32 / 37

第三十二話 五歳の夏の声

 目が覚めたとき、俺はまだ衣織(いおり)の太い腕の中にいた。  カーテンの隙間から差し込む朝の光が寝室をぼんやりと満たしている。衣織はまだ深い眠りの中だった。俺の胸のあたりに頭を埋めるようにして、穏やかな寝息を立てている。  自動販売機と同じ背丈の図体はひどく重い。昨夜、この身体に組み敷かれて限界まで貪り尽くされたのだという事実が、節々の気怠い痛みとなって蘇る。シーツにはシワが寄ったまま、互いの体温と残り香がへばりついていた。  俺といるときだけ、深く眠れる。  宗孝(むねたか)を失ってから今日まで、この猫又(ねこまた)は一度も安堵して眠ることなく走り続けてきた。やっと訪れた安息を壊したくなくて、俺は重い腕に抱かれたまま天井を見つめる。昨夜のことを思い出すだけで耳の奥がじんと熱くなった。名前を何度も呼ばれた。あの声が首筋の吸い上げの跡と一緒に、まだ身体に残っている。  やがて衣織の長い睫毛が微かに揺れ、ゆっくりと目を開いた。金色の瞳が寝起きの光のなかでぼんやり焦点を結ぶ。俺の顔を見つけた瞬間、ふわりと唇が弧を描いた。サングラスに隠されていない、ただ俺だけに向ける無防備な笑顔。 「……おはようございます」 「おう」  わざとぶっきらぼうに視線を逸らした。顔が熱い。 「昨夜は——その、私はあなたに」 「言うな、蒸し返すな。さっさと起きて飯にしろ」  衣織は一瞬呆気にとられて、すぐにくすりと笑った。しなやかな動作でベッドから起き上がる。台所に立つ広い背中を見つめながら、俺はそっと首筋をさすった。衣織の唇がふれていた場所がまだひりひりしている。  対策室への出勤はいつもどおり公用車だった。  衣織がハンドルを握って、俺が助手席。車内にはまだ昨夜の空気が残っているような気がしたが、衣織は走り出した瞬間にはもういつもの実務的な顔に戻っていた。サングラスで目を覆い、なに食わぬ顔で前方を見据えている。切り替えが早い。こっちはまだズボンの下も首筋もじんじんしてるのに。  対策室に出勤後はほおずき追跡の進捗、鬼灯衆(ほおずきしゅう)の動向、高尾山の封印の監視状況。いつもどおりの業務だ。衣織が俺の隣に立って時折補足を入れる。昨夜、俺に縋り付いて泣いていた男と同一人物とは信じられないほど澄ました顔をしていた。  報告がひと区切りついたところで、久世(くぜ)さんが顔を上げた。 「桃山(ももやま)くん。ネクタイはきっちり締めたほうが、今日のスーツに合っている気がしますね」 「……はい?」 「いえ、なんとなく」  久世さんはそれだけ言って、書類に戻っていった。俺は自分の襟元に手をやる。今朝、鏡の前で限界まで締めてきたはずだった。つまり、そういうことだ。  隣の衣織は素知らぬ顔で書類をめくっている。おい、お前のせいだぞ。  昼過ぎに外回りの仕事が入っている。高尾山の結界の定期点検だ。あの陽気な天狗たちとはけっこう仲良くなった。衣織と二人で向かうはずだったが、久世さんが衣織を呼び止める。 「桃山くん、先に車で行っていてもらえますか。衣織くんはすぐ追いかけさせます」 「了解です」  一人で対策室を出て、エレベーターで地下駐車場へ向かった。  コンクリートの壁に囲まれた薄暗い通路を歩く。ポケットから公用車のキーを取り出して車に近づいた。ドアノブに手をかけた瞬間。  背後に気配がして——。  振り返る暇はなかった。首筋に鋭い痛みが走る。甘ったるい香りが鼻腔を刺した。覚えがある。鬼灯衆の香のにおいだ。  身体から一瞬で力が抜けて、膝が折れた。コンクリートの床が頬に当たる。  それを最後に意識が落ちた。  次に目を開けたとき、見知らぬ天井があった。  薄暗い。コンクリートの壁に囲まれた倉庫のような空間。