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四 『昭和岡三丁目 五三-二 コーポすずらん三号室』

偶然だった。その日会ったのは。  前のアパートが取り壊しになって現在の部屋に移り住み二年が経とうとしていたが、職場に住民票を提出していない事にようやく気付いて、遅ればせながら書類を取りに出向いた時の事だった。  九時からだろうと朝一番のつもりで役所へ乗り込んだところ、窓口はどうやら八時半からの開始だったようで、既にちらほらと人の姿があった。  必要事項を申請用紙に書き込み、自動で出てくる整理券を取って、待合に座り片方の耳にだけイヤホンを付ける。  スマホに落としているアプリを開き、てきとうに曲を探していたところ、別の窓口で何やら騒ぎが起きた。  年配の男が、男と同じほどの歳の女性職員に何やら怒鳴り散らしているのだ。 待合に座る人々がチラチラとそちらを気にしていた。  素知らぬふりを決め込んで自分の番を待つ。  その男の訴える言葉は聞くに耐えない。  ああはなりたくないよな、と見知らぬ者同士が目を合わせて苦笑いを浮かべる。  そんな場面がまるで別の世界で起きているように、無関係に流れていく無数の窓口。  無人の窓口に男性職員が座ると、ピンポンと呼び出し音が鳴った。  お目当ての番号の自動音声が流れて席を立ち、数字が知らせるカウンターへと向かって、一瞬だけ足が止まった。  職員の眼鏡の男に見覚えがあった。  一歩進んで、下を向いたままの職員を見下ろす。  数日前、食事を共にした男だった。  店のライトのせいで、眼鏡の銀縁が綺麗な鼻筋を隠すように光るものだから、勿体無いな、と眺め会話をしていた事を思い出す。  用紙を差し出すとやっと男と目が合った。  口が、あ、の形に開かれて数秒経った。  お互い首を下げただけの会釈。  知らないふり。  必要最低限の会話。  アプリのチャットも、盛り上がった話も何もなかったように。  一見冷たそうで、けれど生真面目さが顔に滲み出ているところに好感を持った。  話せば案外煩悩に塗れていた。  それも彼の魅力だと思っていた。  口を開けて笑えば少しだけ吊り上がり気味のその目が、糸になって可愛かった。  マニュアル通りのようなやり取りを終え、あとは住民票を受け取るだけ、と窓口近くの柱でスマホを眺めている時に、その男は呼んだ。  普通番号で呼ぶだろ、と思って、名前好きじゃないってこの間言ったじゃん、と思った。  けれど、呼んだ本人の耳がこれ以上もなく赤くなっていた。  確認してください、と言われて渡された住民票の端に付箋がついていた。  山田大輔、という名前の後に携帯の番号が書かれている。  朱に染めた耳はどうやったって隠せないというのに、男は無表情のまま三三十円になります、と言ったのだった。  これが、来夏と山田の二人の再会だった。  つい最近知った話だ。  珍しく酒に酔った二人が話していた。  山田は、死ぬ直前までこの話しそうなんだけど、とふざけていたが、来夏は、してよ、と笑って言って、来夏となら年取るの全然怖くない、と山田も笑った。 ◆◆◆ 「昨日義父さんが持って来てくれて」 「え、土を?店に?非常識過ぎる」 「いや、ちゃんと綺麗に袋に入ってたし。外回りの途中って言ってた。ついでにシャツ買いに来てさ」 「ちゃんと仕事してんのかなあの人」  山田は本気で嫌そうに言って、腕で額の汗を拭った。  太陽が真っ白に照り付けて、日陰とのコントラストがこれ以上になく鮮明だった。  来夏の住むアパートの部屋は、三部屋並ぶニ階の一番奥にあった。  久しぶりに見た外観にこんなに古い建物だったかと改めて驚く。  隣の二部屋は空き部屋で、先程作業中の来夏達に気付いた一階に住む大家が、あれこれとアドバイスをして行ったくらいなのだから、玄関を開け放ち廊下に新聞紙を広げ作業をしていても特に問題もないのかもしれない。  玄関には蚊取り線香が置かれている。  正面に見える居間の窓も全開にされ、部屋の空気を全て入れ替える気持ち良さがあった。  私の足元が晒され、新聞紙の上に優しく寝かせられ避難させられていた。 普段は決して日に当たらない下腿の太さは生命力の証だと思った。適度な水分を含んでいる事がよくわかる。  随分と健康になったものだ。  直行父さんと由美子母さんの助言のおかげで、つま先から死に腐り落ちていく途中なのにも関わらず、興奮にも似た窒息状態の夜はもう二度と訪れないだろう。  屋根の影が、北の地の夏を惜しむかのような最期の日照りから私を守っていた。  日が翳ると、夜はもう肌寒い。  来夏と山田は、軍手をはめた手を汚しながら私の新しい生き場を整えてくれている。  由美子母さんが入れ替えてくれた場所も大変居心地が良かったが、直行父さんが新しい土を持ってきてくれたのだ。 「そういえばお義父さんが来月のお爺様の命日、良い寿司だから来なさいって」 「良い寿司ってなに」 「良い寿司は良い寿司でしょ」  蝉が一匹近場に止まった。その騒音が二人の声をところどころ遮る。  私は、うつらうつらとしながら二人の会話に耳を傾けた。  なんてことはない会話だ。  いつものように着地しないのはわかりきっている。  それで良い。ずっとそうやって、変わり映えなく。  きっとどうしたって泥濘を張う時があるのだから、何もない時の何にもならない話を重ねてほしいと何故か今、素直に思える。    そうだ。  忘れないように私も話しておくとしよう。  まだ出会って間もない二人が、目の前のいつものスーパーで、炎天下の元最後の一つになるまで売れ残っていた私を、八十円で買った日の事を。

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