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第1話

 土曜日の午前十一時を過ぎたというのに活気がない。  またここに戻って来るとは思わなかったな、とその思いを混ぜ込んだ溜息を吐いて矢敷綾太(やしきりょうた)はひと気のない商店街の入口に立った。 「日ノ入り前商店街」と書かれたアーチに見下ろされて、動かしたくないと訴えてくる体を無理矢理に動かす。  綾太の中に残る幼少期の記憶よりも寂れていても仕方はないが、正直ここまでとは思わなかった。 五十店舗以上は入るであろう規模にシャッターの開いた店が点々としかない。それでも所々にベンチや空き店舗を利用した休憩所が見られるからただ朽ちていくのを待っているわけではなく、近隣に建つ大型商業施設に対抗しようとする商店街運営者のほんのりとした抵抗が見える。  ただそれも利用者が居ないのでは意味がない。五分ほど歩き綾太は数人とすれ違ったが、駅が近いという利点だけでアーケード内を通り抜けに使っているようにしか見えなかった。 スニーカーの底とタイルがぶつかってアーケード内に響く。人が居ないから派手に鳴ってしまい、まだまだ出口までは程遠いこの場所から逃げ出したい気持ちに駆られて綾太はアーケード外へ抜けられる小道に足を向けた。  アーケードのように屋根に覆われてはいないが、外にもバーやラーメン屋があり、真っ直ぐ歩いて行くと道路に出る。  ああ、確か、この先に――。  脳内に思い浮かべるよりも先に小さな神社が目に入った。信号を渡り近付くと商店街の中に入った時のように幼少期の記憶が蘇って行く。当時暮らしていた家から近く、散歩コースだったのか母に手を引かれてよく通った。「人が居ないからお参りがしやすいの」と熱心に手を合わせていた母の横顔を思い出す。  どんな願い事をしていたのだろう。今となっては確かめようのないことだけれど、手を合わせ終えた母が視線に気付いて照れたように笑った顔を綾太は忘れられずにいた。 そういえば父とも来たことがあった。あれは別れの前だったろうか。  鳥居をくぐり短い参道を歩きながら、前はアスファルトで舗装されていなかったなと靴底に意識をやる。やはりひと気はない。  真っ直ぐに歩いているとすぐに賽銭箱まで辿り着いてしまい手水舎を探して周囲を見回し少し戻って手を清めた。  財布の中から自分と母の分と小銭を二枚取り出すと賽銭箱に向かって投げた。己のコントロール能力を過信し、三段ある石段の下から投げてしまったものだから二枚の内一枚が賽銭箱の向こうへと飛んで行ってしまった。 「……」  あとで神社の関係者が拾ってくれる、そう頭では考えているのだけれど手を合わせている最中にも飛んで行った小銭のことが気になってしまい願い事どころか無にもなれず、結局賽銭箱の裏に回って小銭を探すことにした。  石段を上がり賽銭箱の裏を覗くと小銭が数十枚落ちている。ほらやっぱり拾う必要なんてないんだと思うと同時に埃を被っているそれらを見て神社の関係者は頻繁には訪れていないようだと推測された。  自分の落とした小銭だけを拾おう。  綾太は汚れの少ない小銭を探そうとしゃがみ込んで地面を凝視する。 「あれ?」  あまりにひと気がないので自分の声が聞こえて来たのかと錯覚して、喋ってないよなと自らの声帯に確認を取る。 「あれれ?」  再び聞こえた声に顔を上げるが賽銭箱が邪魔で人の姿が確認出来ない。とりあえず転がったばかりに見える小銭を一枚拾い綾太は立ち上がって、参道に目をやった。  若い男が立っていた。  一度歩みを止めたが再び歩き出し石段の下まで来た男と目が合う。 「あんた、なにしてんの?」  男に問われて綾太の目線は形良く動く唇に向かう。小さな顔に似合う小振りな鼻と化粧でも施しているようなはっきりとした二重瞼の瞳。それらがバランスよく配置され、男が世に言う「顔面の強い者」であることが分かる。 