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第二十六話 二度目はありません

 目を覚ましたら、身体中が痛かった。  腰。太腿の内側。手首。首筋。全部に鈍い痛みが残っていて、寝返りを打つだけで顔をしかめた。ベッドのシーツが汗で湿っている。  ここは俺の部屋じゃない。天井が違う。カーテンの隙間から差し込む光の角度も違う。  ——三条(さんじょう)の家だ。  昨夜のことが一気に戻ってきた。砂月(さつき)の襲撃。ほおずき。三条の傷。密着したら治り始めて、三条の目が金色に変わって、それから——。  視界の端に、人影があった。  ベッドの脇に三条が座っていた。膝を揃えて正座している。サングラスはかけていない。顔色が悪くて、目の下に隈がある。俺が眠っているあいだ、ずっとここにいたのか。  俺が目を開けたのに気づいた瞬間、三条の顔が青ざめた。  三条が正座の姿勢のまま、深く、深く頭を下げた。額が膝につくくらい深く。土下座の一歩手前。 「……桃山(ももやま)刑事。なんとお詫びしたらいいのか……お身体は、大丈夫ですか」 「大丈夫に見えんの?」  三条が顔を上げる。俺の顔を見て、首筋を見て、手首を見て、だらだらと冷や汗をかいている。 「——いいえ」 「だろうな」  俺はベッドの上で身体を起こした。腰が悲鳴を上げる。全身の筋肉がばりばりに凝っている。  下半身は裸のままだったが、汗や体液はきれいさっぱり拭き取られていた。ベッドの脇に置いてある俺のズボンと下着——三条が畳んだんだろう。着ているものを引っぺがした男が、あとで丁寧に畳んでいる。  ズボンを穿いて、シャツを着た。首筋に手をやると、何箇所かひりひりする。猫の舌の跡だ。鏡を見ずとも察して、今日はシャツの襟元を緩めないほうがいいだろうと決めた。 「久世(くぜ)さんに連絡は?」 「はい。私から、先ほど。ほおずきを奪われたことと、砂月の件と、経緯を。——本日午後に対策室でと」  三条はまだ床に座ったままだ。立ち上がっていいのかわからない、という顔をしている。昨夜はあれだけ俺の身体を好きにしておいて、しおらしい態度だ。 「水、もらっていいか」 「あ——はい、すぐに」  三条が立ち上がってキッチンに行き、グラスに水を入れて両手で差し出した。指が震えていた。  水を受け取って飲んだ。冷たい水が喉を通って、ようやく頭が回り始める。 「昨夜のことだけど」  三条がびくりとして、身構えている。しょっぴかれても文句が言えないんだ、観念してきちんと教えてもらいたいね。 「……昨夜は、私が」  三条が目を伏せた。 「負傷して……人間の生気を、欲してしまったのです。猫又(ねこまた)は深手を負うと、生きた人間の精気を取り込んで回復しようとする本能があって。あなたが、いちばん近くに……それで、私は」  言い訳のように、ぽつぽつと続ける。 「申し訳、ありませんでした」 「いや、待て。本能なのはわかったよ。わかったけどさ」  俺はベッドに座り直した。 「いくら弱ってたからって、ほかにやり方があっただろ。手を握るとか、おぶさるとか。なんで、ああなるんだよ」  三条が顔を上げた。なにか言おうとして、唇が震えた。  三条の手が、俺の手を掴んだ。昨夜とは違う握り方だ。怪力の片鱗もない。ただ縋るような、弱々しい握り方。 「……その通りです。ほかにも方法はありました。あなたに、あんな……」  三条の目から、ぽろぽろと涙が落ちた。声を殺して、肩を震わせて、俺の手を両手で握ったまま泣き始める。  ——参った。  いつもの三条は軽口を叩いて、人をくったような顔をしている男だ。さすがに昨晩の行為を、はいそうですかと流せるわけもないが、面食らってしまう。  こいつ、まだ回復してないんだ。身体は治っても、中身がぼろぼろなんだろう。  ゆうべのうわごとが、頭の隅に残っている。 『お慕い申し上げております。