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第三十四話 ゴジラのソフビ

 庚人(かのと)に攫われた翌朝、俺は衣織(いおり)の神楽坂のマンションに移された。  久世(くぜ)さんの判断だ。荒海庚人(あらみかのと)は俺の魂を狙っているし、単独で動くのは危険である、と。要するに避難で、もっと言えば監禁だ。対策室への出勤も、今後の方針が決まるまで禁止された。 「少しの辛抱です。ここなら私の結界が及びますから」  衣織は申し訳なさそうに合鍵を差し出したが、渡されたところで外には出られないっつうの。  前に来たときと変わらず、衣織の部屋は殺風景だった。必要最低限の家具。ソファ、テーブル、薄型テレビ。本棚には古い和綴じの書物が数冊と文庫本が何冊か収まっているだけ。カーテンは白で、壁も白い。絵もポスターもなかった。  ただ一つだけ、テレビ台の端に年季の入ったゴジラのソフビが置いてあった。塗装が一部剥げているが、大事に飾られている。この殺風景な部屋でそこだけが妙に浮いていて、こいつの数少ない私物なのだとわかった。前に担ぎ込んだときは衣織が死にかけていたから細かいことまで見る余裕がなかったが、あらためて気にすると異様なほど生活感がない。  掃除はハウスキーパーに週二回ほど頼んでいるらしい。料理はうまいくせに自分の暮らしにはとことん興味がないのだろう、冷蔵庫には水のペットボトルと賞味期限間近のヨーグルトしか入っていなかった。あれだけ食うくせに、家ではいっさい食わないのか。  結界は残るからここにいてくださいと言い残して、衣織は対策室に出ていった。出がけにリモコンを手渡される。 「もし退屈でしたら。私のおすすめはゴジラVSデストロイアです」  テレビの電源を入れると、サブスクのゴジラシリーズがマイリストにずらりと並んでいた。初代から最新作まで、すべてに視聴済みマークがついている。こいつはたぶん初代ゴジラを劇場で観ているだろう。筋金入りだったんだな。 「……えっと、ありがとな」  衣織は満足そうにうなずいて出ていった。  さてと、007シリーズでも見るか。俺はダニエル・クレイグ派である。  しばらく映画を流し見して、エンドロール手前で消した。窓の外には神楽坂の路地が見えて、買い物帰りの人や犬を散歩させている人が通っていく。六月の陽射しが白い。  ぼんやり眺めながら、考えていた。俺はなんでここにいるんだろう。  理由はわかっている。庚人に狙われているから、衣織の結界の中にいるのがいちばん安全だ。理屈はわかるが、俺が考えているのはそういうことじゃなかった。  なんで俺は、この殺風景な部屋にいて落ち着いているんだろう。  部屋中に衣織のにおいがする。家具にも空気にも染みついた、香ばしくて干したての布団みたいなにおいだ。人間のにおいとはちょっと違う。最初は気づかなかったけど、今ははっきりわかる。猫又(ねこまた)のにおいなんだろう。俺の鼻がそれを「安全」だと判断して、身体の緊張が解けていく。  庚人に攫われて、身体にはまだ薄く痕が残っている。あの倉庫の闇を思い出すと胃の奥が冷たくなった。なのに衣織の部屋にいると、その冷たさが遠くなる。おかしな話だった。攫われたのはつい昨日のことなのに。  これは宗孝(むねたか)の魂がそうさせているのか。  七百年前の主が、識神(しきがみ)のそばを安全だと覚えているのか。俺の身体に刻まれた記憶じゃなくて、魂の記憶。前世の男が知っていた安心感を、俺が勝手に追体験しているだけなのか。  だとしたら、俺が衣織のそばにいたいと思うこの気持ちは、俺のものなのか。  わからなかった。  衣織を好きだと思う。好きだと言った。あいつも俺を好きだと知っている。身体を重ねたし、「俺はお前のもんだ」と勝手に口にしていた。