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第9話
「……あれ」
目が覚めたのは、まだカーテンの隙間が濃い藍色に染まっている深夜。
頭の芯がじわじわと痛む。
ぼんやりとした意識のまま横を向くと、そこに宵の姿はなかった。
隣の枕には、人がいた温もりすら残っていない。
シーツ……替わってる?
あれだけ涙と涎、それから得体の知れない液体で汚したはずのベッドは、シーツが張り替えられてる。
服は一切身に纏っていない。掛け布団の下の俺は、完全に全裸だった。
身体の汚れだけは綺麗に拭き取られているようだが、ナカに注ぎ込まれた名残りは、身動きをするたびにじわりと内側に違和感を残す。
重い。身体が、鉛みたいに動かない。
底知れない気怠さに抗えず、俺は掠れた息を吐きながら、再び泥のような眠りへと引きずり込まれた。
次に意識が浮上した時には、部屋の中はすっかり明るくなっていた。
「……っ、は、あ……っ」
息が熱い。
喉がからからに干からびて、ぱさぱさする。
自分の額に手を当てようとしたが、腕が重くて持ち上がらない。
信じられないくらい身体が熱を持っていた。
完全に熱出てんじゃん。
「あー……まじ、さいあく……」
掠れた声で呻いても、誰も答えてくれない。
朝になれば、あの喰えない旦那様がまた意地悪な顔をして覗き込んでくるのかと思っていたが、宵が部屋にやってくる気配は微塵もなかった。
代わりに、静かなノックと共に寝室の扉が開く。
「失礼いたします。お目覚めでしょうか」
入ってきたのは、宵じゃなくて、無表情な使用人。
「朝食をお持ちいたしました」とワゴンを押して近づいてくるが、俺はベッドから起き上がることすらできない。
「……」
「失礼いたします」
使用人は淡々とした調子で歩み寄ると、様子を見るように少しだけ掛け布団を捲った。
衣服を身に纏っていない俺の肌に、朝の冷たい空気が触れる。
俺の具合が悪そうなことを、使用人はすぐに気づいたらしい。
「……お体の具合が優れないのですね。すぐに対処いたします」
「……よいは?」
からからの喉を震わせ、何とかそれだけを問いかける。
「宵様は朝から急務でこちらには来られません」
「……あっそ」
使用人の手際は恐ろしく迅速だった。
一度退出したかと思えば、すぐに氷嚢と、温かいリゾットが用意される。
しかし、いざ目の前に食事を出されても、昨日の晩のスープに入っていたガラス片を思い出して、手がつけられなかった。
今なら多分、ほんのちょいの毒だけで俺死んじゃうと思う。
「ご安心ください。宵様からのご命令により、今朝より正妃様のお食事にはすべて、専門の毒見役が手配されております」
「……ふーん」
一応そういう手配だけは抜かりないらしい。
だからといって、今の俺はスプーンを持つ手すらまともに動かせない。
ふぅ、ふぅと荒い息を吐きながら起き上がれずに寝台に沈んでいると、使用人が静かにリゾットの器を手にとった。
「失礼いたします」
使用人はスプーンでリゾットを小さくすくうと、俺の顔の前に持ってきた。
あ、食べさせてくれるんだ、と思ったその瞬間。
スプーンを口に差し込むより先に、使用人の指先が、俺の下唇にそっと触れた。
「……っふ?」
じわり、と熱い粘膜を指で圧され、そのまま滑り込ませるようにして口の中にスプーンを入れられる。
リゾットの優しい味が広がっていくが、頭の芯が別の意味で拒絶反応を起こしていた。
手伝ってもらえるのはこの状況だし正直助かる。助かるけど。
……今、わざわざ唇に触る必要、あったか?