蛍光灯は点いていない。わずかに差し込む光は高い位置の小窓からだけだった。身体を動かそうとして両手首に結束バンドがかかっていることに気づく。後ろ手に縛られて冷たい床に転がされていた。頭が重い。呪物の残り香がまだ鼻の奥にへばりついている。  足音が近づいてきた。 「目が覚めた? 桃山矢太郎(ももやまやたろう)」  砂月(さつき)の声だった。暗がりのなかに女の輪郭が浮かぶ。サイドに結んだ髪、整った顔に冷たい笑み。 「あんたはいらないんだよ、生かしておくだけ無駄。でも庚人(かのと)さまがどうしても会いたいんだって」  砂月が悔しそうに吐き捨てて、横に退いた。その奥、さらに深い闇のなかから一人の男が歩み出てくる。  長い絹のような黒髪。線の細い、整いすぎた顔。穏やかに笑っている。  心臓が跳ね上がった。  わかる。この顔を、俺は知っている。  昨夜の夢だけじゃない。子供の頃から何度も悪夢に現れていた。長い髪のきれいな男。とてもこわくて、顔を見たら死んでしまうと、ずっと意識の底に押し込んできた。気のせいだと言い聞かせてきた。  気のせいなんかじゃなかった。 「やあ、桃ちゃん」  声がねっとりと甘い。子供に話しかける柔らかさ。だがその奥にある温度がおかしい。人間の声じゃない。 「すっかり美味しそうになったね」  全身が総毛立った。この声、この言い方。五歳の夏、三日間消えたあの闇のなかで聞いた声だ。  ——もっと食べ頃になってから、こちらにおいで。  二十七年を飛び越えて戻ってきた。忘れていたんじゃない。思い出したら壊れるから脳が隠していた。身体が覚えている。この男の前に立ったときの、細胞ごと逃げろと叫ぶ恐怖を。 「お前……荒海庚人(あらみかのと)」 「ボクのこと覚えてくれてたんだ。嬉しいな。やっぱり宗孝の魂なんだねえ」  庚人がしゃがみ込んで、俺の顔を覗き込んだ。白い手が顎を掴む。  氷みたいに冷たい指。  衣織の冷たさとは根本が違う。衣織の手は、ふれた場所からじわじわと熱を広げた。庚人の指は体温を奪っていく。死人の手だ。 「ボクはね、七百年も待ったんだよ。宗孝の魂がこうして新しい器のなかでちゃんと熟すまで。焦っちゃダメだって自分に言い聞かせて、ずっと我慢してたんだからさあ」  顎を持ち上げられて無理やり目を合わされた。庚人の瞳は暗い。底が見えない。 「ねえ桃ちゃん。宗孝の魂ってね、とってもきれいなんだよ。透き通った清い水みたいで。ボクをほおずきに封じたときの、あの輝き。ゾクゾクしちゃうなあ、忘れられないんだ」  庚人の指が顎から首筋に滑った。そこでぴたりと止まる。衣織が昨夜深く吸い上げた赤紫の跡をなぞるように。 「おや、これ。誰かに噛まれた? あの野良猫ちゃんかな。相変わらず行儀が悪い猫だね。ボクのモノに勝手に傷をつけるなんて」 「……さわるな、俺はお前のもんじゃねえ!」 「ふふ……やーだよ」  庚人がころころと笑った。無邪気だからこそ、余計に気味が悪い。  そのまま俺の上に馬乗りになった。縛られた手では抵抗できない。脚で蹴ろうとしたが、細い片手で軽く押さえつけられた。人間の筋力が通じる相手じゃない。 「宗孝はね、最初からボクのものだったの」  庚人の指がシャツのボタンにかかった。ぷちり、と一つ目が外れる。 「あの男がボクを封印するまで、ボクたちは世界でたった一つの完璧な対だったんだよ。封じる者と封じられる者。陰と陽。切っても切れない関係。わかるだろ?」  二つ目が引きちぎられるように外された。庚人の指が鎖骨にふれる。  衣織とはなにもかもが違う。衣織は昨夜、ボタンひとつ壊さないように俺の身体にふれていた。庚人は壊すためにさわっている。支配して穢し、自分の所有物にするために。 