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第二十九話 猫又、実家に挨拶する
久しぶりの実家はなにも変わっていなかった。居間に行くと、じいちゃんが座卓の前に座っている。
八十を過ぎてなお背筋がまっすぐな人だ。白髪を短く刈り込んで、日に焼けた首筋に深い皺が刻まれている。現役を退いて二十年になるが、座っているだけで元刑事の雰囲気がある。俺の浅黒い肌と太い眉は、この人譲り。
俺が生まれてすぐ亡くなった父親の代わりに育ててくれた、自慢の祖父だ。
母さんが茶を持ってきて、俺の向かいに座る。じいちゃんの隣。夕飯の支度はもう終わっているらしく、台所から煮物のにおいがする。
「で、失踪事件のこと」
じいちゃんが先に切り出した。母さんから聞いているのだろう。声は低く、しわがれているが通る。取り調べ室で何千人もの人間と向き合ってきた声だ。
「直接、聞きたい……か」
「ああ」
「なにか思い出したのか」
俺は一拍迷って、首を振った。
「いいや、まだ。でも喉元まで出かけている気がする。だから知りたいんだよ」
じいちゃんがずいぶんと長く俺を見つめた。湯呑をぎゅっと握ったまま「……そうか」とつぶやいた。
茶に手をつけないまま、そっと口を開く。
「お前が五歳の夏だ。七月の終わり、暑い日だった」
じいちゃんの声は淡々としていた。感情を抑えているのではなく、二十七年かけて何度も反芻した記憶を、そのままなぞっている声だ。
「夕方、お前がいなくなった。近所の公園で遊んでいたはずが、気づいたらいない。サンダルだけが砂場のそばに残っていた」
「私が練馬署に連絡したよ」と母さんが合いの手を打つ。
「奈津美は当時、練馬署の地域課だ。自分の署に通報するかたちになった。俺は署にいた」
連絡を受けてすぐに戻ったが——と、じいちゃんの声が初めて詰まった。
「身内の事件だ。俺は捜査に入れん」
胸が痛むほど、当時の状況が想像できた。刑事は身内が被害者の事件には関与できない。利害関係者を外す決まりとしては正しいが、自分の孫が消えて自分の手で探せない。あの頃のじいちゃんは五十そこそこで、刑事として大ベテランの時期だ。足で稼ぐことしか知らない男が、足を使えない。
「同僚たちが動いてくれた。練馬署が主管で、非番の連中まで出てくれた。三日間、ローラーをかけたよ。公園、河川敷、空き家、林。全部潰した。なんにも出なかった」
「手がかりゼロ?」
「ゼロだ。不審者の目撃もない。五歳の子供が、煙みたいに消えた」
じいちゃんが茶碗を手に取って、一口飲んだ。湯気がもう立っていなかった。
「四日目の朝だ」
声が変わった。二十七年抱えてきたものが、喉元まで上がってくる気配がある。
「俺はずっと家にいた。捜査に入れんから、待つしかない。奈津美は署と家を往復していた。あの朝は奈津美がもう出勤した後で、俺ひとりだった」
じいちゃんが俺を見た。
「——お前は気のせいだと思うかもしれんが、言った方がいいな」
母さんが小さく息を呑んだ。この話を母さんも初めて聞くのだと、その反応でわかる。
「玄関を開けたら、お前が座っていた。裸足で、昼間の格好のまま。怪我はない。汚れてもいない。三日間どこにいたのかわからない子供には見えなかった」
「俺は、なにか言ったか」
「なにも。ぼうっとして、目の焦点が合っていなかった。名前を呼んだら、しばらくしてから『じいちゃん』と言った。それだけだ」
じいちゃんが茶碗を座卓に置いた。置く音が、静かな居間に響いた。
「お前を抱き上げたとき——」
また声が詰まる。今度は長かった。母さんが心配そうにじいちゃんの横顔を見ているが、口は挟まない。
「お前のうしろに、猫がいた」
俺は目を見開いて、うつむくじいちゃんを凝視した。
「白い、大きな猫だ。普通の猫じゃない。犬くらいある。それで——尻尾が、二つに分かれていた」
俺は息を止めた。
「朝の光の中だったから、はっきり見えたかって言われると自信がない。だがお前が俺の腕の中に入った瞬間に、その猫がすっと消えた。影も音もなく」
「……じいちゃんには、見えたのか」
