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『山田直行の憂鬱』
大ちゃんの帰宅が続いている山田家でした。
八月一日さんの仕事は佳境も佳境というところらしく、盆が明けたら少し落ち着き、連休を貰える予定との事でした。今朝、大ちゃんが言っていた事です。
「同性婚についてはどうお考えですか?」
大ちゃんの顔が、呆れ切って曲がった事に直ちゃんは気付いたようでした。
ここ十数年、お互いの顔をマジマジと見る事もなかった二人です。
これは仲が悪いとか、顔を合わせるのが気まずいとか、そういうものではありません。
世間話のような会話はありますが、単に込み入った話に発展しないだけで、ごく普通の父と息子です。
そんな数秒の見つめ合いの後、それはそれは大きなため息を一つこぼしてから大ちゃんは口を開きました。
「まぁ、嬉しい人はいるんじゃない?するしないの選択ができるし。パートナーシップって扶養とか税金とかには触れてないし案外ぼんやりしてるところもあるんだよね」
帰って来た途端何を言わせるんだという態度を隠しもせず、サマージャケットを食卓テーブルに引っ掛けると、大ちゃんは直ちゃんが買って来たコンビニスイーツの袋を断りもなく開けました。
半額だったようです。ダイエットばかりしている財布にありがたいと、玄関を潜った直ちゃんが嬉しそうにそう言いましたが誰もいない家に寂しく消えていきました。
母さんは友達とご飯か、と食卓テーブルにある書き置きを声を出し読んでようやく思い出した直ちゃんでした。
大ちゃんの返答は、市役所職員らしい答えなのかもしれません。パートナーシップという制度がどういったものであるのかきちんと把握している人間の返答のように思います。
「君は、したいのか?」
手に持ったコップの中身はサイダーであるのに、お茶を濁しても意味がない、男ならズバンと聞かないとな、と意気込んで聞いたのでしょう。
君、だなんて普段呼び慣れないからか声が裏返りました。
大ちゃんは手に甘味を持ったまま、力任せのように向かいのソファへ腰を下ろしました。
「これから、そうだね、例えばもう少し歳をとった時にパートナーがいて、夫婦と同等に扱える何かが必要だねって意見が合致したら考えはするかも」
特に感情の読めない顔の大ちゃんの、至極真面目な答えに今度は直ちゃんの顔が顰められる番でした。
由美子さんの前では世の中に合わせて、さもアップデートしている中年を気取り、それで?なんて言った直ちゃんですが、どうやら納得のいかない様子です。
「父さんなんか食べたの?」と、大ちゃんは聞きました。
「冷蔵庫のおかずチンして食べた」
答えた直ちゃんの顔が妙に何かを言いた気に歪んでいました。
山田直行、六三歳。
親になり三十六年、大ちゃんの父親になって三十年が経ちます。
「そういうの、全員がしたいとか考えてるって思わない方が良いよ」
息子に冷ややかな指摘をされ、あ、そ。すんませんね。と言って腰を上げ、窓辺にある小生の手先に触れて、母さん水やってんのかい、と誤魔化しの独り言をつぶやきましたが、その唇は突き出ていました。
霧吹きを手に持ち、シュ…と一度だけ弱々しい飛沫を飛ばしたのは完全に手持ち無沙汰だからだろうと思います。
「父さん、弁当箱出しなよ」
大ちゃんの小言が台所から飛んできました。自分の分のお弁当箱を洗っていたのです。
「それくらい自分でやるよ」
「当たり前でしょ。誰が洗うって言ったの」
随分と憎たらしい事を言う背中でした。
スウェットに着替えすっかり寛ぐ体勢の直ちゃんです。
大ちゃんは、八月一日さんにお弁当を届ける為、今朝もまた早いうちに家を出ました。
お弁当箱の回収と宅配と大ちゃんは言いましたが、八月一日さんが心配なのだと山田家の皆は気付いています。
なんだか微妙な空気の中、食卓テーブルに置いてある大ちゃんのスマホが、ブ、と震えました。
