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第二十八話 東京から出られない男
車は霞が関の官庁街を抜けて、内堀通りに出た。
六月の午後の陽射しがフロントガラスを白く焼いている。三条 がハンドルを握って、俺が助手席。公用車の車内は狭くもなく広くもなく、エンジン音だけが満ちていた。
この距離を二人きりで黙ったまま走りきるのは無理だった。
「なんで転生しなきゃいけなかったんだ」
三条はすぐには答えない。竹橋の交差点を左に曲がって、目白通りへの流れに乗ってから、ゆっくりと口を開いた。
「……庚人 を殺すことができなかったからです」
信号が赤に変わって、車が止まった。三条の横顔がフロントガラスの光を受けてやけに白い。
「七百年前、宗孝 さまは高尾山で庚人と対峙しました。ですが庚人はあまりに力が強く、殺すことができなかった。殺してしまえば怨霊になります。庚人が怨霊になれば、将門や道真をも凌ぐ厄災になりかねなかった」
「だから封じたってか」
「はい。殺す代わりに、庚人自身の術を逆用してほおずきに凍結させました。生きてもいない、死んでもいない状態に。ですが封印はいつまで持つかわからなかった。術者の力には限りがあります。永遠に封じ続ける術は存在しません」
信号が青に変わった。車がゆっくりと動き出す。
「庚人を御せるのは、最初に封じた宗孝さまの術——宗孝さまの魂だけです。七百年のあいだに陰陽寮の優秀な陰陽師たちが何度も封じ直そうと試みましたが、誰一人成功しなかった。庚人に対抗できるのは宗孝さま、ただおひとり」
「それで転生したのか、むちゃくちゃだぞ」
「ええ、あの方は安倍晴明公の再来とまでうたわれた陰陽師です。宗孝さまは、封じ続けるには自分の存在が不可欠だと見抜いておられた。自分の魂が武蔵国にあり続けること自体が、庚人を抑える楔になる。だから泰山府君 ——冥界を司る神に願い、自らの魂を転生させ続ける道をお選びになりました」
「……冥界の神?」
「陰陽道において、生と死を管轄する存在です。転生の許可を与えられるのは泰山府君だけ。しかし、ただでは許されません」
また信号に捕まった。三条はブレーキを踏みながら、よどみなく話し続ける。
「陰陽道の呪 とは、己に制約を課して対価に力を得るもの。転生の対価として、宗孝さまの魂は武蔵国——封印の地から離れて転生することができない、という制約を受けました。武蔵国に留まる限り加護を受けて転生し続けられる」
武蔵国。現代でいえば東京の西部から埼玉の南部あたり。俺が生まれた練馬はそのど真ん中だ。
「じゃあ武蔵国を離れたら?」
「加護を失います。不幸な死に方をする。——呪の理として、避けられない呪いです」
俺は耐えきれず、視線を下に向ける。俺の人生は、もとから仕組まれていたのか。
東京で生まれて、東京で育って、東京で働いている。地元を出ようと思ったことがないのは、ただ縁がなかったからだと思っていた。高校を出て警視庁に入ったのも、大学に行くよりは就職したかったからで、深い理由なんかない。でも自衛官だった父の後を継ごうとして、試験を受ける寸前で高熱にかかったこと。あれも——。
連泊する旅行には行けなかった。俺の体調が悪くなるからだ。林間学校も修学旅行も休むしかなかった。普段なら風邪のひとつもひかない、健康優良児が。
それが呪の制約だったとしたら。俺が東京を離れなかったのは、俺の意思じゃなくて、七百年前の男が設計した檻の中に最初からいたということなのか。
「玉川上水で霊異があったでしょう。私たちがはじめて会った事件です」
三条の声が、少しだけ実務的なトーンに戻る。
「普段の我々なら取るに足らない、私が出るまでもない霊異でした。ですが、なぜかあなたの行動範囲で同様の霊異が多発していた。とうとう意図的であると浮き彫りになり、室長があなたを保護する目的で出向を決めたのです」
「都合が良すぎないか。俺が警察関係者だったからよかったが、一般市民だったらどうしてたんだよ」
