36 / 37

第三十六話 幕間・ほおずきの声

 奥多摩の寂れたビジネスホテルの一室で、高遠砂月(たかとおさつき)はベッドの縁に座っていた。  カーテンを引いた窓の外には山の稜線が暗く横たわっている。部屋は狭い。シングルベッドとユニットバスと、壁掛けのテレビ。備え付けの湯沸かしポットが小さな音を立てている。  部屋の中に私物はほとんどない。着替えの入ったボストンバッグがひとつと、サイドテーブルの上に写真立てがひとつ。色褪せた写真の中で、白髪の老人が穏やかに笑っている。  砂月(さつき)の両手の中には、ほおずきがあった。  乾いた植物の殻の内側から、うっすらと朱色の光が漏れている。薄暗い部屋の中で、その光だけが生きもののように脈打っていた。  ほおずきの中から、声が聞こえる。 「砂月」 「はい、庚人(かのと)さま」 「今日も見ているね、その写真」  砂月は写真立てに目をやった。おじいさま。鬼灯衆(ほおずきしゅう)最後の古老であり、砂月を引き取って育ててくれた人。  宗孝(むねたか)の魂が完全な転生を果たしたとわかったとき、鬼灯講(ほおずきこう)として細々と生き残っていた荒海(あらみ)流陰陽師たちにとっても、それは吉報だったという。敵の切り札が復活したということは、庚人の封印も弱まっている、という証左だからだ。  おじいさまは庚人の復活という悲願を信じ、目を皿のようにして血縁を探して、身寄りのなかった砂月を自分の手元で育てた。  引き取られた時分には生き残りが高齢かつ数人しかおらず、砂月がどれだけ希望の光であるのか、といつも教えられたものだ。  嬉しかった。天涯孤独な自分を家族と迎えてくれて、そのうえ生きる意味を与えてくれたから。  特殊霊異対策室というふざけた名前に変わった陰陽寮によって、表立った活動もできない中、砂月に陰陽道の手ほどきもしてくれた。砂月はとても良い生徒だったようで、からからのスポンジが水を吸うように、術を身につけた。  国に守られてぬくぬくと陰陽師なんかをしている連中より、砂月のほうが実力があると自負している。  周囲からはおじいさまが鬼灯講の教祖だと思われていたが、実際にはそうではない。砂月を守るための盾として、表に立ち続けてくれただけ。大事な儀式はすべて砂月が行っていた。 「おじいさまがいなければ、私は庚人さまの声を夢の中の妄想だと思い込んだまま暮らしていたかもしれません」  幼い頃から夢の中に現れる声があった。優しくて、気まぐれで、ときどき残酷な声色。砂月はそれを空想の友達だと思っていた。おじいさまが初めて教えてくれたのだ。  ——あれは本物の庚人さまの声だよ、お前には聞こえるんだ。荒海の血が、いちばん濃いからね。  それからは毎晩、夢の中で庚人さまに会った。今日学校でなにがあったとか、テレビでこんな番組を見たとか、街にこんな乗り物が走っているとか。砂月が語って聞かせることを、庚人さまは楽しそうに聞いていた。七百年の封印の中で、砂月の声だけが外の世界と繋がる窓であり、その役目を仰せつかっていることが誇らしかった。 「おじいさまは昨年、亡くなりました。死期が近いとわかっていたから、私は計画を早めたかった。おじいさまが生きているうちに、庚人さまの復活をお見せしたかったです」 「間に合わなかったねえ」  庚人の声に砂月を慰めてくれるような感傷はない。事実を述べているだけの、軽い調子だ。砂月は責めなかった。庚人さまはそういう方だ。封印されたまま、人間の生き死にを眺めてきた。一人の老人の死に心を砕くような御方ではない。砂月はそれでいいと、自分に言い聞かせた。 「でも、間に合わなくても構いません。おじいさまは信じていましたから。庚人さまは必ずお戻りになると」  砂月は写真立てに手を伸ばして、ガラスの表面を指先でなぞった。皺だらけの優しい顔が、指の下で笑っていた。この人がいなければ、砂月は荒海の血を引く最後の一人として、世界にたった一人で立っていなければならなかった。 「ところで砂月。君たちがもともといた住み処、どうなったの?」 「荒らされました……あいつら、姑息な真似を」  施設には令状を持った生活安全課と公安が合同で踏み込んできた。裏で対策室が糸を引いたのだろう。呪具の類は事前に処分していたから、連中の手に渡るものはなにもなかったが、もうあの場所は使えない。砂月は苦々しく唇を噛んだ。おじいさまが守り続けた場所。あいつらはいつもこうだ。七百年前から、力で荒海の一族を潰し続けてきた。 