七百年前から』  七百年前といえば、こいつが仕えていたという主の時代だ。だとしたら、この必死な姿も、縋るような手も、俺じゃない誰かに向けた詫びの続きなのかもしれない。俺はその、通り道か。  胸の奥が、すうっと冷えた。痛みとは別のものだった。握られたままの手が、急によそよそしく見えた。  こいつを一発ぐらい殴っても許されるはずだが、責めるに責められなかった。 「……もういい。わかったから、泣くな」 「申し訳……ありません……」 「謝んなって。——な、わかったから」  三条の手を握り返してやる。しばらくそうしていると、三条の涙が少しずつ止まっていった。なんなんだ、被害者は俺だぞ。  落ち着くのを待ってから、俺は口を開く。 「いい加減、全部話せよ。俺もお前も殺されかけたし、なんなら俺なんて——」 「もう、それぐらいで」  三条が急に慌てた。涙の跡が残ったまま、俺の言葉を遮る。 「……あなたの身に起きたことは、私の落ち度です。これ以上、思い出させたくありません」  なんだか歯切れが悪い。けど追及する気力も今はなかった。聞きたいのは別のことだ。 「高遠がぶつけてきたあれ、なんだ」 「経文です。仏教の、お経を書き写したもので、猫又にとっては毒のようなものです。あれだけ効いたということは、かなり身分の高い僧侶が写したものでしょう。普段の私ならかわすことができたのですが……うかつでした。おそらく荒海(あらみ)家が長年持っていたものかと」 「ほおずき、あれはなんだ」  三条の顔が強張った。 「……あのほおずきの中に、荒海庚人(あらみかのと)の魂が封じられています」 「待てよ、荒海庚人(かのと)は高尾山に封じられているんじゃないのか?」 「正確にはふたつに分けて封印したのです。七百年前、庚人を討つことはできませんでした。あまりに力の強い陰陽師だったので、殺してしまえば怨霊になる。だから殺す代わりに、封じたのです。——魂をほおずきの実の中に、肉体を高尾の磐座(いわくら)に」  高尾山で天狗たちが守り三条が封印を直していた、あのでかい岩。あれが、庚人の肉体を封じた場所だったのか。 「肉体と魂が両方が揃わなければ、庚人は完全には目覚めません」 「じゃあ、肉体は高尾山にまだあるんだな」 「あります。ですから、砂月が手に入れても、完全な復活はできません。——ただ、部分的にでも目覚めれば、それだけで」 「やばいわけだ」 「ええ」  話が見えてきた。砂月は次に、高尾山を狙う。 「取り戻す方法は」 「……あります。ただし、私ひとりでは」 「ひとりじゃねえだろ。俺がいる。久世さんもいる」  三条が俺を見た。また目が潤んでいる。 「……ありがとう、ございます」  別に感謝されるところじゃない、当たり前のことだ。ただ、ひとつだけ引っかかっていた。 「あのさ、三条」 「はい」 「お前は強いし、こういう場面はそうそうないと思うんだが。——違う回復のやり方、教えてくれ」 「放っておいて頂ければ、自然に治癒しますよ」 「……それができねえから、言ってんだろ」  目の前で相棒が死にかけて、放っておけるわけがない。  三条が、ぐっと堪えるような顔をした。眉が寄って、口元が引き結ばれる。それから俺の膝に、すがりつくように顔を伏せた。 「……参りましたね、あなたには」  小さな声だった。 「もう二度目は、ありません」  二度目はない、という声の底は硬かった。今までのトラブルを千切っては投げ、千切っては投げてきた男が、ほんの小娘にしてやられたのだ。三条も砂月に油断していたのだろう。  俺は三条の頭に手を置いた。猫みたいに柔らかい髪だ。ああ、実際に猫だったな。 「無理すんなよ」  三条は答えなかった。俺の膝に顔を伏せたまま、しばらく動かない。  朝の光が、殺風景な部屋を白く照らしていた。

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