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第三十五話 置き土産

 三日目の夜、衣織(いおり)の帰りがいつもより遅かった。  テレビをつけたまま待っていたが、天気予報もニュースも終わって、バラエティが二本続いてもまだ帰ってこない。時計を見ると午後十時を過ぎていた。  鍵が回る音がしたのは、十一時を回った頃だ。 「ただいま帰りました」  衣織の声がいつもと違って、軽さがない。玄関で靴を脱ぐ音がやけにゆっくりで、サングラスを外す手つきにも迷いがあった。 「遅かったな。飯、先に食ったぞ」 「ええ、すみません。室長と話し込んでいまして」  リビングに入ってきた衣織は、ソファには座らなかった。テーブルの向かい側に立って、俺を見下ろしている。 「矢太郎(やたろう)さん、お話があります。対策室で……今後の方針が決まりました」  衣織の口調はいつも丁寧だが、今はひとことずつ、ゆっくりと喋っている。言いにくいことなのだろうか。俺は黙って先をうながした。 「庚人(かのと)の封印は限界に近い。砂月(さつき)がほおずきを持っている以上、高尾山の磐座(いわくら)を狙うのは時間の問題です。このまま守りに徹しても、いずれ突破されてしまう。ですので、先手を打ちます」 「先手って」 「肉を切って、骨を断ちます。こちらから磐座の封印を意図的に弱めて、砂月と鬼灯衆(ほおずきしゅう)の残党を高尾山に誘き出す。全国から腕利きの陰陽師を集結させ、天狗たちにも援軍を頼みます。砂月が磐座の封印を破った瞬間に、鎮魂の儀で庚人を再封印する」 「再封印って、あのほおずきにか」 「いいえ。対策室の呪具開発セクションが特殊強化ガラス器を製造しています。ほおずきに代わる現代の封印呪具です。そこに庚人の身体と魂を封じ直す」  新情報に突っ込むのも野暮かもしれないと思って口を閉じた。そんなセクションあるのかよ。組織図にあったか、あったような。まあ、ここまではわかる。勝ち筋のある作戦だ。 「封印の呪詞(じゅし)は、宗孝(むねたか)さまの継承者であるあなたに唱えてもらいます。丸暗記してもらえば、こちらで助力しますよ」 「はあ、俺が?」 「あなたの警察学校での座学の成績はそこまで悪くなかったでしょう」 「だからなんで知ってるんだよ」  いつものやりとりだ。衣織がかすかに笑ったが、その笑みがすぐに消えた。 「……ここまでが、作戦の概要です」  衣織が一拍、間を置いた。金色の目が俺をまっすぐに見ている。 「ここから先は、あなたに隠していたことです」  俺は反射的に衣織の唇を手のひらで塞ぐ。ここから先は聞いちゃいけない気がした。 「待ってくれ。聞きたくない、かも」  嫌な予感ならよく当たるんだ。  衣織は怯える俺の手のひらをそっと外し、困ったように眉根を下げて、「お願いです、聞いてください」と囁いた。  駄々をこねる子供みたいに俺が「いやだ」と訴えても、衣織は俺の手首を優しく掴んで言葉を続ける。いやだ、衣織——言わないでくれ。 「……儀には、私の消滅が必要です」  テレビの画面がちらちらと光っている。バラエティの笑い声が遠くで鳴っていた。衣織の声だけがやけにはっきり聞こえる。でもなにを言っているのか、俺には理解できない。理解したくない。 「庚人ほどの完全封印には、封じる力と対になる存在、識神(しきがみ)そのものを器として捧げなければなりません。これは術理です。覆すことはできない」  衣織の声は穏やかだった。報告書を読み上げているのと同じ調子で、自分が消えると言っている。 「ずっと知っていました。私がここにいる理由は、最初からそのためです」  最初からそのためにいた。頭の中でその言葉が反響する。それが衣織の役目。消えるとわかっていて、ここにいた。消えるとわかっていて俺の隣で。  昨夜のベランダでの会話を思い出す。「歳を重ねても、この手を取って、共に生きたいです」って、あの言葉は、叶わないとわかっていて口にした夢だったのか。 「おかえり」で泣きそうになっていた理由がわかった。嬉しかったんじゃない。残り時間が少ないと知っていたからだ。  衣織が穏やかで澄んだ目で俺を見つめた。よく晴れた夜空に浮かぶ満月みたいな、きれいな瞳だ。 「化物が一匹でもない方が、世の中にとっても良いでしょう」  らしくない自嘲に頭がカッとなって、俺は立ち上がっていた。  無意識に振り上げた拳が衣織の頬にまともに入る。乾いた音がリビングに響いた。衣織の顔がわずかに横を向く。  警察に入ってから十四年間、一度もやらなかったことだ。交番勤務の最初の日に上司に言われた。現場で手を出したら終わりだ。どんなに頭に来ても拳は使うな。繁華街で酔っぱらいに唾を吐かれても、取調室で容疑者に椅子を蹴られても、俺は一度も手を出さなかった。  その一線を踏み越えてしまった。後悔はない。後悔がないことがこわかった。  衣織は横を向いた顔をゆっくり戻して、俺を見つめた。殴られた頬が赤い。怒りも驚きもない、穏やかな目。殴られるとわかっていた顔だ。  俺を離さないと言ったくせに、あれは全部、消える前の置き土産だったのか。 「……嘘だったのかよ」  声が震えた。 「離さないって、言ったじゃねえか」  衣織の目がわずかに揺れた。