「だから宗孝の魂が入ったその身体も、全部ボクのものなんだよ。誰にも渡さない」 「ふざけるな……離せ!」 「ふざけてないよ。ボクは本気さ。いつだって、七百年前からずっと本気」  三つ目のボタンが外されて胸が剥き出しになった。庚人の指が胸の真ん中を滑り降りて、腹を過ぎ、ベルトに手がかかる。  内臓がひっくり返りそうな吐き気が込み上げる。これは捕食だ。魂ごと喰われる。 「やめろ……やめ……ろっ!」 「大人しくしてってば。だって七百年も待ったんだよ? ご褒美くらいもらったって罰は当たらないでしょ——ああ、おいしそう」  庚人の顔が近づく。唇がふれそうな距離。  その瞬間——倉庫の壁が、爆発した。  コンクリートの破片が飛び散り、粉塵が舞い上がる。小窓から差していた薄い光がかき消されて、一瞬の暗闇。その暗闇を切り裂いて、なにかが飛び込んできた。  白い影。  凄まじい速度で庚人に突っ込んだそれは、猫だった。白い、大きな猫。犬なんてもんじゃない。虎に近い巨体が庚人の身体を跳ね飛ばした。  庚人が壁に叩きつけられる。粉塵のなかで笑い声が響いた。 「あはは、やっと来た。遅いよ猫ちゃん! 爆発系の霊符(れいふ)なんてイカすじゃん!」  猫が人の姿に戻った。衣織だ。  見たことのない顔をしていた。サングラスは吹き飛んでいる。金色の目がぎらぎらと光って、瞳孔が縦に裂けている。完全に猫又の目だ。唇が薄く開いて犬歯が覗いている。七百年の化け猫が、殺意を隠さずに庚人を睨んでいた。 「矢太郎(やたろう)さんに、さわるな」  低い声だった。いつもの丁寧な口調じゃない。敬語すら剥がれている。  庚人は壁に背をつけたまま、楽しそうに笑っている。 「怒ってる怒ってる。猫ちゃん、目がこわいよ」 「……殺すぞ」 「殺せないよ。だってボク、まだ魂だけだもん。この身体は砂月が用意してくれた仮のものだからさ。壊しても意味ないよ」  庚人の輪郭が薄れ始めた。実体を維持する力が限界に近い。最後に俺のほうを見て、にっこりと笑った。 「桃ちゃん、また会おうね。今度はもっとゆっくり、ね」  庚人が消えた。煙のように。倉庫に残った砂月は、衣織を一瞥して舌打ちすると闇のなかに身を翻した。追う余裕はなかった。  衣織が俺に駆け寄った。膝をついて結束バンドを素手で引きちぎる。手首が自由になった瞬間、力が抜けて前のめりに倒れかけた。衣織の腕が受け止める。 「大丈夫ですか。怪我は。どこか——」 「……大丈夫」  大丈夫じゃなかった。身体のどこも傷ついていないし、庚人はなにもしていない。未遂で終わった。なのに全身が汚されたような感覚がへばりついて取れない。鎖骨を這った冷たい指の跡。ベルトを外そうとした感覚。吐き気が戻ってきた。  衣織は俺の身体を見た。はだけたシャツ、外れたボタン、ベルトにかかった手の跡。その目が一瞬で凍りついた。金色の瞳に、殺意とは別の感情が走る。自分がいなかったせいだと、責める目だ。 「い、衣織」 「……はい」 「帰ろう」  衣織が俺の身体に自身のジャケットをかけた。大きすぎるジャケットが俺の肩を覆う。脱ぎたてのぬくもりがまだ残っていた。衣織の匂いがした。昨夜、俺の首筋に顔を埋めていたときと同じ匂い。  その匂いを嗅いだ瞬間、涙が出そうになったが堪えた。刑事は簡単に泣いちゃいけない。  衣織が俺を軽々と抱え上げた。壊れ物みたいに丁寧に。  俺は今、変だ。衣織が俺を守ってくれる。それだけで、嬉しい。いつも誰かを守っていた。それが仕事だったし、性分に合っていた。  でも、今は守られて嬉しい。俺はお前に、守ってもらいたいのか。  倉庫の外は夕暮れだった。どこかの埠頭だ。海の匂いがする。夕暮れの風が、汗ばんだ肌に冷たかった。

ともだちにシェアしよう!