「見えた、と言えるかどうかもわからん。感じた、のほうが近い。——お前も知っとるだろう。うちの家系は、たまにそういうのが出る」
知っている。ガキの頃、幽霊が見えると泣いたら、じいちゃんは「ありゃ、放っておくんだ」と言っただけだった。見えるとも見えないとも言わなかった。
「俺は四十年刑事をやった。証拠のないことは言わん。だがあの朝だけは、はっきりわかった。俺の孫を連れ去ったのは人じゃない。そして連れ戻したのも——あの化け猫が、なにかしたんだろう。見間違いだったかもしれん。だが、どうかな」
「人の仕業じゃない」と、母さんにじいちゃんが一度だけ言った言葉。その真意が、今わかった。じいちゃんは見ていたのだ。尻尾の分かれた白い猫を。人間ではないなにかが、俺を守って連れ戻したのを。
「なんで今まで言わなかったんだよ」
「証拠がないからだ」
じいちゃんの目が、俺をまっすぐ見た。
「四十年刑事をやった人間が、孫の行方不明をよくわからんものの仕業だと言ったら、どうなる。連れ戻してくれたのも、よくわからんものだったとな。一笑されて終わりだよ、桃山 さん疲れてるねってな」
祖父は二十七年間、ひとりで飲み込んでいた。捜査に入れない悔しさと、見えたものを言えない苦しさを、全部ひとりで。
母さんが目を伏せている。どうこの事実を処理していいのかわからないのだろう。じいちゃんは清廉潔白で嘘が大嫌いだ。冗談のひとつも言えない。
つまりこの話が事実で、嘘じゃないってことだ。
「じいちゃん」
「なんだ」
「ありがとな、話してくれて」
じいちゃんが、ふっと笑った。二十七年ぶりに、肩の荷を下ろしたような笑い方だった。
夕飯は母さんの煮物と焼き魚だった。三人で食卓を囲むのは久しぶりだ。じいちゃんはいつもの無口に戻って、黙々と飯を食っている。
母さんが箸を止めて、窓の外を見た。
「ねえ、あの車の人。ずっと待ってるんでしょ。呼んであげなさいよ、ご飯」
「……いいよ、あいつは」
「よくないよ。何時間も車で待たせて、ご飯も食べさせないって、申し訳ないよ」
母さんは容赦がない。同僚だと説明したが、母さんにとっては送り迎えしてくれている人だ。恩知らずは許さない。
「……しょうがねえな」
立ち上がって、玄関を出た。公用車の運転席に三条 がいる。さっきと同じ姿勢で、前を向いたまま。俺が近づいていくと、窓越しにこちらを見た。サングラスの奥は相変わらず見えない。
窓をノックすると、三条がそろそろっと開ける。
「飯、食ってけ。母さんがうるせえから」
「……よろしいのですか」
「母さんの命令だからな」
三条が一拍だけ間を置いて、ドアを開けた。降りてくる姿を見て思ったが、こいつが練馬の住宅街に立っていると、やっぱり絵面がおかしい。黒いスーツにサングラス、百八十センチの長身。近所のおばちゃんが見たらメロメロになって、この分厚い胸板をベタベタとさわりまくるだろう。
玄関で靴を脱ぐ三条に、母さんが廊下に出てきて「いらっしゃい」と声をかけた。三条は丁寧に頭を下げた。
「お初にお目にかかります。三条衣織 と申します。桃山さんの同僚です」
俺の親へ挨拶をするのに、サングラスをかけたままではまずいと思ったのだろう。手をフレームにかけたまま、少し戸惑っていた。俺はぐいっと三条の前に出る。
「こいつのサングラス許してやって。持病で目が超絶に弱くてさ、ちょっとした明かりでもダメージになっちまうらしいよ」
「あら、それはお気の毒に」
室内でもサングラスをかける男なんて、真面目一徹の我が家からしたら不審者だ。庇った俺を三条は驚いた顔で見下ろしている。俺は声には出さずに「いいから」と言って、三条の背中を押した。
母さんがお前に胸キュンするところなんか、こっちは見たくないんだよ。
居間に入ると、じいちゃんが座卓の前にいた。三条が「はじめまして」と会釈する。じいちゃんがじっと三条を見た。
「——いいや」
じいちゃんが低く言った。
「二度目まして、だな」
サングラスの奥で、三条の目が揺れているのが気配でわかった。
箸の音が消えた。じいちゃんは三条から目を離さない。三条も動かない。
俺は察した。じいちゃんは、見えている。二十七年前の白い猫と、目の前の男が同じだと。
