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第三十話 どこまでも

 練馬から東小金井までの道のりを、俺たちは黙ったまま走った。  フロントガラスの向こう、深夜の環八から連なる夜道はひどく静かで、街灯の光が規則正しく車内を掠めては消えていく。運転席の三条(さんじょう)は前を見据えたままぴくりとも動かない。  アパートの前で車を停めて、三条がエンジンを切る。不意に訪れた静寂のなかで、シートベルトを外す音だけがやけに大きく響いた。車を降り、鍵を開けて、靴を脱いで、いつもの手順で狭い部屋に入る。  三条がリビングに自分で担ぎ込んだ布団を素早く敷くのも、今となってはもう見慣れた光景だった。俺のベッドは奥の寝室、三条はリビングの床。1DKの狭い部屋を薄い壁一枚で区切って、俺たちはそういうふうに暮らしている。壁の向こうの気配を確かめてから眠るのが、いつのまにか癖になっていた。 「おそばを離れるわけにはいきません」  布団のシーツを整えながら、三条がぽつりと言った。俺に向けた言葉というより、自分自身の胸に深く言い聞かせるような声だった。 「あなたが心配です。お守りすると、お祖父さまに約束しましたから」 「十分だろ。お前はもう、役目を十分にまっとうしてる」 「……役目では、ありますが」  三条が手を止めて、こちらを振り返った。仕事用のサングラスはもう外している。少し釣り上がって大きな、色素の薄い瞳。すっと通った鼻筋。暗がりのなかでも、その造形はどこか人間離れしていた。 「私が、そうしたいのです」  静かな、けれど有無を言わせない声だった。普段のふざけた軽さも、実務的な硬さもない。ただ、自分の意志でここに残り、俺を守りたいのだと言っている。  真っ直ぐに見つめ合った。三条の目の奥にある底の知れない熱が透けて見えそうになった瞬間、俺はたまらず目をそらした。  こいつが本当に見ているのは俺じゃない。七百年前に別れたという男の影を、ただ俺の顔に重ねて追っているだけだ。そう自分に言い聞かせなければ、胸の動揺を抑えきれなかった。 「……風呂、先に入れよ」 「桃山(ももやま)刑事からどうぞ」 「いいから入れって」  三条は一拍だけ黙って、「では、お先に」と頭を下げて浴室に消えた。  ひとりになった寝室で、ベッドの縁にどさりと腰を下ろす。じいちゃんの絞り出すような声がまだ耳の奥に残っていた。白い大きな猫。尻尾が二つに分かれている。あの猫が、幼い俺を守って連れ戻した。  壁の向こうからかすかにシャワーの音が聞こえてくる。それが止むと、三条が布団の上を歩く微かな気配が伝わってきた。こいつがあのときの猫なんだ。俺が生まれたときから、いやそれよりも遥か昔から、ずっとこうやって守ってきたのか。  胸の奥がちりりと痛んだ。その痛みに名前をつけるのが嫌で、逃げるように目を閉じた。  眠りに落ちたのは、時計の針が零時を過ぎた頃だった。  深い夢を見た。  高い木々に囲まれた山の頂。ねっとりとした夏の終わりの風が吹き抜けていく。足元は湿って苔むした岩肌で、見上げれば巨大な杉の木立が夜空を完全に覆い隠していた。三条と二人で登った高尾山の風景に酷似している。だが決定的に空気が違った。排気ガスのにおいも飛行機の音もない、ひどく純粋で重苦しい静寂が満ちている。  ふと自分の手元に目を落とした。俺の手じゃない。手首が細いし、日に焼けてもいなかった。身にまとっている服も違って、重い着物の袖が腕にかかっている。なぜか違和感はなかった。この指の動かし方も、身体の奥に流れる冷たい感覚も、すべてが自分のものだという確信が魂の奥底にある。  