「え、答えらんないこと?」  綾太の反応がないので目の前の男が眉を寄せ、耳朶にぶら下がるフープピアスを弄りながら石段に足を掛けた。 「あ、いや、俺は、賽銭を」 「は? 賽銭ドロ?」 「ちが、っ」  確かにこの状況では勘違いされても仕方がない。しかし賽銭を入れ損ねただけというシンプルな理由を、人の話を最後まで聞かない男に今から必死に説明しなければならないことを考えると脱力した。  それからじわじわと怒りが湧いて来る。勝手に誤解しているのはそっちで、俺は何もしていないという気持ちが前面に出て、綾太の口を尖らせる。 「ちげぇよ! 賽銭が飛んだから拾っただけ!」  苛立ちは自覚していたよりも大きかった。普段の声量の倍の倍くらいで綾太の口から飛び出して、目の前の男にぶつかる。 「あー……ごめん。なんも言わねぇから、怪しくて、つい」  最もな言い分である。分かっているのに、苛々が増す。  綾太は意識して不機嫌な表情を保ったまま、握り締めていた小銭を賽銭箱の中に落とすと無言で石段を下りた。  男とすれ違う時に香水とは違う柔らかな香りが鼻をついて思わず足を止めそうになった。でも見ず知らずの相手に苛立ちをぶつけてしまった罪悪感が早々に上がって来て、とても振り返れる精神状態ではなかった。  彼の目と髪が同色の茶色だったことが思い返される。その両方が陽に透けて今日はそんなに天気が良かったのかと知った。  翌日、日曜日の商店街は昨日よりまだ人通りがあった。けれどこんなものではいつ取り壊されてもおかしくはない。もしそうなったら跡地には何が建つだろう――。  遊べる場所なら幾らあっても市民は困らないだろうし、駅が近いという利点を活かしてやはり商業施設かな、などと考えながらアーケードの中を進む。  緊張はしていない。自分で決めた割に僅かな憂鬱感があるだけ。  昨日もそうだったが、アーケードの入口を入ってすぐに看板は目に付いていた。「マエイツ青果店」とある店の前で綾太が足を止めるとちょうど中から父親が出て来るところだった。 「よく来たな、綾太」  笑顔を見せる父とは反対に真顔で頷いて見せると青果店の中へと進む。外観も内装も変わらない。店の奥、間仕切り暖簾の向こうには最低限の家事が出来る台所と休憩スペース、二階へ上がる階段がある。他にも出入口用のドアがあって、ここから外に出ると商店街の裏手に繋がり、幼い頃は煙草休憩をする父と共に裏口へ出て潰した段ボールなんかで遊んでいたことを思い出す。  この店がまだ商店街の中に残っていると聞かされた時には正直驚いた。青果店は母の為に父が立ち上げたものだったからとっくに畳んでいるものだと思っていた。でも在った。だから綾太は戻って来た。 「本当にこっちで良かったのか? 向こうの家の方が風呂もあるし広いし、暮らしやすいと思うけど」  向こうの家というのは祖父と祖母の暮らす父の実家のことだろう。綾太は無表情で「こっちでいい」と答える。 「そっか……まぁ二階は片付けて住めるようにしてるよ」 「ありがとう。寝れるスペースがあればいいから。卒業までだし。あ、あと、来週か、再来週にでも残して来た荷物運んで貰うことになってる……向こうの義父(とう)さんに」  ところでこっちの父さんには新しい家族はいるの? というのは聞けないまま、血の繋がりという一番頼りにならないものを辿って綾太はここに居る。 「そうか、それは有難いな。俺も手伝うから。それとな、綾太――」 「ゆうじい~、居ねぇのぉ?」  父が何かを口にしようとするが外から聞こえた声に掻き消された。昼時から酔っ払いか。でも父の名である裕司(ゆうじ)と爺さんを混ぜ込んだような呼び方をしているし、明確な意思を持ってこちらに呼び掛けているように感じる。 「……なんか、呼ばれてない?」  そう言うと、盛大な溜息を吐いて裕司は店先へと出て行った。綾太も裕司ほどではないが、小さく息を吐いて休憩スペースにある椅子に腰掛ける。