母さんも空気を読んだのだろう。俺より先に動いた。
「お腹すいてるでしょ、座って座って。矢太郎 、お茶碗出して」
「おう。——よし、食え。母さん、こいつめちゃくちゃ食うから、飯はどんぶりでよそってやってくれ」
「どんぶり?」
「まあ見てりゃわかる」
三条が戸惑いながら座卓についた。母さんが煮物と焼き魚を並べて、どんぶりに山盛りの飯を出す。三条は「いただきます」と手を合わせてから、箸をつけた。
最初の一杯が、ものの二分で消えた。
「……おかわり、いいですか」
「だから言っただろ」
母さんが目を丸くして、にこにこしながら二杯目をよそった。三条の食べっぷりに、じいちゃんまでが少しだけ口元を緩めている。
「三条さん、矢太郎と同じ部署なの?」
「はい、特殊霊異対策室という——」
「特殊……なに?」
「霊異対策室です。内閣官房の、ちょっと込み入った部署でして」
「へえ、変わった名前ねえ。はじめて聞くわ」
母さんは深く追及しなかった。警察一家だ。聞けない仕事があることは心得ている。代わりに「お仕事、大変でしょ」とか「矢太郎、ちゃんとやってる?」とか、そういう方向へ話を持っていく。
三条は丁寧に答えて、ときどき俺のほうを見て笑った。いつもの、人を煙に巻くような笑い方。嘘みたいに、さっきまでの気まずさがない。こいつは他人の家族の中に入ると、こういう顔をするのか。
三杯目の飯が空になった頃、じいちゃんが不意に口を開いた。
「おい、三条さんよ」
三条が箸を止めた。じいちゃんの声は静かだが、力強さがある。
「あんた、矢太郎のこと守ってくれるんだろう」
問いかけというより確認だった。三条はゆっくりと箸を置いて、姿勢を正した。
「ええ。命に代えても」
言いながら、隣に座っている俺の腰にすっと腕を回した。
「おい——」
俺は三条の額を平手で叩いた。
「自分の身ぐらい自分で守れるんだよ。おまわりさんだからな」
三条が叩かれた額を押さえて、少し目を細める。いつもの、人をくったような顔。母さんが吹き出して、じいちゃんまでが短く笑った。
「いいコンビだな」
じいちゃんはそれだけ言って、茶を啜った。たぶん三条を認めたのだろう。
夕食の食器を片づけて、俺たちは玄関に立った。
「また来るよ」
「たまには顔見せに来なさいよ。三条さんも一緒にね」
母さんが見送ってくれた。三条は深く頭を下げて「ごちそうさまでした」と言った。じいちゃんは居間から動かなかったが、廊下の奥から声が飛んできた。
「矢太郎」
「なに」
「お前は強い子だぞ。じいちゃんの自慢だ」
振り返った。廊下の奥、居間の入口にじいちゃんが立っていた。逆光で表情は見えない。三十二歳の男に強い子か、いつまでも敵わないな、まったく。
外に出ると、六月の夜の湿った空気が肌を包んだ。空に星は見えない。住宅街の灯りが、人けのない暗い道を照らしているだけだ。
二人で車に歩いていく。さっきまで食卓で笑っていたのが嘘みたいに、並んで歩くと言葉が出ない。家族というバッファがなくなると、二人のあいだに残っているものが戻ってくる。義理立て。あの一言。まだ撤回していない。
三条が運転席に、俺が助手席に乗り込んだ。ドアを閉める音が二つ重なった。
「……三条」
「はい」
「ありがとな、守ってくれて」
「当然のことです。お気になさらず」
三条の声は静かだった。さっき食卓で俺の腰に腕を回したときの軽さはもうない。
俺は窓の外を見た。当然、守るだろう。俺じゃなくて、俺の前世のために。胸の奥が軋む。
「……帰るか」
「はい」
エンジンがかかった。車が静かに動き出す。練馬の住宅街を抜けて、幹線道路に出る。
こいつがずっと俺を守ってきたというのは、どうやら真実らしい。それが七百年前の元主への義理なのか、俺自身への感情なのか。まだわからない。
わからないが、さっき母さんの飯を食って笑っていた三条の顔は、義理で作れる顔じゃなかった。あれは、なんだ。
考えかけて、やめた。
どちらも口を開かないまま、車は東京の夜を走っていった。
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