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第3話 悪夢

「んぅ……う、んっ」  肩の付近を掴む手、頭の後ろに添えられた手に力が籠り、くちづけが深くなる。詩鸞(しらん)は、驚愕に一瞬大きく(みは)った目を、思わずのように、ぎゅっと(つむ)っていた。  呼吸を奪うような接吻に、息苦しさのあまり、薄くくちびるをひらいてしまう。すると、歯列を割って、ぬる、と、男の舌が無遠慮に口中へと忍び込んだ。  くちびるはさらに深く重なる。  身体の奥に、覚えのない熱が(とも)る。 「ん、ぅ、うん、んっ」  そうやって、神像の前で、どれだけくちびるを貪られていただろうか。男の強引な口づけから解放されたときには、詩鸞の呼吸はすっかり乱れてしまっていた。 「ちょっ……いったい、なにを……っ!?」  目を怒らせて相手を睨み据え、けれども詩鸞の言葉は、そこで途切れた。  男の頬のあたりや首にある痣が、先程より、明らかに薄くなっていた。まだこちらの身体を掴んだままでいる相手の腕をたしかめるように見てみると、そこにある痣もまた、同様に、色を薄めている。 「……ど、うし、て……?」  詩鸞は、自分でも何を訊ねたいのかわからないまま、そうつぶやいていた。  そして、はっとする。  男のごつごつしたてのひらに重なった、己の白い手。そのてのひらに、いま、(すみ)色の痣が浮かんでいた。 「え……なに、これ……?」  まったくもってわけのわからない事態に、詩鸞が声をふるわせたときだった。(たなごころ)に浮かんだ痣から、まるでじんわりと空気に()け出すかのように、(もや)のようなものが立ちのぼりはじめる。ゆらゆらとくゆるそれは、見る間に(こご)って、やがて一羽のちいさな鳥の姿となった。 「(ほととぎす)か……死と再生を(つかさ)る鳳凰の、しもべ。此岸(しがん)彼岸(ひがん)とを行き来して結ぶ鳥」  男がうたうように言った。  男が鵑だと言った鳥は、プゥルゥグィ、と、高く独特の啼き声をあげると、ぐるぐると廟堂の中を飛び廻った。  しばらくそうした後に、扉から外へ出る。そのまま、大空めがけて飛び去っていく。 「我が身が受けた呪詛(ずそ)を、鳥が天へ帰してくれたのか……なるほど、下った神託の相手は、間違いなくあんたのようだ」  空へと消えていった鳥の影を見送ってから、男は目を細めて再び詩鸞を見ると、満足げにつぶやいた。  痣はてのひらに浮かんだだけではなかった。詩鸞の二の腕のあたりにまで及んでいる。そこからひとしきり鳥が生じては、同じように堂内を啼き巡って飛び去っていった。  プゥルゥグィ、プゥルゥグィ、と、鵑の啼き声が廟堂に響き渡る。なぜかそのときの詩鸞には、その啼き声が、まるで亡きものを恋うて()くような切ない呼び声にも聴こえていた。  胸が締め付けられる。  ずきずきと頭が痛い。  詩鸞の身からすっかり痣が消えるまで、鳥は生じ続けた。そして、最後のそれが空へ飛び去る頃、詩鸞は己の意識が遠く(かす)んでいくのを感じていた。 *  目の前が真っ赤に燃えていた。  夜空を()める巨大な赤い舌のような(ほのお)を前に、詩鸞(しらん)は血を吐かんばかりに泣いていた。  あの赤はいま、詩鸞の大切な場所を、ものを、人を、全て呑み込み蹂躙(じゅうりん)しながら燃え盛っているのだ。それがわかっているのに、ただ声を上げて泣くことしかできない。  それほどに、詩鸞はまだ幼かった――……ああそうか、これは夢だ、と、詩鸞はおもう。  故郷が灰燼(かいじん)に帰した日の夢だ。  音はない。  匂いもない。  感触もなにもない。  その中で、ただ、兇悪な焔だけがひどく鮮やかなのだった。  もう見たくないと思うのに、夢は終わってはくれなかった。いつだってそうだ。だから詩鸞は知っている。次に自分の目の前に現れるのは――……巨大な鳥の影なのだ。  はたして、泣き続けて声も()れた頃、それは詩鸞の前に姿を見せた。  焔の赤よりも赤い、禍々(まがまが)しいほどにうつくしい鳥である。けれどもその身体には、憐れにも、無数の矢が突き刺さっているのだった。巨鳥は血に(まみ)れていた。  鳥は、目を(みは)る詩鸞の前にしずかに(たたず)むと、カァアァン、と、高く澄んだ声で、ひと声、啼いた。  その音だけは、無音の夢の中で、不思議とあたりに響き渡る。  そして鳥は、その(くちばし)から血を吐いた。その刹那、自分の視野が真っ赤に染まり、身体がひどく熱くなったと思ったのは、詩鸞がその血を浴びたからだったのかもしれなかった。 * 「ん、う……」  小さく(うめ)いて、詩鸞は(まぶた)をふるわせた。  ゆっくりとそれを持ち上げる。目覚めの気分はあまり良くはなかった。久しぶりに見た夢のせいだ。  眉をひそめた詩鸞の視界に入ってきたのは、見慣れたものとはまるで違う天井である。  ここはどこだ、と、思う。  自分はどうしたのだっけ、と、思う。  ゆっくりと身体を起こして周りを見回してみて、どうやら自分は、いまこの瞬間まで、見知らぬ寝室の豪奢(ごうしゃ)な寝台の上で眠って――あるいは気を失って――いたらしいことだけを理解した。  そして、はっと思い出す。  京城へついて早々、そういえば、とんでもない目に遭ったのだ。誰かもわからない相手に、神像の前で、いきなり口づけられた。こちらの口中にぬるりと忍び込んで蹂躙した舌の感触が生々しく蘇ってきて、詩鸞は頬がかっと熱くなるのを感じた。  半分は羞恥からだ。  そして、もう半分は怒りからだった。 「なんだったんだ、あいつは、いきなり……っ!」  そう独り言ちたときだった。きぃ、と、小さな音を立てて、部屋の入り口の扉が開いた。

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