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第26話 限界

 翌日、詩鸞(しらん)は朝いちばんに、偵察のために出かけるのだという令雅(れいが)を見送った。  副官の佑祥(ゆうしょう)は令雅と一緒だったが、どうやら今回、羽姫(うき)は参加しないらしい。京城衛からあと二人、兵卒が同道するということだった。  その後は特にすることもなく、きたる試験に向けての準備を、と、そう思って取り組みかけた。  が、集中できるはずもなかった。自分がやきもきしても仕方がないとはわかっているのに、気づけば東の空を見詰め、溜め息をついてばかりの一日だった。  切羽詰まった佑祥の声が聞こえてきたのは、もはや日も暮れようかという刻限だ。 「詩鸞! 詩鸞はいるか!? 将軍が……!」  令雅の副官のそんな声を耳にするなり、詩鸞は部屋を飛び出した。  すぐに目に飛び込んできたのは、蒼白な顔をした令雅の姿だ。その肌には、これまで以上に濃く、赤黒い(あざ)()いまわっていた。 「令雅!」  詩鸞は弾かれたように令雅に駆け寄った。 「いったい、なにが……」  息を呑みつつつぶやくと、令雅がうっすらと目を開けた。 「だ、いじょうぶ、だ……たいしたこと、ない」  口許を無理にゆるめて、途切れ途切れに言う。嘘をつけ、そんなわけがあるか、と、詩鸞は眉を吊り上げた。 「とにかく部屋へ……治療します」 「たのむ。将軍を助けてくれ」  (すが)るような佑祥の声に、詩鸞は(うなず)いた。 「いったい何があったのですか? まさか、太風(たいふう)と?」  今日は様子を探りにいくだけだと言っていた。だが、不測の事態で、太風と対峙(たいじ)することにでもなったのだろうか。  令雅の酷い有様を前に詩鸞が佑祥に問うと、佑祥は、そうではない、と、(かぶり)を振った。 「出たのは狙如(そじょ)だ。将軍が片付けた」  狙如は巨猿の姿をした妖魔だとされていた。比較的よく聞く妖魔で、普通の兵卒であっても倒せるようなものである。令雅ならなおのこと、退治に苦労などしなかったものと思われた。  それなのに、これはどういうことなのだろう。  詩鸞はきゅっと眉根を寄せた――……きっと、討伐が度重なっているから、だ。  令雅の痣が濃くなるたび、詩鸞はそれを和らげてきた。だが、根本の問題が解決したわけではない。  きっと詩鸞のしたことは、令雅の身を(むしば)む呪詛の進行を、やや遅くする程度のことだったのだ。  こちらには悟らせなかっただけで、ほんとうは、すこしずつすこしずつ、彼の状況は悪化していた。いつのまにか、呪詛は令雅を深く――取り返しがつかないほどに、深く、ひどく――(むしば)んでいた。  だって彼は、日々、神気(じんき)を練って使っていたではないか。まるで自分などどうなっても構わないとでもいうかのように、ひとり、妖魔と戦っていたではないか。  こんなことを続けていては、考えるまでもなく、身体は悪くなるだろう。 「ねえ、佑祥どの……わたしは地方出身ですから、わからないのだけれど……京城(みやこ)って、こんなにも頻繁に、妖魔が出るものなんですか? ほとんど毎日、京城衛が討伐に出なければならないほどに?」  詩鸞が令雅の屋敷に厄介になるようになってから、いったい幾度、令雅は妖魔との戦いに出向いていっていただろうか。それが京城衛の職務とはいえ、いつもここまで、頻繁なのだろうか。  これでは令雅の身体がもたなくても当然だ、と、そう思いつつ、泣きそうに眉をひそめて詩鸞は令雅の副官に問うた。 「いや……前はこんなんじゃなかった。太風が出る前あたりからだ。太風の出現が関係しているのかもしれない。あるいは、鳳凰(ほうおう)の結界がゆるんだからか」  こんなにも妖魔の襲撃が度重なることなどなかった、と、佑祥は難しい顔をして言った。  そのとき、ふと、詩鸞の頭に(よぎ)るものがある。 「あ、のときと……おなじ」  詩鸞はつぶやいた。  十五年前、詩鸞の故郷である芝蒼(しそう)(むら)。その地もまた、妖魔の大軍に襲われた。それまで平穏だったのに、頻々(ひんぴん)と妖魔が姿を見せるようになった。  そうこうするうちに――……赤黒い、巨大な鳥が現れたのではなかったか。 「太、風……?」  翼ある妖魔など、普通はいはしない。けれどもたしかに、詩鸞は見ていた。  (ほのお)が舌のように詩鸞の(むら)を舐め、容赦なく蹂躙(じゅうりん)していた。その焔を背景に立っていた、大きな鳥。  あれは、まさか、太風だったのだろうか。  ――くそっ。  次いで、記憶の中で、誰かが毒づく声が聞こえた。  男だった。  赤い髪をしていた。憎々しげに鳥のかたちの妖魔を睨んでいた。  巨鳥は傷を負っていた。  そこから滴り落ちる血を、詩鸞は頭から浴びた。  内からじくじくと焼かれるように全身が熱かった。死ぬかもしれない、と、思った。  けれども男は、目の前のそんな憐れな子供には目もくれず、顔を歪め、鳥の妖魔だけを見据えていた。  ――太風の血を得る時、鳳凰を得る。この手に玉座を得るまで、わずかだったものを。  そうだ。この男が詩鸞の廬を焼いたのだ。火をつけろ、と、兵卒に命じた、禁軍の将軍。  あの妖魔を逃がすな、囲い込め、生け捕れ、そのためならどんな手段をつかってもいい、と、そう(のたま)っていた気がする。  どうして忘れていたのだろう――……あの男の目的は、ほんとうに、人民を妖魔の害から救うことだったのだろうか。 「――おい、お前っ!」  佑祥に呼びかけられて、詩鸞ははっと我に返った。 「ぼんやりしていないで、はやく将軍の治療を」  求められ、ああそうだ、いまは令雅の無事がなによりの優先事項ではないか、と、己に言い聞かせた。  寝台に力なく横たわる令雅に口づける。身体の奥に熱が移り、表皮へ浮かび上がる感覚とともに、例によって、詩鸞の肌からは(ほととぎす)が生じた。  プゥルゥグィ、プゥルゥグィ、と、鵑は啼きながら飛び廻る。 「……し、らん……もう、いい」  しばらく口づけを続けていると、意識を取り戻したらしい令雅がこちらを押し止めるようにした。 「だいじょうぶだ。だから、もう、いい」 「いいわけないでしょう! こんなになって!」 「これ以上は……あんたの体力を、(けず)る」 「それこそ平気です、すこしくらい」 「でも、あんたには、試験、が」 「いまそんなこと言ってる場合ですか! 黙って……おとなしく、治療されなさい」  令雅を押さえつけ、詩鸞は口づけを続けた。  それからしばらくして、気が遠くなるのを感じる。  まだもうすこし、もっと呪詛をやわらげなければ、と、そう思うのに、意識が深淵に沈み込んで落ちていくような感覚に(あらが)えず、詩鸞は令雅の上に倒れ込んだ。

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