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第三十七話 世界の命運と俺のステップ

 翌朝、衣織(いおり)はもう台所にいた。  味噌汁と焼き魚の匂いがする。昨夜あんなふうに泣いて抱き合ってそのまま朝を迎えたのに、衣織はいつもどおり背筋を伸ばして鮭を焼いていた。 「おはようございます、矢太郎(やたろう)さん」  穏やかな声と覚悟の据わった表情。昨夜泣いたことなんか嘘みたいに、もうあの静かな微笑みに戻っている。俺だけが取り残されていた。 「……おう」  向かい合って飯を食った。衣織はどんぶり三杯。いつもどおりだ。俺のほうは飯の味がしなかった。  食い終わると、衣織がテーブルの上に紙を一枚置いた。和紙に筆で書かれた漢文のようなもの。 「矢太郎さん。今日からこれを覚えてもらいます」 「なんだ、これ」 「結界を強める呪詞(じゅし)です。高尾山での儀で、あなたの身を守るために必要になります」  紙に目を落とした。目が滑るほどの漢字の羅列だ。  ——南斗北斗(なんとほくと)三台玉女(さんだいぎょくじょ)左青龍(ひだりせいりゅう)右白虎(みぎびゃっこ)前朱雀(まえすざく)後玄武(うしろげんぶ)前後翼輔(ぜんごよくほ)……つらつらつら。 「……読めねえよ」 「読めます。丸暗記してください。それから、禹歩(うほ)も覚えてもらいます」 「ウホ?」 「陰陽道において、非常に重要な呪術的歩行のことです。呪詞を唱えながら踏む、決まった足運びがあります」  意味のわからない言葉に加えて、意味のわからないステップまで覚えろと言われている。俺は刑事だ。陰陽師じゃない。 「……マジか」 「マジです」  衣織の金色の目が真剣だった。ふざけている空気はどこにもない。 「あなたの命に関わることです。私のスパルタに耐えてください」  地獄のような一日が始まった。  衣織は容赦がない。リビングの家具を端に寄せて、即席の稽古場を作った。まず呪詞の読み方を一語ずつ教えられる。発音が違う、もう一度。アクセントが違う、もう一度。  暗記ができたら禹歩に入った。衣織が俺の腰に手を当てて、足の位置を直す。前に出す足が逆、やり直し。踏み込みが浅い、もう一度。左足を引くタイミングが呪詞の句切りと合ってない、最初から。 「違います。南斗のときに右足を出して、北斗で左足を引く。三台で右にずれて、玉女で戻る」 「ちょっと待て、頭がついていかねえ」 「ついてきてください」  衣織の手が俺の腰を押さえている。百八十センチの猫又(ねこまた)が、俺の身体を操り人形(にんぎょう)みたいに動かす。力は抑えているが、正しい位置に置くまで手を離さない。 「足首、もっと柔らかく。踵から入らない。つま先が先です」 「どこの舞踊教室だよ」 「陰陽道です」  冗談が通じない。目が据わっている。この男が本気で教えるとき、優しさは一切消えるようだ。まさに七百年のベテラン顔だ。  昼飯も食わずに繰り返して、午後三時頃にようやく衣織が「通しでやってみましょう」と言った。  呪詞を唱えながら禹歩を踏む。南斗北斗、三台玉女、左青龍、右白虎、前朱雀、後玄武、前後翼輔。なんちゃらかんちゃら急々如律令(きゅうきゅうにょりつりょう)。足が呪詞に合っている。なんとか身体が覚え始めていた。 「……できてます」  衣織の声が少し震えた。見上げると、衣織が妙な顔をしている。穏やかでも厳しくもない、感慨とも寂しさともつかない顔だった。俺がこれをできるようになったことが、衣織にとってなにを意味するのか。一歩、あの瞬間に近づいたということだ。 「もう一度、通しで」 「おう」  身体が呪詞を覚えて、足が勝手に動くようになるまで、夕方まで繰り返した。  夜、衣織が飯を作っている最中にスマホが鳴った。久世(くぜ)さんからだ。衣織がスピーカーをオンにして、テーブルの上にスマホを置く。 「磐座(いわくら)の封印を弱めました。高遠砂月(たかとおさつき)が動いた形跡があります。明日の夜明けに高尾山へ集結してください。天狗たちは展開済み。全国から八名の陰陽師が到着しています。結界の準備は整いました」 「……わかりました」  衣織が静かに答えた。 「桃山(ももやま)くん、呪詞は覚えましたか」 「はい、なんとか。禹歩ってやつも」 「……そう。よく頑張りましたね」  電話の向こうで一拍、間があった。通話が切れる。  台所からは肉じゃがのにおいが漂っている。テーブルの上のスマホが黒い画面を映していた。明日の夜明け、か。あと十時間もない。  衣織が台所に戻って、飯の仕上げをしている。