33 / 37
【R-18】第三十三話 上書き
帰り道は覚えていない。
久世 さんたちの制止の声を衣織 が完全に無視して、俺を有無を言わさず抱えたまま公用車に押し込んだことだけは覚えている。気がついたら玄関に立っていた。靴を脱ぐ手が震えている。
「風呂、入る」
「……はい」
衣織がなにか言いかけて、飲み込んだ。
浴室に入ってドアを閉めた。服を脱ぐとシャツのボタンが三つ外れていることに気づく。庚人 が外した三つ。四つ目以降は俺がいま自分で外している。その区別がつくのがたまらなく気持ち悪かった。
熱いシャワーを浴びた。鎖骨を擦る。庚人の指が這ったところ。腹を擦る。ベルトにふれた手の跡。何度擦っても感覚が取れない。皮膚の下に冷たいものが残っている。あの死人みたいな指の温度が、あのねっとりとした甘い残香が、まだ鼻の奥にへばりついている気がしてならなかった。
吐き気がこみ上げて洗面器を掴んだ。胃の中身は空っぽでなにも出なかった。
湯船に浸かってみても、目を閉じると庚人の顔が浮かぶ。穏やかに笑っていた。俺に向かって「おいしそう」と。喰われるところだった、あいつに。誰にもふれられたくない、衣織以外には。
ドアの向こうに衣織の気配がした。ずっとそこにいる。一歩も動かずに、俺が出てくるのを待っている。
風呂から上がると、衣織がリビングに正座していた。
背筋が真っ直ぐで、膝の上に手を置いて俺を待っている。サングラスはしていない。金色の目がいつもと違う。怒っている。だが怒りの向け先が俺じゃないことはわかった。こいつは自分に怒っている。
「コーヒーを淹れました」
「……ああ、サンキュー」
向かい合って座る。コーヒーが胃に落ちると少しだけ身体が温まったが、あの甘い残香は消えてくれない。風呂で何度洗っても、コーヒーを飲んでも、鼻の奥に居座って離れない。
「……桃山 刑事」
急にいつもの呼び方に戻った。矢太郎 さんとは呼ばない。距離を取ろうとしている。
「私の落ち度です。あなたのそばを離れるべきではなかった」
「お前のせいじゃねえよ。久世さんに呼ばれたんだろ」
「それでも。私がそばにいれば、あんなことには——」
「だからお前のせいじゃないって言ってんだろ」
声が強くなって、自分でも驚いた。怒りたいわけじゃない。ただ衣織が自分を責めている顔を見ていたくなかった。
どちらも口を開かなかった。
マグカップを両手で包む。衣織の目を見ることができない。見たら庚人の顔がちらつく。あの暗い目、冷たい指。鎖骨を親指で強く擦る。
「……衣織」
「……はい」
「俺を抱けよ」
衣織の肩がびくりと動いた。
「あいつが俺にさわったところ、全部お前で塗り替えてくれ」
「桃山刑事、それは——」
「桃山刑事、じゃねえだろ」
衣織が息を呑む。俺はだらりと下がったその手を取って、自分の胸に這わせた。
「俺はお前のもんだ。あいつのもんじゃない。だから——」
衣織の金色の目が揺れた。戸惑いの下から出てきたのは剥き出しの渇望だ。いつもなら絶対にそんな力を入れないはずの大きな手が、骨が軋むほどの強さで俺の手首を掴む。金色の瞳の奥で、瞳孔が獣のそれへ縦に裂けた。
「……矢太郎さん」
名前を呼んだ。その声にもうためらいはなかった。
「あなたは、私のものです」
衣織が俺を引き寄せた。胸と胸が強くぶつかる。衣織の体温が容赦なく俺の皮膚を灼いた。じわじわと、けれど圧倒的な熱量で攻め立ててくる手だ。あの死人の冷たい手とは違う。
押し倒されるまでの一瞬さえもどかしかった。衣織は俺の衣服を引きちぎるように剥ぎ取ると、そのまま首筋に噛みつくように唇を寄せる。庚人の指が這ったところを上書きしてくれた。
「うぅっ……ん」
温度がまるで違う。庚人は俺の体温を奪ったが、衣織の舌は熱を注ぎ込んでくる。皮膚が充血するほど丁寧に、執拗に貪られ、あの甘い残香が強引に払い落とされていった。鼻の奥を埋め尽くすのは衣織のにおいだけだ。陽だまりにまどろむ、猫の毛のにおい。
だがベッドに縋りついても、まだ皮膚に残る冷たさが消えきらない気がして焦燥に駆られた。もっと奥までこいつの熱で満たされなければ、あの死人の影を振り払えない。
