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1 サント・ジーリオ孤児院(1)
その建物は、思わずこちらが妖精の国に紛れ込んだかと見紛うような可愛らしい外観をしていた。
外装は薄いピンク、屋根は薄い若葉色で、窓は様々なパステルカラーで彩色されており、形状はさながらロココ調の宮殿である。
室内にはマホガニーの豪奢な調度品が設えられ、キューピッドが踊る天井では優美で繊細なデザインのシャンデリアが、きらきらと無数の瞬きを放っている。
廊下を包むクリーム色の壁にはいかにも子供が喜びそうな空想上の動物や植物、貝や海の動物が描かれ、建物内はどこでも、階段でさえ、隙間なく朱の分厚い絨毯が覆っている。そしてどの部屋にも天井の隅には、立派なレリーフが刻まれていた。
そこで暮らす孤児 たちの制服も一風変わっていた。
十八世紀の貴族がめかしこむようなこってりとフリルのついたブラウスに、男子はキュロット、女子はロングドレス。油を塗って茶色く光る革靴の中は、白いストッキングだ。なんということはない、オーナーを兼ねる孤児院長の趣味だった。
昨日まではトト・キエーザもそのような奇態な格好をさせられていた。しかし今のキエーザは違う。現代のティーンエージャーそのままに、こざっぱりとした生成りの綿シャツに藍のジーンズという、ラフな姿だ。まるで何世紀もタイプワープしたみたいだった。
そんな彼を周囲の子供たちはやや羨ましい目つきで眺めている。現代風のその恰好こそが「卒院生」のあかしだからだった。
今まさに、サント・ジーリオ孤児院の正面玄関にあたる広いホールでは、アレクサンドラ・サンティの良き友人であったキエーザが出院にあたって晴れやかな笑顔を見せていた。アレクサンドラがキエーザに出会ってから五年。彼のこんなに晴れ晴れとした表情は初めてだ。ただ、わずかばかりの私物を入れたボストンバッグを手にした彼は、数人の教師 に挟まれて少し窮屈そうだった。
いつにも増して朝から空が晴れ渡っていた。キエーザの卒院式を天気までが祝福しているかのようだった。重厚な玄関にある大きなステンドグラスからは虹色の光が雨のように降り注ぎ、ホールは甘ったるい明るさで満ちている。キエーザのやや伸びた黒髪も色とりどりの光を反射して、天使のように輝いていた。
ささやかな卒院式である。
見送る孤児たちは卒院生と向きあい、共にいられる最後の時間を惜しむ。
前回の時はキエーザも先輩を見送る側だった。しかし今日は主役である。
彼を見送るチャイルドはアレクサンドラを含めて十六人。この孤児院で身を売っているチャイルドは五十人程度なのだから、残りの三十数名にはこの場に出られない事情がある。
午前七時少し前だ。まだ客 の相手をさせられているチャイルドも多かろう。もしくはゆうべの務めがきつ過ぎて起きあがれないか、あるいは、この数日間、激しいセックスのために寝込んでいるチャイルドだっているはずだった。
しかしそんな事情をあえて口にする者はいない。口にしたところで楽しい気分になる話でもないからだ。
「無事に卒院できてよかったな、トト!」
ティーチャーのカロが隣から明るく言い放つ。同時にキエーザの肩をポンと叩いた。
何気なく触れられただけだったが、全身をビックンとわななかせたキエーザは硬直した様子を見せる。しかしすぐに、この晴れがましい日に卑屈な態度は似合わないと己を奮いたたせたのか、「はい!」と元気よく答えた。
その正面で深緑のドレスに身を包んだチャイルドが一人、ヒクっと喉を鳴らした。キエーザがよく面倒をみていた少女が大粒の涙を流している。褐色の肌がとりわけ美しい八歳のマリエッタだった。
「トト、本当にいっちゃうの?」
兄のように慕っていた相手を失うのはさぞ心細かろう。見ていたアレクサンドラの胸までが少なからず痛んだ。
マリエッタにとって、キエーザはこのつらい孤児院生活の中で自分を庇護してくれる唯一の存在であったはずだ。だからかキエーザの出院が伝えられてからの数日、暇さえあればキエーザの傍につききりだった。
キエーザの表情もつらいものに転じる。彼もまた妹のようにあれこれと可愛がっていた少女を残してゆくのは心苦しいに違いない。マリエッタの具合が悪いと聞けば看病し、寂しいと泣きつかれてはベッドサイドで絵本を読んでやっていたのだ。食事はきまって一緒にいたし、時には自分のデザートをマリエッタにあげたりもしていた。
少女に近づき、その前に膝をついたキエーザは一瞬、頭を撫でようとしたが、ためらうように手を下ろす。触れたらマリエッタは嫌がるだろう――――そう考えたからに違いない。
カロに触れられたトトが咄嗟に拒絶反応を表してしまったように、身を売らねばならない宿命を負ったチャイルドにとって他人の手は恐ろしいだけであって、優しさを齎すものではないのだ。それがたとえどんなに気を許した相手のものであっても――――だ。
「また会えるよ、マリエッタ。僕は必ずきみを探し出して、会いに行く」
そう言ってキエーザはマリエッタを慰める。
なんの保証もない言葉だ。ただの口約束に過ぎない。かといって今の彼に、他のどんな言葉をもって彼女を慰め得よう。マリエッタがここを卒業するまでの長い未来について、彼がどんな確信を持ち得ようか?