穏やかな表情にひびが入る。 「……命のある限りは、おそばを離れません」  意地悪な言い方すぎる。命が尽きたら、離れるんだ。最初からそのつもりだった。  膝から力が抜ける。怒りがしぼんだあとに残ったのは、もっとひどいものだった。名前のつかない、ただ重たくて冷たいもの。  衣織の胸に額を押しつけた。殴ったばかりの拳で、衣織のシャツを掴んでいた。 「……ばか。ばかやろう」  衣織はしばらく動かなかった。それから、おそるおそる俺の背中に手を回す。壊れ物にふれるような手つき。百八十センチの猫又(ねこまた)が、俺を抱きしめるのをためらっている。 「……申し訳、ありません」 「謝んなよ……」  声が出ない。喉の奥が詰まって、息をするのがやっとだった。  俺は衣織を振りほどいて、寝室に逃げ込んだ。  ベッドの縁に座って、支給のスマホを握った。目を拭っても拭っても、画面がぼやけている。夜中なのは承知で、久世(くぜ)さんの番号を呼び出した。きっと起きている。  何回かのコール音のあと、「はい」と小さな返事があった。 「桃山(ももやま)くん。衣織くんから聞いたのですね」 「……はい」 「そう」  久世さんの声は静かだった。責めるでもなく、慰めるでもない。ただ静かに、俺の声を聞いている。 「久世さんは、いつから知ってたんですか」 「当主を継いだときから。久世家は宗孝さまと血縁の系譜なの。陰陽寮の中枢として、代々この秘密を守ってきたのです。識神の消滅が庚人封印の代償であること。宗孝さまの魂の転生と、その識神を守ること。それが久世家の宿命です」  久世家も代々、この秘密を抱えてきたのか。衣織が消えることを知りながら、代替わりのたびに「次の当主」に引き継いできた。 「どうにもならないんですか」 「……ええ、残念ながら」  久世さんの声がわずかに揺れた。 「あなたの気持ちはよくわかります。私もほかに手段があればと、ずっと悔しく思ってきました。でも衣織くんの本懐を遂げることを止めることはできない。衣織くんはこのために生きながらえ、あなたを守ってきたのですから」  そんな、と小さくつぶやく。衣織にとって消えることが本懐なのか。七百年生きて、最後に消えることが。 「……わかりました」  わかっていない。なにもわかっていない。でもそれ以上聞いたら、声が持たない気がした。 「桃山くん」 「はい」 「本当にごめんなさい」  電話を切った。画面が暗くなって、部屋の静けさが戻ってくる。ドアの向こうに、衣織の気配があった。  涙が頬を伝った。拭く気力もない。手のひらで顔を覆って、声を殺して泣いた。  消えるために生きてきた男が、「歳を重ねても共に生きたい」と叶わない夢を語った。  控えめなノックの音がする。衣織はいつも丁寧に、二回だけ叩く。 「……矢太郎さん」  声がでなくて、返事ができなかった。 「……入ってもよろしいですか」  俺の返事を待たずにドアが静かに開く。衣織がそこに立っていた。殴られた頬がまだ赤い。金色の目が俺を見て、一瞬だけ揺れた。俺が泣いているのを見たんだろう。  衣織がベッドの脇に膝をついた。 「どうか、お許しを」  今度はためらわなかった。大きな腕が俺の背中に回る。怪力のかけらもない。それでも指先だけが、まだ震えていた。 「後悔など、ありません。あなたと過ごし、あなたをこの腕に抱くことができた。私はずっとあなたを、あなたの生きるこの世を守ることだけを生きがいにしてきたのですから」  衣織の声が耳元で震えていた。抱きしめる腕に力がこもる。 「……もともと宗孝に惚れてたくせに。あいつの魂だからだろ」 「宗孝さまをお慕い申し上げていました。私の主であり、師であり、父でもあった」  衣織が一拍、間を置いた。 「ただ……なんと申し上げていいのか、お伝えしにくいのですが」 「なんだよ」 「抱きつぶしてしまいたいほど欲情したのは、あなただけです。きっとあなたが私のタイプど真ん中だったんでしょうね。こればかりは予想外でした。私も妖怪なので、本能には忠実だったようです」  泣きながら笑ってしまった。こいつは最悪のタイミングでそういうことを言う。七百年生きてきて、コミュニケーションの順番をまだ間違えている。 「なんだよ、このばか猫」 「泣かないでください、矢太郎さん」  衣織の手が俺の頬にふれた。涙を指で拭っている。冷たい指先。猫又の体温。 「あなたのすべてを愛しています。これからの人生も幸せに生きてほしいのです」 「お前がいない世界で、どうやって幸せになるんだよ」 「なりますよ、あなたなら」  衣織が少し間を置いた。 「ただ……しばらく恋人は作らないでいただけると、嬉しいです」  嫉妬だった。もうすぐ消えるくせに、嫉妬なんかしやがって。こいつは本当にどうしようもない。  見つめ合った。金色の目が近い。涙で滲んだ視界の中でも、その目だけがはっきりと見える。穏やかで、切なくて、でも覚悟だけじゃない感情が滲んでいた。きっとこわいのだ、消えることが。離れることが、こいつもこわい。  どちらからともなく、唇が重なる。  涙の味がした。俺のなのか、衣織のなのか、わからない。

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