岩の上に長い黒髪を風に揺らした男が立っていた。庚人(かのと)だ。ぞっとするほど美しい顔で、こちらに向かって穏やかに笑っている。その微笑みが底なしにこわい。俺の——香陽宗孝(かようむねたか)の身体が激しく震えていた。恐怖と怒りと、取り返しのつかない覚悟が混ざり合った震えだ。  喉が裂けそうな声で、一息に(しゅ)を唱える。手元から眩い光が溢れ出し、濁流となって庚人の身体を包み込んでいく。庚人はその光のなかでも笑ったまま、ほおずきのなかにゆっくりと沈んでいった。  すべての力を使い果たし、膝から地面へ崩れ落ちる。土の匂いが鼻腔を突いた瞬間、胸の上にどさりと重いものが落ちてきた。  白い猫又(ねこまた)だった。中型犬ほどもある大きな猫。尻尾は根元から二つに分かれている。  猫の姿のまま俺の胸に飛び乗って、ごろごろと喉を低く鳴らしている。驚くほど温かく重くて、毛並みはどこまでもふわふわしていた。  俺はこの猫又をよく知っている。  猫又の白い毛に顔を埋めた。宗孝(むねたか)の心が限界を迎えて泣いていた。俺の目からも、熱い涙が止めどなく溢れ出ていた。  場面が唐突に切り替わる。  山ではない。どこか見知らぬ、閉ざされた暗い部屋だ。部屋の隅で灯明がひとつだけ細く揺れている。  畳の上で、宗孝が真っ直ぐに正座していた。そのすぐ目の前に、あの白い大きな猫が身じろぎもせず座っている。鋭い金色の瞳がじっとこちらを見つめていた。  宗孝が静かに口を開く。俺の喉から、俺のものではない、けれどひどく聞き馴染みのある声が出た。 「泰山府君(たいざんふくん)に願い出る。俺の魂を、未来へ転生させてくれと」  猫の目が大きく揺れた。金色の瞳が激しく震えて、その奥に隠されていた感情がむき出しになる。 「宗孝さま、なぜですか」  猫が人の言葉を喋った。掠れた細い声だ。すんすんと鼻を鳴らして泣いている。猫は涙を流せないはずなのに、大きな瞳から大粒の雫がぼろぼろと畳に落ちていた。 「庚人を封じ続けるには、俺の魂がいなきゃならん。だがこの身体はもう限界だ」 「嫌です。あなたさまがいなくなるのは、絶対に」 「いなくなるわけじゃない。ただ、新しく生まれ変わるだけだ」 「生まれ変わったら、私のことなど覚えていないでしょう」  猫の声が完全に詰まった。畳に低く身体を伏せて、白い前足で必死に顔を覆う。猫のかたちのまま、子供のように泣きじゃくっている。 「私のことなど、すぐに忘れてしまわれる。三条橋のたもとで、あの嵐の日にちいさな猫を拾ってくださったことも。衣織(いおり)という名前をつけてくださったことも。なにもかも、すべて……」  宗孝が愛おしそうに猫へ手を伸ばした。衣織の頭を優しく撫でる。尖った耳の後ろを、慣れた指先でそっと掻いてやった。 「許せよ……衣織」  低く深い声だった。俺の声じゃない。香陽(かよう)宗孝の声だ。だがその胸の奥で激しく鳴っている切ない感情は、今の俺のものとどうしても区別がつかなかった。 「お前にすべての重荷を押しつけることになる。数百年の長き日々、どうか耐えて俺の代わりに成し遂げてくれ」  猫又が顔を上げた。涙の跡が白い毛を濡らして張り付いている。金色の目が、ぐっと真っ直ぐに宗孝を見つめ返した。 「……お供いたします。どこまでも」  声は小刻みに震えていたが、その瞳だけは据わっていた。すべてを投げ打つ覚悟を決めた目だった。  そこで唐突に目が覚めた。  視界に飛び込んできた天井がひどく滲んでいる。目の端から熱い涙が幾筋も頬を伝って流れていた。俺が泣いていた。宗孝の涙なのか俺自身の涙なのか、もう判別がつかない。