小さなテーブルもあって、これは記憶の中にないから買い足されたものかとちょっとだけ黄ばんだ机上をぼんやりと眺める。  父と母が別れたのは綾太が四歳の時だった。母の姉曰く、一族で農家を営む父の家族と母が馴染めなかったのが原因らしい。それで家に居場所のない母の為に父がこの青果店を与えた、という話だったが、母子が去ったあとも店を維持しているところを見るに特に母の為だったというわけでもないのかもしれない。まぁ今となってはどうでも良いことだし、当時のことを知ったところで両親の離婚という事実は変わらない。とにかく今の綾太にとっては逃げ場所があるだけましだった。 「――っ、こら、馬鹿、やめろっ」  外で話していると思っていた裕司の声が近くなってハッと瞬きをする。 「なんで隠すんだよ! 若いエキスを吸わせろ!」 「うるせぇ、帰れよ、そういう感じじゃねぇんだよ」  誰かと言い争って――いや、じゃれているような、そんな声色が綾太の居る店の奥まで聞こえてくる。客? にしては随分と馴れ馴れしい。友人? にしては声の感じが若い。  椅子を引き摺り間仕切り暖簾のところから店内の様子を見ようとした瞬間に体ごと暖簾を押し退けて男が入って来た。 「は?」 「え?」  どちらの声か分からないくらい同じタイミングで声が発せられた。青果店のバックヤードに居たはずなのに、押し入って来た男と目が合うと瞬時に昨日の神社まで時間が巻き戻される。  目の前に現れたのは神社で遭遇した顔面強男だった。 「え、え、ゆーじいの息子?」 「なんだよ、似てねぇって言いてぇのかよ」  裕司が嫌そうな声を上げる。椅子に腰掛けている綾太は男を見上げたまま固まった。 きっと裕司は顔面強男の勢いに綾太がどう反応していいのか分からないと思っているはずだ。でもそうじゃない。人見知りを発動していた四歳児のままではないのだから、単なる初対面ならば挨拶くらいは出来る。  だけど今回はそうではない。目の前の男とは既に対面済だ。最悪の状態で。 「なに、どったの? 裕司さんのムスコ居なかったん?」  顔面強男と裕司に加え、もう一人居たようで暖簾をくぐって男が顔を覗かせる。中性的な雰囲気を纏う顔面強男とはまた違った落ち着いたタイプの塩顔黒髪短髪イケメンが「あ、これが裕司さんのムスコ? ちわー」と声を掛けてくる。綾太は反射的に頭を下げた。 「俺の時と態度ちげぇじゃん」  顔面強男が騒ぐと神社でのやり取りと苛々感が戻って来る。 「なんかあったん?」  聞いてくれるな、塩顔黒髪短髪イケメン。  綾太がプイッと顔を背けると、顔面強男が「俺さ毎月御朔日参りしに神社に行くじゃん? 今月は一日に行けなかったから昨日行ったら偶然、会ってんの俺ら。なっ」と自分と綾太の間で人差し指を動かして見せる。  その何気ない仕草も綾太の腹の底に黒い雫を落とすようで、真っ黒に染められる前にこの場を離れたくて勢い良く立ち上がった。当然、椅子は倒れて裕司と二人の男の視線が自分に注がれることになる。 「会ったからなに? あんた馴れ馴れしすぎるよ」  この春で高校三年になる。短い人生ながらも平和に過ごして来た。人と殴り合いの喧嘩をしたこともなければ睨み合いもしたことはない。それなのに今、我慢出来ない程の苛立ちで顔面強男に厳しい視線を向けている。 「なんでそんな怒ってんの」  凍り付いた空気に合わせるみたいに置物のように突っ立っている裕司と塩顔黒髪イケメンとは違い、顔面強男があっけらかんとした口調で返してくる。  指摘されたことで身体の温度が上昇していく。  急速に上がる体温に耐え兼ねて、綾太は間仕切り暖簾を塞ぐ裕司と男たちを押し退けて逃亡した。  背後からは「またこれかよ~」という声がする。神社の時もそうだったからだろう。顔面強男の嘆きに聞こえた。

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