あ、と、大ちゃんは呟くと、何も言わずに玄関へ向かいます。しばらくして戻った大ちゃんの手には、こんもりとした袋がぶら下がっていました。
「来夏から。弁当ありがとうって」
大ちゃんは直ちゃんの顔を見ずに、アイスを冷凍庫に詰め始めました。
「ええ?上がって貰いなさいよ」
再びソファと一体化していた直ちゃん。腰を上げずに告げると、大ちゃんは「一回戻るわ」とだけ言って二階へ上がり荷物を持ち風のような速さで家を出ていきました。八月一日さんのお宅へ行くと言う意味だったのでしょう。
取り残された直ちゃんは、ええ、とよくわからない声を漏らしつい今し方そこにいた息子の影を見ていました。
直ちゃんは一度、首を捻りました。
それから腰を上げ冷凍庫を覗きます。
頭を掻いて、まぁね、うん、と何かを納得させ一人頷き、結局は大ちゃんが勝手に広げ一つだけ口に入れた小さな大福を手元に寄せ、テレビのリモコンを片手にぼんやりと画面を眺め始めたのでした。
大ちゃんが家を出て小一時間というところでしょうか。
聞き慣れないエンジン音の数秒後、ただいまぁ、という由美子さんの機嫌の良い声が家中の空気を明るくしました。
既に寝支度を終え肩揉み棒で首の後ろをグリグリとほぐしテレビを眺めていた直ちゃんは、おお、と言って腰を上げます。居間から玄関に向け顔を出し、何か買って来た?とお土産の催促。
それでも、子供じゃないんだから、と呆れる由美子さんの手には紙袋が下がっていました。
早速中身を開けようとした直ちゃんに「明日のパンだよ」と言って手を払う由美子さん。
先日直ちゃんに内緒で買った白いワンピースが似合っていました。
テーブルに出ていた一口大福を見て「また」と注意する由美子さん。
今年春先の健康診断で血糖値を指摘されていた直ちゃん。夜の甘味だけはどうしても止める事ができず、一日一度の至福の時間を楽しみに日々生活しています。
「大輔、八月一日くんとこに行ったよ」と、直ちゃんが言うと「そうなんだ」という返事だけが届きました。
由美子さんはワンピースのまま、疲れた、と直ちゃんに向かい合いソファ座り込みます。
直ちゃんは由美子さんの分の湯呑みを持って、先程と同じ場所に腰を下ろしました。
「美枝ちゃん家、娘さん妊娠したんだって。二人目。二世帯に建て直すって。家」
「へえ、賑やかになるねえ」
つけられたままのテレビからは値上がりの報道が流れていました。このところ嫌でも毎日耳に届いている気がします。
「芳香剤買えるならまだマシか」
由美子さんの呟きに、直ちゃんは特にコメントが無いとでも言うように黙ってテレビを眺めていました。
「日曜、ティシュとか買っておく?」
「そうだね」
直ちゃんの提案にうんうんと頷く由美子さんです。
二人の沈黙の間に、ニュースキャスターが世界情勢を硬い口取りで伝え始めました。
ソファに並びぼんやりとテレビ画面を眺めている中、直ちゃんがぽつりと溢しました。
「あんたは気付いてたの」
「なにを?」と、由美子さんは聞き返しましたが、返事に数秒の間が空いたのは直ちゃんの言葉の意図に気付いている証拠でした。
「その。あれだ。大輔の」
「ああ。八月一日くん?」
「いや。まあそれもだけど」
「ゲイってこと?」
す、と出て来た単語に身構えたのは直ちゃんでした。
「うん」と、直ちゃんが頷き、素直に返事を寄越した事で由美子さんも話始めやすかったのでしょう。
「気付いてたって訳じゃないけど、そうかもしれないなって事はあったよ」
驚きも戸惑いもないその口ぶりで、肩の力が抜けたようにソファに沈みこむ直ちゃん。
「そうなんだ」と、言って天井を見上げます。
小虫が一匹、飛んでいました。
あら、と言って腰を上げ、コンセントに挿さったままの煙の出ない蚊取り線香をセットし始める直ちゃん。
