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第二十七話 俺じゃない誰か
午後の対策室は、いつもと同じ蛍光灯の白い光で満ちていた。
地下にあるこの部屋には窓がない。天気のいい日も雨の日も、ここだけは変わらず同じ光が降っている。古い事務机と書架と、場違いな呪具の並ぶ棚。霞が関の地下に隠された、地図にない部署。俺がここに出向してきてからまだ数ヶ月しか経っていないのに、もうずいぶん長くいるような気がした。
久世 さんが事務机で書類とにらめっこしていて、三条 が壁際に立っている。俺はパイプ椅子を引いて腰を下ろした。
三条と目を合わさないように——と意識した瞬間に不自然だと気づいたが、どうしようもなかった。昨夜のことが首筋のひりつきとして残っている。シャツの襟元をきっちり留めているから、息苦しい。
三条は表面上いつもの顔をしていた。サングラスの奥はわからない。ただ立ち位置がいつもより俺から遠い。壁に背をつけて腕を組み、俺のほうを見ないようにしている。こいつも同じだ。気まずいのは、お互い様ということだろう。
久世さんが俺に気付いて、口を開いた。
「衣織 くんから報告は受けています。ほおずきが奪われたこと、砂月 の襲撃の経緯、それから——」
ちらりと俺を見る。
「衣織くんと桃山 くんが負傷したこと」
「こいつも俺も殺されかけたんですけど」
「ええ。その通りです」
久世さんの声に、普段の余裕がなかった。この人がこんな声を出すのは初めてだ。
「相手は荒海庚人 の復活と陰陽寮への復讐を虎視眈々と狙ってきた集団です。まさか水面下でここまで力をつけていたとは——」
「私の見通しが甘かったのです」
三条が口を開く。壁に背をつけたまま言う。悔しさの滲む声だった。声のトーンを落として、自分の判断を責めている。いつもの軽口がひとつもない。
久世さんはまだなにか言いたげな三条に視線を送って、言葉を続ける。
「桃山くん。あなたの対策室への異動すら、彼らは知っていた可能性があります」
「……どういう意味ですか」
「そもそも霊異を少しずつ増やして、あなたをこちらに来るように仕向けた。私はそう考えています」
背筋が冷える。出向の理由は「見える血筋の刑事が欲しいから」と久世さんに説明されていた。玉川上水の水妖を皮切りに、対策室の管轄区域で立て続けに怪異が起きて、人手が足りなくなったのだと。
少しずつ手繰り寄せられていた、俺をここに引きずり出すために。
「なぜ俺を守るんですか」
久世さんの目がまっすぐ俺を見た。
「あなたが我々の切り札だからです」
「俺は出向してきた、ただの刑事ですよ。陰陽師でもない、術も使えない。なんの切り札だって言うんですか」
久世さんは答えず、三条を見た。
「ここから先は衣織くんから聞いたほうがいいでしょう。ずっとあなたを守ってきたのは衣織くんですからね」
三条が壁から背を離した。腕組みを解いて、ゆっくりとサングラスを外す。両手で畳んで胸ポケットに仕舞う動作が、妙に丁寧だった。
道行く人々が大混乱に陥るほどの美貌。久世さんは陰陽師だし、効かないのはわかる。俺も反応しなかった。理由なんてないと思っていたのに、理由があるのだろうか。
三条のまなざしは、今まで見たどれとも違っていた。底の見えない深さだった。瞳の奥に七百年分の歳月が沈んでいるのだと思ったら、急にあの飄々とした態度の意味がわかった気がする。表面に出しているものは、ほんの上澄みでしかない。
「あなたの魂には——前世があります」
三条の声は低く、静かだった。
「七百年前に庚人 を封じた陰陽師がいました。香陽宗孝 さまと、申します。陰陽寮に所属し、武蔵国に荒海 庚人を封印するために派遣された者です」
知らない人間の名前を教えている口調じゃない。知っている人間の名を、敬って口にしている。三条が誰かの名をこんなふうに言うのを、俺は聞いたことがなかった。声は平板で、感情を殺しているのがかえってありありと伝わってくる。
「あなたは、その方の生まれ変わりです」
一瞬、笑いそうになる。
冗談だろ、と喉元まで出かけた。前世、生まれ変わり?