背中を見ながら、俺はぼんやり考えていた。 「なあ、衣織」 「はい」 「お前が犠牲になるってことは、もともと主だった俺でも代わりになるのか」  ちょっとした出来心だった。論理的な疑問として口にしただけだ。識神(しきがみ)が器になれるなら、主の魂だって器になれるんじゃないか。代わってやれる余地があるのかって。俺だってもちろん消えたくはない。 「……それか、ふたりで、とか。効果は二倍になって悪くないだろ、お前の負担が減らないかなって」  台所が静かになった。  肉じゃがの鍋が煮えている音だけが聞こえる。衣織がコンロの前で動かなくなっていた。 「衣織?」  振り返った衣織の顔を見て、自分がなにを言ったのか理解した。  衣織が泣いている。  声を上げずに、ぽろぽろと涙が頬を伝っている。大の男が、台所で。鍋つかみを掴んだまま、唇を噛んで肩を震わせて、それでも涙だけは止められないでいた。 「私の、最後のわがままを、どうか聞いてください」  声が途切れ途切れだった。七百年生きてきた猫又の、最後のわがまま。  衣織が消えるのは俺を生かすためだ。俺が代わりに消えたら、衣織の七百年がすべて無駄になる。ふたりで消えるなんて、衣織にとっては最悪の結末だ。  衣織の選択を踏みにじってしまった。 「……悪い。俺が悪かった。許せ」  台所に歩み寄って、衣織を抱きしめた。鍋つかみが衣織の手から滑り落ちた。衣織の身体が震えている。広い背中が、腕の中で小さく丸まっていた。 「ごめん。馬鹿なこと言った」  衣織はしばらく泣いていた。俺の胸に顔を押し付けて、声を殺して。抱きしめる腕の中で、衣織の震えが少しずつ収まっていくのを待った。  やがて衣織が顔を上げた。泣き腫らした目。金色の瞳が涙で濡れて、琥珀を水に沈めたように光っていた。衣織が俺の額にそっと唇を落とす。冷たい唇だった。 「主のために尽くすのが識神の役目です。そして私よりも重たい役目を背負ったあなたの魂を自由にすることが、私のたったひとつの願いなんです」 「……それでも、お前はお前のために生きる権利だってあるはずだ」 「はい。そのように生きました」  衣織が少しだけ笑った。泣いたあとの、くしゃりとした笑顔。 「あなたを愛してしまったことは、重大な契約違反です。宗孝(むねたか)さまになんと申し開きしてよいか……でしょう?」  契約違反って。やっぱり雇用契約みたいに言う。識神が主に恋をすることは、本来あってはならないことだったのか。七百年の守護が義務で、その義務の中で俺に惚れてしまったことが、衣織にとっての違反かよ。  でも違反したからこそ、俺たちは今ここにいる。 「……申し開きは俺がしてやるよ。宗孝に会ったら」 「それは、困ります」 「なんでだよ」 「大変お叱りを受けます。たぶん」  泣きながら笑っている。ひどい顔だ。目は赤いし、鼻の頭も赤い。大妖怪とは思えない顔。でもその顔が、覚悟だけの穏やかな微笑みよりずっとよかった。  肉じゃがは煮詰まっていた。衣織が慌ててコンロの火を止めた。  飯を食って風呂に入り、ベッドに並んで横になった。明日の夜明けに出発する。眠れるとは思えなかった。  暗い天井を見上げていると、隣で衣織が寝返りを打った。 「矢太郎さん」 「なに」 「明日は、私のそばを離れないでください」 「当たり前だろ」 「……ありがとうございます」  衣織の手が暗闇の中で俺の手を探して、指を絡めてきた。冷たい指。猫又の手。握り返すと、衣織の指が少しだけ温かくなった。  案の定眠れず、しばらく天井を見つめていた。隣で衣織も眠れていないのが呼吸でわかる。 「なあ」 「はい」 「そんなに俺のどこが好きなんだよ」  照れ隠しのつもりで聞いた。暗闇の中で聞くなら、顔を見られなくて済む。  衣織が少し黙った。 「全部申し上げていると、夜が明けてしまいます」  つまり俺たちの睡眠時間がなくなる。明けたら高尾山に行くのだ。その先にはもう、この暗闇の中みたいな穏やかさはない。 「……一個でいいよ」 「お顔です」 「ふざけんなよ」  衣織が小さく笑った。暗闇の中で、くすりと。猫みたいな、喉の奥の笑い方。 「ふざけてません。出会った日からずっと、あなたのお顔が好きでした。無邪気で、からっとして、嘘偽りのないきれいな瞳で」  返す言葉が見つからなかった。耳が熱い。暗くてよかった。  衣織の手を強く握った。衣織が握り返してきた。  眠れないまま朝を待つ。衣織の手はずっと離れなかった。

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