「あなたが健やかに警察への道を選ばれたのは、とても驚きましたが偶然ですよ。どんな職業、身分であれ、あなたを一時的に保護することは造作もありません。そのための国家機関が対策室ですからね」
「なんだよ、ほんと」
呆れたように言ったが、少しだけ息が楽になった。七百年の因縁だの転生だの聞かされた後で、「造作もありません」と澄ました顔で言うこいつの調子が、いつもの三条だったからだ。
「お前は。いつから俺を知ってた」
ハンドルを握る三条の手が一瞬だけこわばる。
「……生まれたときから」
「赤ん坊のとき?」
「はい。練馬の病院でお生まれになった日に。魂のかたちが同じでした。——この子だ、と」
三十二年前の夜。こいつはどこかから俺を見ていた。泣き声を上げる赤ん坊を見て、七百年待ち続けた魂を見つけたのか。
「俺以外にもこんな感じだったのかよ」
口をついて出ていた。「こんな」がなにを指しているのか、自分でもうまく言えなかった。飯、洗濯、風呂。それから、昨夜は——。
「……あなた以外には接触すらしていません。ただ影から見守っておりました」
「なんで俺だけ」
三条は答えなかった。雰囲気だけで、もうなにも言いたくないことを察する。
答えは出ている。俺は最後の転生者だから。封印が揺らぎ、鬼灯衆 が動き出し、もう影から守るだけでは限界だった。だから接触して、対策室に引き入れた。それだけのことだ。
——本当にそれだけか?
窓の外の景色が変わっていた。都心のビル群が消えて住宅街が広がっている。見慣れた町並みだ。
実家の前で車が止まった。
練馬の住宅街の奥まったところにある古い一軒家。俺が生まれ育った家だ。庭の植木が伸びっぱなしなのは、じいちゃんが最近手入れをサボっているせいだろう。
三条がエンジンを切って運転席から降りた。俺より先に回り込んで、助手席のドアに手をかける。
いつもの動作だった。三条は普段からこうだ。ドアを開けて、半歩引いて、俺が降りるのを待つ。上質なスーツの男が長い指でドアを押さえている姿は、どこかの執事みたいで——うんざりしていたくせに、途中からちょっといい気分だった。
「いいって」
声が強くなっていた。自分でも止められなかった。
「お前はその香陽宗孝 に義理立てしてやってたんだろうけど、俺はそいつじゃない。もう、すんなよ」
言った瞬間に後悔した。
三条の手がドアの縁で止まる。サングラスの奥が見えないから、表情が読めない。だが指先の力が変わったのは見えた。指が一本ずつ硬直していく。
三条が手を離す。半歩退いて、姿勢を正した。
「私は車でお待ちします」
声から温度が抜けていた。
「久しぶりのご実家でしょうから、どうぞ水入らずでお話をしてきてください」
「……そうかよ」
車を降りた。三条がドアを閉めて、運転席に戻っていく。エンジンはかけなかった。運転席に座ったまま、前を向いている。
言いすぎたとわかっていた。ドアを開けて半歩引く、あの癖ごと突き放したことも。
でも撤回する言葉が出てこなかった。
実家の引き戸の前に立つ。チャイムを押す前に振り返った。公用車の運転席に三条が座っている。サングラス越しにこっちを見ているのか、見ていないのか、わからなかった。
引き戸が内側から開く。
「矢太郎 」
母さんだった。エプロンをつけたまま出てきている。勤務から帰ってすぐに台所に立ったのだろう。
「おかえり。——あの車、誰?」
「……同僚。送ってもらった」
「上がってもらえば」
「いい。待っててもらう」
母さんはそれ以上訊かなかった。
「じいちゃんは」
「居間にいるよ。お茶でも淹れようか」
靴を脱いで上がった。見慣れた廊下。壁に俺が幼稚園の頃の写真が飾ってある。五歳の俺がカメラに向かって笑っていた。この写真が撮られた年の夏に、俺は三日間消えたらしい。
廊下の向こうからじいちゃんの咳払いが聞こえた。
俺が決める。これからどうするのか、どうしたいのか。
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