立ちあがったキエーザは、今度はチャイルドの皆に向かって語り始めた。
「僕は十六歳になった今日、ここを卒院する。僕は八年間、ここにいた。とても、とても、つらい日々だったことは、みんな、身をもって分かっているよな?」
真剣な目にうっすらと涙が浮かぶ。胸に込みあがるものを押さえるかのように、ぎゅっと唇を噛んだ。
「僕にはきみ達と同じく、親の借金を返さなくてはならない義務があった。そのためにここに連れてこられた。だから好き好んでやってきたわけじゃない。嫌々だ。ここでの生活があまりにつらくて自分から死んでしまいたくなったことも、一度や二度じゃない。実際、そうしてしまうチャイルドは、たくさんいるよな。でも、よく考えてみてくれ。ありがたいことに、ここにはこうして、十六歳になれば卒院できる仕組みがあるんだ。卒院だけじゃない。あの隣の更生院で弱った体を治し、自立するのに必要な技能を勉強させてもくれるんだ!」
キエーザは西へと腕をのばし、人差し指をたてる。
その先には孤児院とは別に「更生院」と呼ばれる現代的な建物がある。せいぜい二階分ほどの高さで、孤児院とは高い塀で仕切られていた。中の様子を窺うことはできないものの、キエーザからわざわざ説明を受けなくとも、ここで身を売っている子供達ならば一日も早く行きたいと願っている場所だった。
「僕はコンピューターの勉強をさせてもらうことになったんだ」
キエーザの顔が崩れ、ニコッと笑う。自らの未来に明るい喜びを確信している、純粋で朗らかな笑顔だった。
人差し指を握りしめて、キエーザは拳を作る。
「そうだ。僕達には、死ぬよりマシな人生がちゃんと用意されているんだ。だからみんな、どんなにつらくても、どうか生き延びてくれ。ティーチャーやドクターの言うことを聞いて、きちんと従ってほしい。そうすれば、今の僕のように晴れ晴れとした気分でここを出てゆくことができるんだ!」
キエーザの眸から、一雫の涙が零れる。あらためて彼は破顔し、はにかんだ口調になった。
「ここを卒院しても、僕は半年間は隣に住んでいる。きみ達と会うことは禁止されているけれど、半年間は、すぐそばにいるから。だからたまには僕を思い出してくれ――――なあ、アレクサンドラ」
キエーザは、今度はアレクサンドラへと目を向ける。視線がかち合ったアレクサンドラはほほえんで「おめでとう、トト」と告げた。
「うん。一足先に行ってきみを待っている。きみも三か月足らずで卒院だ。その後しばらくはあそこで一緒に暮らせるんだな。楽しみにしてる。そして、いつか、いつか――――半島でも会おう!」
キエーザもアレクサンドラと同じイタリアの出身だ。キエーザとの再会に本当の確信を得ているふりをして、アレクサンドラは強く首肯した。
「ああ、必ず!」
トトが満足そうな笑顔を見せる。
「みんな⋯元気で。よくしてくれて、本当にありがとう」
そう告げてティーチャー数人と玄関を出てゆく。
トトの堂々としたまっすぐな背中を、アレクサンドラは他のチャイルド達と共に静かに見送った。
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