あれは本心だった。嘘じゃない。  でも、その本心はどこから来ているんだろう。  桃山矢太郎(ももやまやたろう)という人間が、三条衣織(さんじょういおり)という男を好きになったのか。それとも、香陽宗孝(かようむねたか)の魂が七百年も自分を待っていた識神を慕っているだけなのか。俺の感情は俺のものか、死んだ男の残り香か。  ソファに座ったまま天井を見上げる。衣織の部屋はなにもない。この男はここでひとりで、七百年ぶんの夜を過ごしてきた。俺が来るまで、二人ぶんの食器がテーブルに並んだことはなかったんだろう。  夕方、玄関の鍵が回る音がした。  その音を聞いた瞬間に、身体の力が抜ける。自分でも驚くほど、衣織を待っていたらしい。テレビなんか上の空で、俺はこの音を待っていたんだ。  衣織がスーパーの袋を両手にぶら下げて帰ってきた。食材と、俺の歯ブラシとタオル。俺がここで暮らす準備を全部してきたらしい。スーパーで歯ブラシを選んでいる百八十センチの美男子を想像したら、少しだけおかしかった。 「ただいま帰りました。お待たせしてすみません」 「おう、おかえり」  半年前に対策室に配属されたとき、サングラスの男が相棒ですと言われたあの日から、こんな未来は想像もしなかった。猫又の妖怪と、所轄のしがない刑事が、神楽坂のマンションで同棲の真似ごとしている。おかしな絵面だ。  なのに、この部屋が俺の場所みたいに馴染んでいる。  考えれば考えるほど、わからなくなる。俺の前にも宗孝の魂は幾度も転生した。その転生した魂たちの記憶がきっと俺の中にあるはずだ。まったく覚えていないが、その記憶のかけらは俺の一部なのか。  俺は何者なんだ。俺を構成するものは俺だけじゃない。その事実が、ひどくこわかった。  飯を食い終わって風呂に入り、ソファに並んで座った。衣織はサングラスを外して、ゆったりと長い脚を組み文庫本を読んでいる。金色の目が文字の上を滑っていた。睫毛が伏せた目に影を落としている。俺はその横顔をぼんやり眺める。  きれいだな、と思った。  この感覚だけは、宗孝のものじゃない気がする。七百年前の陰陽師が識神の横顔を見て「きれいだな」と思ったかどうかはわからないけど、今この瞬間にそう思っている俺は、たしかに俺だった。 「お前のさ、その目って……猫又のなんか?」  読書に集中する衣織の顔をそっとつついた。金色の瞳がすっと細くなって、俺を捉える。 「……そのようです。宗孝さまの識神であったときは猫の姿だったので気にならなかったのですが、人間の姿でもこうなので。私も不本意なんですよ」 「まあ、不便だよな」  こいつが老若男女にときめきを振りまくのを、はじめは迷惑に感じつつおもしろがっていた。俺に効かないのは、主である宗孝の魂を持っているからだろう。今となっては、あんまりおもしろくない。衣織は美形だし、誰でもそりゃときめく。でも、おもしろくない。 「いいえ、いちばん効いてほしい人に効かないからです」  不意にぐいっと引き寄せられる。 「あなた以外に愛想をふりまいたところで、ね?」  ふれるだけのキスをして満足したのか、微笑んだあとに衣織は読書に戻った。  なにこれ、なんだこれ。心臓がうるさい。スマートすぎて、腹が立つ。俺は真っ赤になった耳とか頬を誤魔化したくて、衣織の肩に顔をうずめる。  二日目の昼も衣織の部屋で暇を持て余した俺は、掃除をして洗濯をした。洗面台に衣織が買ってきた俺の歯ブラシがあって、冷蔵庫には食材が入っている。殺風景だった部屋に、人間の暮らしの気配が混じり始めていた。  衣織はずっとひとりで暮らしている。長い間、俺には想像もできない出来事を経験して、住処を変えながら。誰もいない場所に帰ってきて、夜を過ごして、誰もいない朝を迎える。それを七百年も繰り返してきた。  昨夜、衣織は俺のためにスーパーで買い物をしてきた。