「ほら、去年、一昨年くらい?大輔が結構出かける事多くてさ。なんとなく彼女できたのかなって思ってたんだけど、電話してるの聞いちゃって。偶然ね。そしたらカズヤくんって呼んでてて」
そんな直ちゃんを気にする事なく話を始めた由美子さん。
「友達かもしれないじゃない」
直ちゃんは線香をセットし終えると、ソファに戻り、急須に残ったお茶を淹れ、由美子さんの手前に湯呑みを置きます。続きを催促するように。
「母親の勘ってやつ?なんかさぁ。大輔、彼女ができたら。多分すぐ教えてくれると思ってたんだよね。でも、なんだろう。そうならそうと言って欲しかったって気持ちもあるけど、言いずらかったよなぁって」
ありがと、と小さく言って口をつけたお茶は、もう暖かさもなく生温くなっている事でしょう。
けれど、由美子さんもそんな事は気にしません。
「でも別に僕たちは急かしたりそういうのはしないって決めたじゃない。芽久が宗也くんと別れた時にさ。大輔にだって」
宗也くんというのは、メグちゃんが去年別れた男性の名前です。家族一同、その交際の長さに誰もが結婚すると疑わなかったのです。この件に関しては由美子さんはあまり話をしたくないようでした。同じ性別、女だからこそ、かもしれません。
「言ってないよ。言ってないけど。八月一日くんのことだって母親の勘」
「勘勘って。そればっかり」
「だって本当に勘なんだもん」
由美子さんの小さな苛立ちを感じて「それなら父親の勘ってやつは、随分鈍いもんだなぁ」と直ちゃんは受け流すようにそう言って、腕を組んで、さらに身体を背もたれへと滑らせます。
由美子さんは湯呑みに口を付けたまま、少しだけ顔を顰め「嫌な言い方って言われちゃった。大輔に」と、先日の二人の間の出来事を打ち明けました。
「ええ。そんな事言ったのあいつ」
「私も嫌な言い方したかも」
こと、と由美子さんの湯呑みが座卓に置かれました。膝に肘をついて、両手で頬杖を付きます。
お互いに何かを考えているような無言の時間。
先に口を開いたのは直ちゃんでした。
「僕はもっとさぁ。なんていうか、そういう人って、テレビに出てる人みたいにさぁ。世論に一石を投じるみたいな、風刺で世相を切るみたいな。そういう印象が強くてさ」
「そんな訳ないじゃん」
「八月一日くんと結婚したいんだ、とかさ。そういう熱量みたいなものがあった方がまだこっちも何かしてやれるっていうか」
「遠回しにつまんないって聞こえるけど」
「なんか、ちょうど良い少数派って感じじゃない?マイノリティってやつでしょ?最近よく聞くじゃない」
直ちゃんが首の後ろで手を組んで紡ぐ言葉を、由美子さんは何も言わずに聞いていました。
「まぁそうだね。つまらないって訳じゃないけど」
由美子さんの明け透けな問いかけに、遅れて答えた直ちゃんは、少し複雑そうな顔をしてぽりぽりと頬を掻きました。
「正直でよろしい。これをしんぜよう」
由美子さんは直ちゃんの前に広げられた大福を一つ手に取り、手を出せと目配せをしました。
「僕が買って来たんだけど」
「二人の財産は二人のものなので」
「都合の良い」
様式美とでもいうのでしょうか。小慣れた小ボケを、もぐもぐと口を動かしながら切り捨てる直ちゃんでした。
「私達、何かしなきゃダメなのかな」
「してやりたいのさ。味方になってやりたいのさ」
由美子さんのしかめっ面に、直ちゃんは言います。
「それはわかるけど」
由美子さんは、はぁあ、と大きなため息をつきました。
「結婚とか出産ってさ、結局は家族の始末は家族でしていきましょうねって制度じゃない。それが正しいのかも知れないけどさ。なのに、今世間は子供に迷惑かけないようになんて言うし、老後の資金は何千万必要でとかさ。こんなんなら同じ。結婚してもしなくても子供がいてもいなくても。男も女も。同じだよ。何が違うんだろう」
目には見えないのに耳には届く何かに怒り、不満を持ち首を傾げる由美子さん。らしくない、と言いた気に直ちゃんは眉を寄せました。