「衣織、足りねえ……もっと、もっと強くしろ……!」
衣織が長い指で俺の奥をこじ開け、ぬるついた熱を広げていく。それすらも待ちきれず、俺は衣織を仰向けにして逞しい体躯の上に自ら跨がった。
「矢太郎さん……?」
衣織の金色の目が驚きに揺れる。その胸に両手を突いて、俺は自分で後ろを広げ、衣織の熱い質量を自らのなかに誘導した。
庚人を消したくて始めたはずだ。あいつの冷たい指を、衣織の熱で塗り潰してしまいたかった。なのに衣織の上に跨がった瞬間、庚人のことなんかもうどこにもなかった。ただ衣織が欲しい。宗孝 の魂じゃなくて、桃山矢太郎 が。
人間離れした大きさが容赦なく内壁を押し広げていく。
「あ、熱い……っ、やっぱ……デカいな……ん!」
「矢太郎さん、無理をしないで、私が——」
「黙ってろ……! 自分で、入れる……っ」
ゆっくりと腰を落とす。限界まで引き絞られるような痛くて熱い感覚。爪が衣織の広い肩に深く食い込んだ。最奥のいちばん深いところまで衣織の硬い先端が到達する。その瞬間、頭の芯が痺れるような快感が弾けた。
「は、あ、っ……入った……全部、お前の……っ」
見下ろす衣織の顔は完全に理性が吹き飛んでいた。瞳孔が針のように細くなり、下から俺の腰をがっしりと、骨が軋むほどの腕力で掴み上げてくる。
「……いい眺めです。あなたが、私を選んでくれたなど」
衣織が俺を見上げている目に、宗孝の影はなかった。七百年前の主を重ねているんじゃない。今ここで俺の腰を掴んでいるこいつの目は、桃山矢太郎だけを見ている。俺も、お前だけを見ている。
低く唸るような獣の声を漏らし、衣織が下から激しく突き上げてきた。
「ひあ、っ、あ、そこ……っ、だめ、強、い……!」
この体勢では衣織が俺の最奥を容赦なく抉り、逃げ場がない。肉のぶつかる激しい音が寝室に響き渡る。衣織が動くたびに、庚人にふれられた恐怖の記憶が快感に塗り替えられていく。死人の冷たさが遠くなる。
「矢太郎さん……矢太郎さん……!」
名前を呼びながら、衣織は俺の身体を貫いていく。独占欲に狂った獣の手つき。腰を掴む指の力が強すぎて、明日には指のかたちの青あざが残るだろう。だがその痛みが、妙に俺を安心させた。
激しく腰を揺らされ、視界が火花を散らすように白く染まっていく。鼻の奥にへばりついていた残香は、完全に衣織のにおいと互いの汗の熱に塗り替えられて消え去っていた。
途中で、衣織が俺の身体を強引に引き寄せて動きを止めた。俺の顔を大きな両手で挟んで、じっと見つめてくる。
「大丈夫ですか。痛くないですか」
「……大丈夫だよ」
「嘘をつかないでください」
「嘘じゃねえよ。お前にめちゃくちゃにされて……やっと正気に戻った気がする」
衣織の目が潤んだ。泣いてはいないが、必死に堪えている。
「……あなたを離しません。私の命がある限り」
「知ってる」
終わったあと、衣織は俺を抱き込んだまま離さなかった。
腕の力が強い。いつもなら加減するのに、今夜は緩めない。猫又 の腕力で俺を自分の胸に押し付けて、全身で覆うように抱いている。
苦しくない、むしろ安心した。この腕の中にいれば庚人の手は届かない。
「衣織」
「はい」
「俺はお前のもんだ」
「……ええ」
「お前は?」
衣織が少し間を置いた。
「……私も、あなたのものです」
初めてだった。こいつが対等な言葉を返したのは。七百歳の識神 が、主従でもなく一方的な忠誠でもなく、「あなたのもの」と言った。
庚人のあとを消すために抱かれたんじゃない。俺が衣織を欲しかっただけだ。その事実が、宗孝の魂とは関係なく、俺だけのものとして胸の真ん中に座っていた。
庚人の冷たさはもう残っていない。あの甘い残香も消えている。身体の隅々まで衣織の温もりと匂いで塗り替えられている。鎖骨も、腹も、ベルトの上も。全部。
窓の外が暗い。いまが何時なのかわからなかった。
「衣織」
「はい」
「腹、へったかも」
「……ああ、すみません。すぐに——」
「まだ動くな。もうちょっとこうしてろ」
衣織の腕の力が少しだけ強くなった。
俺はその腕の中で目を閉じた。庚人のにおいはもうしない。衣織のにおいだけが、俺を包んでいた。
ともだちにシェアしよう!