歯ブラシの色を選ぶのに迷ったりしたんだろうか。  飯を作っている衣織の背中は嬉しそうで、たまらなくなって目をそらした。あれは宗孝の気持ちか。俺の気持ちか。  どっちでもいいのかもしれない。宗孝の魂であろうと、俺自身の感情であろうと、衣織のそばにいたいと思っているのは今の俺だ。この身体で、この目で、衣織という存在を感じている。  そんなことを考えていたら、夕方になっていた。  日が暮れきった頃、玄関の鍵が回る音がした。  俺はソファでテレビを見ていて、画面では天気予報が明日の雨を伝えている。 「おう、おかえり」  振り返らずに言った。返事がなかった。  テレビを消して振り返ると、衣織は玄関に立ったまま、スーパーの袋を片手にぶら下げている。靴も脱いでいない。サングラスの奥の目がどうなっているかは見えないが、唇がわずかに震えていた。 「……どうした」 「いえ……」  衣織がサングラスを外した。金色の目が潤んでいる。泣いてはいない。泣く一歩手前の、堪えている顔。 「……夢のようで、あなたに出迎えられるなど」 「大げさだな。テレビ見てただけだろ」 「ただいま帰りました」  衣織が靴を脱いだ。背筋を伸ばして、小さく頭を下げた。 「すぐお夕飯にします」  台所に立つ衣織の指先がわずかに震えていた。対策室で久世さんとなにを話していたのか。聞いたら答えるだろうか。たぶん答えないだろう。こいつは大事なことほど黙る。  生姜焼きと味噌汁。テーブルに二人分の食器が並ぶ。衣織はしばらくそれを見つめて、箸を取らなかった。 「どうしたんだよ、調子悪いか?」 「……いいえ」  衣織はどんぶりで三杯、飯を食った。いつもどおり、だよな。  飯のあと、ベランダに出た。  六月の夜風が生ぬるい。神楽坂のマンションのベランダは狭くて、二人で立つと肩がふれる。衣織が缶ビールを二本持ってきた。俺のために買ってきたやつだ。こいつは酒を飲まない。  プルタブを引いて、一口飲む。俺は安い発泡酒しか飲まないから、ちゃんとしたビールの苦味がうまい。向かいのマンションの窓に明かりがついているのをぼうっと眺めた。 「なあ、衣織」 「はい」 「全部終わったら、どうするんだ?」  衣織がビール缶を両手で包んだ。飲みもしないのに持っている。 「……さあ、考えたことがありません」 「さすがにずっと対策室にいて、陰陽師やりたいわけじゃねえだろ」 「そうですね」  衣織が少し間を置いた。ベランダの手すりに肘をついて、夜空を見上げている。神楽坂の空は東京の空だから、星はほとんど見えない。 「あなたといろいろなところへ行ってみたい。あなたが行ってみたい場所や、やりたいことに付き合って、驚いたり喜んだりするあなたをただ見ていたい」  衣織の声は静かだった。いつもの軽い調子じゃない。 「歳を重ねても、この手を取って、共に生きたいです」  俺はビールを一口飲んだ。まるでプロポーズだと気づいて、言わないでおく。 「たぶん俺のほうが先に死ぬと思うけどな。妖怪は長生きだろ」 「どうでしょう。天命は誰にもわかりませんよ」  衣織が微笑んだ。穏やかで、少しだけ寂しい笑い方。  そのときは深い意味があるとは思わなかった。人間の寿命を考えているんだろう、俺のほうが先に老いて死ぬから。  ベランダの手すりに並んで肘をついて、生ぬるい風に吹かれた。衣織の横顔は穏やかで、金色の目が向かいのマンションの明かりを映している。  魂の問題は、まだ答えが出ない。宗孝の残り香なのか、俺自身の気持ちなのか。でも今この瞬間、衣織の隣に立っていることが嬉しい。こいつと全部終わったあとの話ができることが嬉しい。それだけは嘘じゃなかった。  嬉しかったんだ。あのときは。

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