熱でぼんやりとした思考の片隅で、冷や汗が流れる。
この屋敷の人間は、どいつもこいつも油断ができない。
俺はリゾットを嚥下しながら、無機質な使用人の瞳をじっと見つめ返した。
「何か、不都合でもございましたか」
「……なんも」
表情を一切変えない使用人に促され、俺は短く答えて視線を外した。
気のせいだ、と思いたい。
熱のせいで俺の猜疑心が過剰になっているだけだ、と。
リゾットを数口もらうと、今度は猛烈に喉の渇きが襲ってきた。
水が飲みたい。
だけど、さっきの不審な接触のせいで、水を頼んだらまさか口移しでもされるんじゃないかと一瞬本気でためらった。
いや、さすがにそれはないか。
逡巡したものの、からからの喉の不快感には勝てなかった。
「……みず、とって」
「かしこまりました」
使用人はすぐに水の入ったボトルを手に取り、俺に差し出してくれた。
口移しなんていうふざけた事態にはならず、心底ホッとする。
重い腕でなんとかボトルを受け取り、水を喉へと流し込んだ。
「昨日の風呂場の件と、昨夜のお部屋の件に関して、現在は宵様が直々に動いておられます。凪音様はどうぞ、ご療養に専念なさってください」
ボトルを置くと、使用人が静かにそう告げた。
なんだお前、気の利いた事も言えるんだな……
あの喰えない旦那様が裏で迅速に処理しているのなら、とりあえず今すぐここで首を絞められるような事態にはならないだろう。
その後、いつまでも素っ裸でいるわけにもいかないので、使用人が持ってきてくれた新しい寝巻に着替えさせてもらった。
指一本動かすのも億劫な状態での着替えは惨めだったけど、柔らかい布地が肌を覆うと、少しだけ人権を取り戻したような気がした。
だだっ広い天蓋付きのベッドに、ぽつんと一人。
宵の匂いが微かに残るシーツの中で、俺は熱に浮かされながら、浅い寝返りを打つ。
静まり返った部屋で、寝たり起きたりを何度も繰り返した。
じわじわと、身体の奥から嫌な冷えがせり上がってくる。
部屋の温度は適温に保たれているはずだし、分厚い布団にしっかりとくるまっているというのに、寒気が止まらない。
歯の根がカタカタと合わない。
内側から凍りつくような悪寒に耐えかねて、俺はシーツの上でさらに小さく身体を丸めた。
体温を少しでも逃がさないように、重い腕を伸ばして分厚い布団を何度も必死に抱き直す。
ぎゅっと布団に縋りつくたび、シーツの繊維から、宵の匂いがする。
大人の男の、酷く落ち着く落ち着かない匂い。
……なんで、あいつの気配ばっかり。
頭が熱くて、身体が寒くて、思考がぐちゃぐちゃだ。
昨夜、俺をめちゃくちゃにしたあの男は、今どこで何してる。
憎むべき相手のはずなのに、この心細い暗闇のなかで、布団に残る香りに少しだけ安堵してしまっている自分が、猛烈に癪に障った。
ちくしょー、寝ても覚めてもあいつの気配から逃げられない。
俺は悔しさまぎれに布団を頭まで被り、再び重い微睡みのなかへと意識を沈めていった。
どれくらい眠ってたんだろう。
軋むようなベッドの沈み込みと、微かな気配に、重い瞼をうっすら開けた。
枕元に、人影が座っている。
熱に浮かされた視界を何度も瞬きさせて焦点を合わせると、そこには、マスクを身につけた宵が静かにこちらを見下ろしていた。
「……熱出たって?」
マスクの奥から、少しだけくぐもった声が聞こえる。
「ん……」
小さく答えるのが精一杯だった。
宵は手袋を外すと、長い指を俺の熱い額にそっと触れさせた。
ひんやりとした皮膚の感覚が、ガンガンする頭の芯にひどく心地いい。
「まだ、下がってないな。……熱い」
「……さむい」
布団を掻き抱いたまま歯の根を鳴らす俺に、宵は困ったように眼を細めた。
「……ごめんね、無理させちゃって」
本当に申し訳なさそうな、優しい声音。
よく言う。元はと言えば誰のせいだ。
「……許すか……っ」
「昨日の足音とガラスのスープ、犯人が分かったからもう大丈夫だよ」
手を止めないまま、宵が淡々と告げた。
「……どーせ、かわいこちゃんの中の、誰かだろ……」
「うん」
宵は否定しなかった。やはり、二十人もいる妃のうちの誰かが、新参者の俺を排除しようとした。
この屋敷のドロドロとした権力闘争に、俺は完全に巻き込まれたらしい。
「一件落着したから、安心して休んで」
「……俺んとこ、くんなよ……しばらく」
俺は布団に顔を埋めたまま吐き捨てた。
けれど、宵はしばらくの沈寂の後、小さく息を漏らして静かに告げた。
「……残念ながら、しばらくそうなりそう」
「……え?」
思わず、重い瞼を持ち上げて宵を見た。
拒絶したのは俺のくせに、あ、ほんとに来ねぇんだって一瞬だけ胸に変な空間ができたみたいな気分になる。
……いや、違う。
何だ今の。
なんで俺、一瞬でも拍子抜けみたいな真似をしてるんだ。
そうか、熱で弱っているからだ。心細さに頭がやられてるだけに決まってる。
「凪音の実家とのこともあるから、正妃の座を変えるつもりはないんだけど」
宵は淡々とした調子で続ける。
「詳しい事情を凪音に話すと、また余計なことに巻き込むかもしれないから言えないんだけど……しばらく、妃側のケアに回るよ」
元はと言えば、お前がそんな大量に女を侍らせているからだろうが。
心の中で猛烈に毒づいたが、声にする元気は残っていなかった。
「凪音」
ふいに、甘い声で名前を呼ばれた。
「……なに」
掠れた声で応じた、その瞬間だった。
ベッドが大きく軋み、視界が宵の大きな影で覆われる。
驚く暇もないまま、布団の上から引きずり込まれるようにして、宵の長い腕にぎゅう、と強く抱きしめられた。
「っ、おま……っ」
重い。だけど、マスク越しの熱い息が首元に触れて、心臓が跳ね上がる。
宵はそれ以上、何も言わなかった。
行くなって言ってほしいのか、それとも、ただの気まぐれか。
こいつの考えてることは、やっぱり何ひとつ分からない。
だけど、耳元で聞こえる宵の規則正しい心音に、身体がゆっくりと、確実に侵食されていく。
悔しいのに、男としてのプライドなんてとっくにズタズタのはずなのに、俺は腕を押し返すこともできず、その理不尽な温もりにただ身を委ねることしかできなかった。
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