺たちが処理した事件ごとに現場に残されていたほおずきの実。あれはほんの一部だった。  朱色の光が五芒星の結界を無視して磐座と直接共鳴する。陰陽師たちが線を締め直そうと声を上げるが、内側からも応答が返ってきた。外と中が呼び合っていて、止められない。  砂月が白木の小刀を左の手首に当てる。ためらいがなかった。 「やめろ、高遠(たかとお)!」  俺は叫んだ。嫌な予感ならよく当たる。砂月がまさにやろうとすることがわかった。  砂月は一気に刃を引く。赤い線が手首に走って、血が霊符を伝って地面に落ちた。荒海の直系の血。七百年の最後の一滴。  血が地面に触れた瞬間、磐座が大きく脈打った。地響き。足元が揺れて膝が折れかけた。邪気が肺の奥まで押し込まれて、息ができない。  衣織の手が後ろから俺の腰を支えた。引き寄せるように密着して、耳元に声が落ちてきた。 「私と一緒に」  衣織の声に引っ張られて、口が動いた。 「南斗北斗(なんとほくと)三台玉女(さんだいぎょくじょ)——」  衣織の声と俺の声が重なる。左青龍(ひだりせいりゅう)右白虎(みぎびゃっこ)。足が覚えた通りに動く。衣織の手が腰を支えているから身体が安定する。前朱雀(まえすざく)後玄武(うしろげんぶ)前後翼輔(ぜんごよくほ)急々如律令(きゅうきゅうにょりつりょう)。胸を潰していた力がすっと引いた。 「おじいさまたちの怨み、思い知るがいい!」  砂月が叫んだ。血に濡れた手でほおずきと血の霊符を掲げる。朱色の光と無数の小さな光が束になって磐座へ突き刺さった。 「庚人さま! どうぞお戻りください!」  磐座に亀裂が走った。ぴし、ぴし、と細い音を立てて封印が割れていく。亀裂の奥から朱色とも闇ともつかない光が漏れ出した。 「結界を!」  久世さんが叫んだ。八人の陰陽師が声を限りに呪を唱える。天狗たちが羽を広げ、長老が杖を頭上に掲げた。五芒星が光って岩場を覆っていく。  だが、もう遅かった。  磐座が内側から砕けた。  黒い霧が噴き上がる。陰陽師のひとりが吹き飛ばされて地面を転がった。五芒星の一角が崩れ、結界に穴が開く。  霧の中で、なにかが立ち上がった。  肩。腕。長い黒髪。着物の裾を引きずって、けだるそうに首を回す。  霧が晴れていく。  若い男だった。  二十代半ばに見える整った顔。切れ長の目に、形のいい唇。砂月と同じ神社の神主さんみたいな着物を着崩して、肩の切り込みからそでを落としている。  長い黒髪が腰のあたりまで流れていた。涼しげで、色気があって、どこか残酷な美しさだった。衣織とはまるで違う種類の。衣織が水ならこの男は火だ。見た瞬間に、触れたら焼かれるとわかる顔。  封印の中にいたはずなのに、肌には皺ひとつない。時間が止まっていたのだ。  男がまず見下ろしたのは足元だった。  血を流して砂月が倒れている。白い装束が赤く染まって、意識が遠のきかけていた。 「あちゃあ、痛そう。バッサリ切っちゃったね」  軽い声だった。たわむれに虫の羽をむしったあとみたいな、心底どうでもいいという声。命がけで呼び戻した人間に向かって投げかけるには、あまりに軽い。  血が頭に上った。  役目も庚人も呪詞(じゅし)も全部吹っ飛んだ。 「高遠砂月!」  衣織の手を振り切って、俺は走っていた。砂月のそばに膝をつく。脈を探ると、弱いがある。傷は深い。手首の内側、白木の刃が迷いなく引かれた線から、拍動に合わせて血が溢れていた。  ネクタイを毟り取った。傷口のすぐ上、手首の細いところに二周巻いて、力任せに絞め上げる。砂月の顔が痛みに歪んだ。いい兆候だ、痛みを感じる意識が残ってる。結び目を作って、その上から両手で圧迫する。訓練で叩き込まれた応急処置が勝手に身体を動かしていた。  血の滲みが、遅くなる。 「矢太郎さん!」  衣織の声が背後から飛んできた。制止だとわかっていた。持ち場を離れないで、という声。庚人のすぐそばにいるっていうのに、丸腰で結界の外だ。わかっていて、それでも駆け寄るのを止められなかった。  砂月が薄れる目で俺を見上げている。なんでこいつが来るのか、わからないという顔。唇が動いたが声にならなかった。 「死ぬな。お前はまだ裁かれてねえんだよ」  御子柴(みこしば)のときは間に合わなかった。あのとき衣織に羽交い締めにされて目を塞がれて、なにもできなかった。もう後悔なんてしたくない。  空気がずしんと重くなる。  すぐ頭上に影が落ちた。見上げると、庚人がそこにいる。  あの顔だ。夢で何度も見た。子供の頃から目を閉じるたびに現れた長い髪の男。五歳の夏に「もっと食べ頃になってからおいで」と笑った声。倉庫で「すっかり美味しそうになったね」と囁いた指。全部この男だ。  切れ長の目が俺を見下ろして、薄い唇が弧を描いた。 「やあ。会いたかったよ、桃ちゃん」  すぐ近くの距離に、荒海庚人(あらみかのと)がいた。

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