そんな話が自分に降ってくるなんて、まともに想定したことがなかった。極秘の政府機関へ出向になっても、この目で霊異を見ても、猫又 だと名乗るやつが相棒になっても、俺自身はずっと「巻き込まれた普通の刑事」のつもりでいた。
久世さんの顔を見た。つらそうに歪んでいる。この人はいつも涼しい顔で、俺と三条を軽くいなしているような人だった。ときどきかわいい冗談を口にするけど、人聞きの悪いことは言わない。
三条の目を見た。あの底の見えない深さで、まっすぐ俺を見返している。こいつは冗談しか口にしないけど、人聞きの悪いことは言わない。
笑いは引っ込んだ。代わりに、足元がぐらついた。椅子に座っているのに、地面が揺れていた。
俺は桃山矢太郎 、今年で三十二歳。練馬で生まれて、高校を出て警視庁に入って、交番勤務から刑事になった。それが俺の全部だ。七百年前の人間なんて、知らない。俺じゃない。
狙われる理由、出向の理由。三条が異常なまでに俺を守りたがる理由。久世さんが「切り札」と言った意味。
俺が五歳の夏に三日間消えたのも。——筋が通る。通ってしまう。それがいちばん怖かった。俺の人生が自分だけのものじゃなかったかもしれないと突きつけられている。
三条は猫又で、陰陽師の識神 だ。きっと庚人を封じた陰陽師が主なんだろう。
俺を抱きながら、三条が泣いたのは。俺に縋りついて、声を震わせて言ったのは。
俺じゃなくて、もともとの主を慕っていたのだ。七百年前から、ずっと。俺じゃなかった。そりゃあ、そうだ。誰かと勘違いしているんだろうなと思っていたが、訊けるわけがない。猫又にとっては回復のためでも、俺にとってはセックスだった。そんな最中に相手を間違えていないか、なんて。
三条が慕っていたのは香陽 宗孝 。俺がその生まれ変わりだというなら——三条にとっては間違いでもなんでもない。もとの主を慕っていて、その主の魂を持つ俺がいる。三条の中では、つながっている。
じゃあ俺は。桃山矢太郎 は、なんだ。
三条が見ているのは、この身体の中にいる七百年前の男なんじゃないのか。俺のことを守って、無遠慮に家に上がり込み飯を作って、くだらないセクハラで距離を詰めてきたのは元主の面影を追っていただけだったのか。
みぞおちの奥が、ずきんと痛んだ。思ってもみなかった痛み方だった。怒りでも悔しさでもない。もっと剥き出しのなにかだ。三条のことをちょっとは悪くないと思い始めていた自分に気づいたのが、このタイミングだった。気づいたそばから答え合わせが成立してしまう。
確かめたい。確かめるのが怖い。
「……じゃあ俺が五歳のとき消えた事件、知ってんだろ。庚人と関係があるのか?」
三条の目が揺れた。
「……鬼灯衆 に、攫われました。あなたの魂を庚人のもとへ運ぶために」
「お前が助けたのか」
「——はい」
それだけだった。三条の唇が固く閉じて、そこから先の言葉が出てこない。俺を見ている視線に、なにか堪えているものが透けている。
「三日間に俺になにがあったか、お前はわかるのか」
三条が目を伏せた。
「……救い出すことが精一杯で、三日間にあなたの身になにがあったかは」
そこで、声が途切れた。唇が震えている。言葉を探しているのか、言葉を飲み込んでいるのか、俺には区別がつかなかった。
久世さんが静かに口を添えた。
「あなた自身の記憶の中にしか残っていないのです」
沈黙が落ちた。蛍光灯の音だけが鳴っている。
三条はまだ俺を見ていた。あの底の見えない目で。なにか言いたそうにしていて、それでも口が開かない。七百年分のなにかがこいつの喉を塞いでいる。
十秒か、二十秒か。誰も口を開かない。
三条は結局、なにも言わなかった。
俺は椅子から立ち上がる。三条の顔がわずかに強張る。
「練馬に帰ります。母と祖父に会ってきます」
ドアに向かいかけて、足を止めた。振り返って、三条を見る。
「行くぞ。着いてこい」
三条が目を見開いた。固まっている。予想していなかったのだろう。俺が一人で出ていくと思っていたのか。
「なんだよ、単独行動は危険だって俺んちまで押しかけてきたくせに。いいのかよ、ここで」
三条の口が開いて、閉じた。それを二度繰り返して、結局また黙る。壁の前に立ったまま、一歩も動けないでいる。
久世さんの声がした。少し呆れたような、あたたかい声だった。
「衣織くん。本当に臆病ですね、あなたは。猫だからかしら」
三条が顔を上げた。久世さんに言い返すかと思ったが、しなかった。唇をきつく噛んで、胸ポケットからサングラスを取り出し、かけ直す。
三条が俺の後ろに続いた。対策室を出て、薄暗い廊下を並んで歩く。どちらも口を開かなかった。
まったく臆病なやつだ。砂月もそう言っていた。あの夜、三条を嘲るように吐き捨てた言葉。久世さんと砂月では立場も意味もまるで違うのに、どちらも本質を突いてくる。
昨夜の三条を思い出した。泣きながら俺の手を握って、何度も謝って、「もう二度目はありません」と誓った顔。人外の身で砂月の攻撃を受けて、七百年ひとりでほおずきを守り続けた男が。俺になにかを話すことだけは、できない。
地下から地上に出ると、六月の陽射しが目を刺した。梅雨の晴れ間で、湿った空気が肌に貼りつく。
スマホを出して、母さんにメッセージを送った。今日帰る、じいちゃんもいるか、と。既読はつかない。練馬署の内勤とはいえ勤務中の警察官がスマホを見られるわけがなかった。
「車、出します」
三条がポケットから鍵を出した。公用車のキーだ。
「……頼む」
助手席に乗り込んだ。三条が運転席に座って、エンジンをかける。練馬まで下道で四十分ほど。この車内で、四十分。嫌でも二人きりだ。
ずっと考え続けていた。なぜ生まれ変わりが必要だったのか。七百年、こいつはなにをしてきたのか。俺のことをいつから知っていたのか。
だがまだ口を開く気にはなれなかった。三条も黙っている。
横目で三条を見た。サングラスの奥は相変わらず見えない。ハンドルを握る手は安定していた。運転しているときだけは、いつもの三条だ。
スマホが光った。母さんだ。いるけどなに急に、と短い返事に、前に電話で話した三日間のことを直接聞きたいと送った。しばらく間があって、わかったとだけ返ってくる。余計なことは訊かない。この距離の取り方が母さんだった。
これから向かうのは、俺が生まれ育った町だ。五歳の夏に三日間消えた町。
答えがあるかどうかはわからない。でも知らないまま立ち止まるのは性に合わない。
俺が誰なのか。自分の足で確かめる。
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