「大輔に孫はごめんって言われてさ。私この間パパに言ったでしょ?孫ができても私達の生活は私達の生活をしようねって。パパだって、今の時代大変な事ばっかで、望んでるなら別だけど結婚とか子育てが全てじゃないって」
「なんだかきな臭いしねえ。良い時代になるとはどうしても思えないんだよ」
直ちゃんののんびりとした言葉は、ニュースから流れる報道とリンクしたようでした。
直ちゃんは、しばらく黙った後に口を開きました。テレビに向かっている視線はどこか遠くを見ているような瞳でした。
「僕は大輔が大きくなったらなんてよく考えてた時期があったよ。同僚の息子さんのエピソードを我が家に置き換えてシュミレーションしたりして。大輔があんたにクソババアとか言ったら何て言おうとか考えてたのに、大輔なんてあんたと買い物行ったり、おつかいまで行ってたでしょ」
そう言って、直ちゃんはゆっくりと瞬きをします。
「今の子は珍しくないよ」
由美子さんは背もたれに深く沈み、笑みを浮かべました。
「そうなの?」
「うん。割と」
「職場では野球やらバスケやらサッカーやらの送り迎えで忙しいなんて聞くし。でもうちの子は公民館の将棋の集まりに行くとか言ってるし」
「一時期ハマってたよねえ。かなり。テレビの対局録画してたもんね」
「どこの爺さんかと思ったよね」
「なんか、勝手に大人になっちゃったって感じ」
「僕、メグにも大輔にも何もしてないなって。急に思ってさ」
何度目かわからないため息が、どちらからともなく漏れては消えていきます。
由美子さんも、着けっぱなしのテレビの画面から目を離しませんでした。
「ねえ、大輔さ。連れて来てくれたね。八月一日君のこと。隠さないでさ。うち、古いし、おしゃれでも何でもないのに」
由美子さんは呟くようにそう言うと見慣れた居間の天井を仰ぎ、直ちゃんは何を思ったのか、小生と母木が並んでいるこちらに視線を向けて、何度か瞬きをしました。
それから、ふ、と小さく吹き出し「僕は今十月十五日産まれの赤ん坊が並んだ時の事思い出してた」と、目を細めました。
「ベビーコットにミチミチだったね」と、由美子さんも目を閉じます。
「髪ふっさふさでね。関取みたいだったよね」
「お義母さん、隣の小さい子と間違えたよね」
「あんなにでかいの産んだのにあんたが病室からスタスタ歩いて来たから僕はそっちにもびっくりしたけど」
由美子さんはハハハと大笑いをして、出したらすっきりすんの、と更に笑いを重ねました。
「何もなくてラッキーだっただけ。そう考えたら私達ラッキーだよね。皆健康で。順番にお別れ出来て」
「本当ね」
「糖尿ね。あんたは気をつけないと」
「あんたもね。健康診断行きなさいよ」
「年取ったねえ」
「中身は変わってないのにね」
「八月一日くん、また来てくれるかなぁ」
「来てくれたらいいね」
「来月の義父さんの命日、寿司でも取ろうか。良いやつ」
「そうだね。ケーキも買おう」
「お前が食べたいだけだろ」
「あそこのなんとかカカオのチョコのケーキが良い」
直ちゃんがそう言うと、なんとかカカオはチョコのものしか置いてないの、と由美子さんは笑いました。
「そういえば八月一日くんからアイス貰ったよ」
直ちゃんの一言で、由美子さんの眉がキッと鋭くなります。
「ダメだわ。甘い物買って来ないでって言わないと」
由美子さんは冷凍庫を開けて「もう!こんなに!」と大きな声を上げました。
小生は、ずっと忘れません。
部屋に溶けていく、この家に染み込んだ言葉達を。
冷房から噴き出る風が、母木のてっぺんの葉を揺らしていました。
直ちゃんは「上の葉っぱ枯れそうだな」と言って、鉢を少しだけずらしました。
絶対に忘れません。
そういう小さな優しさも。
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