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『 』
覚えています。
大作さんが気まぐれに花屋に寄った日の事も、母と記憶を分けた小生の、この細胞に刻まれているのです。
商店街は賑やかで、久々に早く帰った大作さんがシャッターを閉める直前の花屋で見つけた小さな幹。小生の母木。
結婚の木と聞いて決めた鉢植え。
結婚記念日でと言った大作さんの顔は、たとえ今、小生の身体が何億分割されたとしても決して消えません。
直ちゃんは大学生になっていて、若い身体を余すように家に帰らず、お嫁に行った美佳ちゃんが遠くに行ってしまう年だった事、覚えているのです。
広くなった家の隙間を埋めるように買った小木を、アサノさんは霧吹きを使い湿度を保って葉を拭いてくれた事。覚えています。
直ちゃんが恥ずかしがりながら由美子さんを連れて来た日の事も。
大作さんは寡黙な父のフリをしながら、台所に隠れて手を叩いていた事も。
アサノさんが厳しい事を言いつつも、目尻を下げて二人の並ぶ姿を覗いていた事も。
覚えているのです。
小さな鉢で、二人から二人に託された小生。
由美子さんは、昼間の一人の時間を無駄にすることなく、若いお嫁さんらしく家事をして、そのうちお腹が大きくなっていったこと。
赤ん坊だと思っていたのに、すぐに立って歩いて、おしゃべりを始めた子供達。
大ちゃんがいたずらで植えたみかんの種、入学式、誕生日、アイスの取り合い、暇な夏休み、線香花火。秋の夕暮れの美しさ。猛吹雪の冬の日。窓から見える桜の木。メグちゃんと由美子さんの大喧嘩。受験。卒業。就職活動。成人式の振袖。大ちゃんの腕時計。
そして、病院通いが始まった心許なさ。
家族が一人、一人といなくなる寂しさ。
この家の窓辺に母木が並び、家仕舞いを悟った日。
お互いに慰め合うように由美子さんが世話をしてくれた事。
アサノさんの一時退院は、親戚一同時間の都合をつけて、昔の正月のように賑やかになった事。
座敷から漂う線香の匂い。
黒いジャケットを身につけたまま、夜中に一人小生の影に隠れて泣いた直ちゃん。
覚えているのです。
ただいま、と大ちゃんの大きな声が玄関から聞こえました。
由美子さんが顔を出す前に、来夏もいるよ、と知らせたのは、恥ずかしい事をするなよ言うなよ、下着姿なら服を着ろよ、という大ちゃんなりの注意喚起だということを小生は知っています。
ソファに座っていた由美子さんは、あらおかえり二人とも、とにこやかに笑って大ちゃんと八月一日さんを招き入れました。
「八月一日くん、忙しかったんだって?」
玄関から由美子さんの声が聞こえます。
直ちゃんは、八月一日さんが来ると聞き近くのコンビニまで甘いものを買いに行ってしまいました。たんに、自分が食べたかっただけかもしれませんが。
メグちゃんは食卓テーブルで仕事終わりの一杯とでもいうように仕事着のまま既にアルコールを開けていました。
恐縮して照れながら挨拶をした八月一日さんはソファに座らされましたが、窓辺に並んだ大鉢の隙間の細枝に気付きました。
八月一日さんは私達の足元にしゃがみ込み、ここにいると元気もらえそうだね、と小さな葉を撫でたあと大ちゃんに微笑みかけました。
◆
私達に言葉が無くて良かった、と母は葉を揺らしました。
自由に動かせる手足がなくて良かった。
もしそんなものがあったらまずは手始めに母は芽久美を傷付けた男を滅多刺しにでもしているはずです。
そこにこの家の人間の非などは、何一つ関係ないのです。
母と小生の記憶は枝を分け伸び続け、未来永劫消える事はありません。
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