ただ顔全体がぐっしょりと濡れていた。  暗い部屋のなかで、しばらく動けずに天井を見つめていた。  壁の向こうに三条の気配が確かにある。寝息は聞こえてこない。あいつもまた眠れずに起きているのだろう。猫又に眠りは要らないのだと、いつか本人が言っていた。  手の甲で涙を拭い、ベッドから起き上がった。襖を開けるのではなく、壁の向こうへ声をかける。 「おい、三条。起きてるんだろ」  一拍の短い沈黙があった。 「……はい」 「ちょっと、こっちに来い」  布団から身を起こす気配と、衣擦れの音がした。襖が音もなく開いて、三条が部屋に顔を覗かせる。素顔に寝間着代わりの黒いシャツ姿。暗がりのなかで白い肌だけがぼうっと浮かんで見えた。 「うなされていましたね」 「夢を見たんだ」  ベッドの縁に座ったまま、真っ直ぐに三条を見て、口を開いた。 「お前が猫又の姿で出てきた。白い、馬鹿みたいにでかい猫だ。金色の目をしてた。俺はなんかビラっとした着物を着てた」  三条の身体の動きが完全に止まる。 「庚人を封じる場面を見た。それから——お前が泣いてる場面もだ。宗孝が転生を決めるとき。お前が猫の姿のまま情けないくらい泣いて、宗孝がお前の頭を撫でてた」  三条の顔から一瞬で血の気が引いていくのがわかった。暗がりのなかでも唇が白く強張っているのが見て取れる。 「あれは、七百年前の本当のことか」 「……はい」  三条が部屋に入ってきて、ベッドのそばに膝をつき、俺と目の高さを合わせる。窓の外の街灯の光がカーテンの隙間から射して、三条の輪郭をうっすらと照らしていた。 「お話しすべきことがあります」  三条は一度だけ目を伏せ、それから覚悟を決めたように上げた。 「確かにあなたは、宗孝さまの生まれ変わりです。七百年ものあいだ、魂の生まれ変わりを何度も遠くから見つめ続けてきた。だからこそ、わかるのです。あなたという器は、特別だった」 「……」 「宗孝さまとあなたは同じ魂の輝きを持っています。ですがその肉体も育ってきた環境も違う。あなたには、あなた自身が歩んできた人生がある。私はこれまで宗孝さまの転生した魂を見つめ続けましたが、その人生に直接干渉することはけして許されませんでした。泰山府君との契約はそれほどに強力です。庚人を完全に封じ込めるだけの強固な器を持った魂が生まれるまで、私はただ時代の陰から見守るしかなかった」  三条の声が微かに震えていた。いつものポーカーフェイスを立て直そうとして、それができていない。 「ですがあなたは違う。あなたは私が七百年で唯一、この手で守ることができた魂です。干渉が初めて許された。この幸せが少しでもあなたに伝わるといいのですが」 「……幸せ、か」 「ええ。あなたこそがこの時代に庚人を完全に封じるべき特別な魂であると。あなたを私の手でついに守り抜けるという幸福を、噛み締めています。この気持ちを……わかって頂けますか」  三条は真っ直ぐに俺を見ていた。その瞳は七百年前の幻影を見ている目じゃない。今、目の前で不格好に座っている俺を見ている。桃山矢太郎(ももやまやたろう)という男を。七百年の暗闇の奥に眠っていた感情がこの男の目から溢れ出そうとしていた。なのに三条自身はその感情にまだ名前をつけていないらしい。幸福と呼んでいる。守れる喜びと。 「……ああ」  俺は息を吐いてから続けた。 「わかるよ。痛いほどにな」  慰めの嘘じゃなかった。さっき夢のなかで見たのだ。猫の姿でただ宗孝が消える恐怖に怯えて泣いていた三条を。 「お供いたします、どこまでも」と覚悟を決めたあの金色の目を。