「へえ。まあいいよ。もうそこはいらないでしょ」 「はい。ここからは庚人さまと私だけでやり遂げましょう」 「そうそう。身軽なほうがいい」  砂月はほおずきを両手で包み直した。朱色の光が指の隙間から漏れる。 「庚人さま。ひとつ、感じることがあります」 「うん?」 「高尾山の磐座(いわくら)の封印が、揺らいでいます。意図的に弱められているように感じます」 「ああ、それね。あの猫たちが罠を張っているんだよ」  庚人の声が、くすくすと笑いを含んだ。 「封印をわざと弱くして、ボクたちを誘き出すつもりなんだ。磐座に近づいたところで、陰陽師を総動員して叩く。よくできた作戦だよ。あの猫にしては」 「庚人さまの御身が危険では」 「ボクを誰だと思っているのかい?」  ほおずきの光が一瞬、強く脈打った。朱色が砂月の顔を照らす。 「ご無礼をお許しください」  砂月は目を伏せた。庚人さまは七百年前、この国の中枢を呪詛しようとした男だ。宗孝に封じられたのは不意を突かれたからであって、力で劣っていたからではない。罠とわかっていて踏み込むことなど、この御方にとっては戯れに等しい。 「罠があるなら、罠ごと壊せばいいだけでしょ。陰陽師が来るなら来ればいい。天狗が出るなら出ればいい。全部まとめて相手してあげるよ」  庚人の声が弾んでいた。待ち続けた瞬間が近づいている。 「それにさ、砂月。宗孝の魂を持ったあの子、覚えてる? 桃ちゃん」 「……はい」  砂月の唇が引き結ばれた。倉庫で庚人さまが宗孝の魂を宿す男に触れたこと。あのとき庚人さまの意識が向いていたのは、砂月ではなかった。 「あの子もきっと来るよ。宗孝の魂がボクを放っておけないもの。七百年前と同じだ。楽しみだなあ」  砂月は答えなかった。嫉妬を呑み込むのは、もう慣れた所作だ。庚人さまが夢の中で語る声は、いつも砂月だけに届いた。砂月だけが聞くことができる。世界でただひとり、封印の向こうから漏れるこの声を受け取れる器だった。  なのに庚人さまの声がいちばん弾むのは、宗孝の魂の話をするときだ。  わかっている。庚人さまにとって砂月は便利な道具だ。荒海の最後の生き残りとしてほおずきを守り、封印を解くために育てられた道具。おじいさまはそうは言わなかったけれど、砂月にはわかっていた。  それでもよかった。道具でもいい。庚人さまのそばにいられるなら。この声が聞こえなくなるくらいなら、道具のほうがましだった。 「庚人さま」 「なに?」 「私は鬼灯衆の復活など、どうでもいいのです」  砂月の声は淡々としている。写真立ての中のおじいさまに語りかけるような、幼い声。二十六年生きてきて、こういうとき砂月はまだ少女のような顔をする。おじいさまの前でだけ見せていた、守られていた頃の顔。  すべてはおじいさまたちと庚人が計画してきたことだ。砂月はそれをただ実行しただけ。 「庚人さまとおじいさまの願いを叶えたいだけです。庚人さまが復活なさるために、私をお使いください」  ほおずきの中で、庚人が愉快そうに笑った。子供が秘密を共有するときのような笑い方。 「なーんて献身的な子だろうね」  声が柔らかくなった。砂月の頬がわずかに紅潮する。庚人さまに褒められると、幼い頃に夢の中で頭を撫でてもらったときの記憶が蘇って、全身が温かくなる。 「心配しなくても大丈夫だよ。君はボクの大事な大事な子孫だよ。一緒に偉大なる事業をやり遂げようじゃないか」  大事な子孫。庚人がそう言うとき、その言葉にどれほどの重みがあるのか、砂月にはわからなかった。わからなくてよかった。わかってしまったら、もう歩けなくなる。 「……命をかけて、ご一緒します」  砂月はほおずきを胸に抱いた。朱色の光が胸元で脈打っている。  サイドテーブルの写真立ての中で、おじいさまが笑っている。あの穏やかな笑顔は、もう二度と砂月に声をかけることはない。代わりに、ほおずきの中の声が、深い闇の底から砂月だけに届く。おじいさまを失って、庚人さまだけが残った。この声がなければ、砂月はとうに一人だ。  このお方のために生きて、このお方のために死のう。  砂月は立ち上がった。ボストンバッグに写真立てとほおずきを丁寧にしまう。  窓の外、山の稜線の向こうに高尾山がある。 「行こうか、砂月」 「はい、庚人さま」  奥多摩のビジネスホテルのドアが静かに閉まった。部屋には備え付けの湯沸かしポットだけが残されて、まだ小さな音を立てていた。

ともだちにシェアしよう!