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【R-18】第三十一話 七百年ぶんの夜

 唇が離れた。  ほんの数秒のあいだ、どちらも動かなかった。暗い部屋のなか、互いの荒い息だけが重なり合って聞こえる。衣織(いおり)の熱い吐息が、俺の唇の端にじっとりとかかっていた。  もう一度、唇が重なる。今度は深いキスだ。ぬるっと衣織の舌が入ってくる。何度も角度を変えながら、衣織は俺へ丁寧に口づける。  暗闇に目が慣れるにつれ、衣織の瞳の変化がはっきり見えてきた。いつもの涼しげな切れ長の瞳がすこし丸みを帯びて、虹彩が深い金色に染まっている。人間の目じゃない。猫又(ねこまた)の本性が滲み出しているのだと、言われなくてもわかった。 「……本当に、いいんですか」  声がいつもより何倍も低かった。押し殺した、喉の奥から絞り出すようなひび割れた声。 「好きにしろって言っただろ」 「後悔すると——」 「うるせえな。二回も言わすな」  衣織の理性が完全に外れる瞬間を、俺は特等席で見た。  金色の目がすっと細くなって、長い指が容赦のない強さで俺の肩を掴んだ。視界が激しく揺れ、強引に押し倒される。ベッドのスプリングが軋んだ。天井に切り替わった視界に、衣織の大きな顔が覆いかぶさってくる。百八十センチの長身が俺の身体のすべてを圧し潰すようにのしかかると、もうどこにも逃げ場はなかった。  前とは違う。  あの夜は衣織の精神が限界まで崩れていて、俺がそれを支える形だった。猫又の本能に引きずられ、半ば意識のないまま俺の身体を求めていた。今夜は違う。衣織の目に明確な意識がある。七百年分の感情を全部わかったうえで、こいつは俺に手を伸ばしている。 「力、加減するので……」 「しなくていい」 「します。あなたはか弱い。簡単に壊れてしまう」  こんな筋肉ダルマの俺に向かってか弱いなんて、そんなこと言うのは衣織くらいだ。衣織の長い手が、俺のシャツのボタンにかかる。一つずつ丁寧に外していく指先が酷く繊細で、それが逆にたまらなかった。防火扉すら素手でこじ開ける怪力で俺を組み伏せておきながら、ボタンひとつ壊さないように神経を使っている。その歪な自制が胸を締め付けた。  シャツの前が割れて、肌が夜の空気に晒される。衣織の冷たい指先が俺の胸元にそっとふれる。驚くほど冷たいのに、さわった場所から火をつけられたみたいに熱が広がっていく。 「……っ、おい」 「なんです」 「お前の手、冷てえ」 「猫又ですから。冷血動物ではありませんが、人間よりは冷たいんです」 「猫又って哺乳類に分類していいのかよ」  衣織が笑った。泣きそうな、今にも崩れ落ちそうな顔で。金色の目の端にきらりと光るものが滲んでいた。 「申し訳ありません。嬉しくて……あまりにも嬉しくて、手が震えて、冷たくなってしまって」  嬉しい、と言った。七百年をひとりで生き抜いてきたこの男が、ただ俺の肌にふれて嬉しいと言って泣いている。  俺は我慢できずに衣織の首に両腕を回した。ぐっと引き寄せると、衣織の額が俺の肩口にすとんと落ちる。黒くて長い髪が俺の首筋にまとわりついて、くすぐったかった。 「名前」 「……え?」 「呼べよ。名前」  衣織が肩口から顔を上げた。至近距離で目が合う。金色の瞳が激しく揺れて、濡れていた。 「……矢太郎(やたろう)、さん」  こいつの口から俺の名前がまっすぐに出たのは初めてだった。 「やっと名前で呼んだな」 「……あなたが、呼べと言ったんでしょう」 「ああ。もう一回」 「矢太郎さん。矢太郎さん……」  その甘く切ない声が耳元に落ちてきた瞬間、胸の奥でなにかが決壊した。俺のほうが、もう耐えられなかった。  衣織を強く抱き締めた。今度は俺のほうから、力いっぱい。衣織は少し驚いたように身体を強張らせ、それから壊れやすいものを包み込むように俺の背中に腕を回した。怪力の片鱗もない、ただ縋るような腕だった。  ——そこから先は、もう引き返せなかった。  