あの瞬間からこいつはたった一人で、気の遠くなるような時間を走り続けてきた。  こいつが今、命を懸けて見つめているのは過去の亡霊じゃない。俺だ。そう思いたい自分が、確かにいた。思いたいだけじゃない。今夜は、そのあまりに重い視線から目をそらさなかった。  二人とも黙ったまま、互いの気配だけ聞いていた。  やがて三条が「……お休みなさい」と小さく呟き、床から立ち上がりかけた。 「待てよ」  三条の動きがぴたりと止まる。膝をついた姿勢のまま、俺を見上げてきた。 「なあ、俺は特別なんだろ」 「……そうです」 「襲いたいくらいに、か?」  暗がりの中でも、三条の目が限界まで見開かれたのがわかる。 「冗談はこれくらいにしてください、桃山刑事」 「俺、さっきの夢の中でお前のことを衣織って呼んだ。お前も、名前で俺を呼んでみてくれよ」 「……だめです。悪ふざけがすぎます。もう、寝ましょう」  三条が立ち上がろうとした。俺は迷わずにその手首を掴んだ。こいつの腕力なら人間の抵抗を振りほどくことなど造作もないはずだ。だが三条は微かにも動かなかった。ただじっと、掴まれた手首を見つめている。 「いつもはお前から不躾にくっついてくるくせに、こういうときは逃げるんだな」 「桃山刑事、お願いですから——」 「衣織」  遮るように名前を呼んだ。  三条の——衣織の瞳がぐらりと揺れた。深い金色の目に変わっていく。夢のなかで覚悟を決めていたあの猫と、同じ色だった。  そうだ、もう隠すなよ。獣らしい、飢えている瞳。 「俺のこと好きか。宗孝の影じゃなくて、俺のことが」 「……あなたは、あなたです」 「はぐらかすな。好きか?」 「からかわないでください。答えるまでもないでしょう。すべて、おわかりのくせに」  声がひどく震えていた。化け猫が、俺のたった一言でこれほど揺らいでいる。 「俺も、お前のこと好き……かもな」  戸惑っていた衣織の全身がこわばった。 「かも、って……なんですか、それは」 「かもだよ。まだよくわかんねえよ。でもさっきの夢を見てから、お前のことをちゃんと見たいと思ったんだ。あいつの代わりなんかじゃなくて。桃山矢太郎(やたろう)として、お前を——」  衣織の瞳から、すっと涙が一筋だけ落ちた。ただ唇を噛み締めて、俺の手首を握り返してきた。猫又の怪力なんかじゃなく、二度と離さないと縋るような握り方だった。  俺はその手を引いて、ベッドのふちに座らせた。隣り合って並ぶ。肩がふれ合う距離。 「……私は」  衣織が俺の肩口にそっと額を預けてきた。くぐもった声が耳元に届く。 「七百年、ずっとあなたを待っていたんです——」 「知ってる。夢で全部見た」 「……卑怯です。そんなふうに言われて、拒否できると思っているのですか」 「できない、よな」  衣織の大きな身体が小刻みに震えていた。泣いているのか笑っているのか。たぶん両方だ。  俺は衣織の頭にそっと手を置いた。夢のなかの宗孝がやったのと同じように。長くて柔らかい髪だった。猫の毛並みみたいに滑らかで。ああ、実際にこいつは猫なのだと、今更のように腑に落ちる。 「無防備すぎます。私がこの後、あなたになにをするかわからないのに」 「いいよ。好きにしろって」  衣織が顔を上げた。至近距離で目が合う。臆病な様子の瞳が暗がりのなかできらきらと光っていた。 「……後悔しても、もう知りませんよ」  衣織の長い手が俺の頬に添えられた。冷たい指先。その冷たさが頬のラインに沿って滑り、顎をゆっくりと持ち上げる。  唇が、静かに重なった。

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