互いの服がすべて剥ぎ取られて、熱を持った肌が直にあたった。猫のようにしなやかで一回り大きな身体が、俺をベッドに完全に縫い付ける。力では絶対に敵わない。抵抗しても腕一本で押さえつけられるとわかっているのに、恐怖はなかった。  衣織の冷たい指先が、俺の身体の奥を割り開き、弄りはじめる。 「……っ、んあ……!」  最奥をこじる指の愛撫に、衣織の喉がグルグルと低く鳴った。猫特有の歓喜の音だ。扱う手つきはどこまでも丁寧なのに、指先からは積もった飢餓が恐ろしいほどの熱を帯びてじわじわと滲み出していた。 「矢太郎さん、矢太郎さん、矢太郎さん……」  呪文みたいに何度も何度も耳元で名前を呼ばれる。その声が鼓膜を震わせるたびに身体の芯までドロドロに解かされて、勝手に熱くなっていく。男に抱かれてこんなだらしない声が出るなんて意味がわからない。なのに内壁のいちばん敏感な場所をしたたかに擦られるたび、喉の奥から情けない喘ぎが漏れるのを止められなかった。  十分に解きほぐされ、愛撫にさんざん濡らされたそこへ衣織自身が宛がわれる。  俺の腰が呆気ないほど軽々と持ち上げられた。逃げることなど許さないとばかりに、完全に固定される。  熱い塊が、ゆっくりと、最奥まで割り込んでくる。  みっちりと、隙間なく埋まる。あまりの圧に息が止まった。  今夜の衣織は明確な意志を持って俺を貫いている。俺のいちばん弱い場所を正確に突いてきた。 「っ、あ、おま、え——っ、そこ、は……だめ、すぎ、る——っ」 「すみません……嬉しくて、加減が……頭が、おかしくなりそうで……」  深く突き入れられるたびに脳が真っ白に染まる。ボタンひとつ壊さないように気を遣っていたはずの指先がシーツを引きちぎらんばかりに握りしめていた。理性が吹き飛びそうになっては、はっと我に返る金色の目。  俺が「いいよ、好きにしろ」と首に腕を絡めると、またその瞳が歓喜に歪んで揺れた。  浅く引き抜かれ、次の瞬間には最奥の壁まで叩き込まれる。肉と肉がぶつかり合う音が暗い部屋に絶え間なく響いた。容赦のない律動に俺の身体はベッドの上で勝手に跳ねて、翻弄されるしかなかった。  俺の身体から衣織へ、なにかが激しく流れ込んでいく。衣織はそれを貪るように、俺の首筋に牙を立てる一歩手前の強さで何度も何度も吸い上げた。低い唸りがひときわ大きくなる。猫又の本性が俺の精気を、魂ごと欲している。  その体躯に組み敷かれて、ただ愛される快感と、命を削られるような悦楽に呑まれていく。気がつけば俺のほうが先に理性を失くして、こいつの広い背中に必死で爪を立てていた。  終わったあと、部屋には濃い熱気と互いのにおいが立ち込めていた。  衣織は俺の胸に顔を埋めたまま、ぴくりとも動かなくなった。重なり合った身体の隙間から、呼吸が徐々に静かになっていくのが伝わる。深く、穏やかに。 「……寝たのか、衣織」  返事はなかった。俺のそばだけ、すべての警戒を解いて眠っている。  起こさないように、衣織の長い髪をそっと撫でた。黒くて長くて、猫の毛みたいに柔らかい。  俺の首筋にはじんじんと痺れるような吸い上げの跡がいくつも残っているだろう。明日、鏡を見るのがこわいが、不思議と嫌じゃなかった。印を刻まれたことに、妙な充足感すら覚えている。  ——お供いたします。どこまでも。  夢のなかで聞いた声が蘇る。七百年前、泣きながら、それでも据わった目で覚悟を決めた金色の目。あのとき「どこまでも」と言った猫が、七百年ひとりで走り続けて、今やっとここにいる。俺の胸の上で、なにも怯えずに眠っている。 「……お疲れさん」  小さく呟いた。衣織には聞こえていないだろう。聞こえなくていい。  窓の外がゆっくりと白み始めていた。六月の朝がカーテンの隙間からうっすら射してくる。  俺も衣織の重みを感じながら、いつのまにか目を閉じていた。

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