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第1話「今晩泊めてくれる?」
まいったな。
ふう、と小さくため息をついて、どう説明したら分かってくれるだろうか、と竹内透 は心の中で首をひねっていた。
「この辺のお店はぼったくりも多いって言うし、その点僕の泊まってるホテルなら安心だよ。一杯奢るから。飲まないならご飯でもソフトドリンクでもいいし。君、時間あるんだよね?」
屈託のない笑顔でそう言われると、まるで断っている自分の方が悪者みたいじゃないか。最初に「チョットお時間いいですカ」と聞かれたときに「はい」とばか正直に答えてしまったのがそもそもの間違いだった。道を聞かれることはよくあるが、人生で初めて訪れた歓楽街でも聞かれるとは思わなかった。だってパーカーにジーンズといういかにも貧乏大学生風の俺は、どう見ても夜の街からは浮いている。でもきっと、この外国人観光客からはちゃんと日本人に見えるのだろうと、聞かれるままに彼の持つ携帯をのぞきこみ、たぶんこの道をまっすぐ行けば右手にあると思いますよ、と伝えた。今思えばマップとGPSがある時点で彼は自力でたどり着けたはずだ。そこに思い至らなかったのは、たどたどしい日本語と彫りの深い顔立ちといった典型的な記号に思考が引っ張られてしまったから。ステレオタイプにとらわれないように気をつけているつもりだったのにな。頭をかきながら、急に流暢になったクリスと名乗るこの白人男性から一歩遠ざかる。それを許さないと言うように肩をぎゅっと抱かれ、俺は眉間にしわをよせた。
「ね、行こうよ。すぐそこなんだ」
「お店に行く途中じゃなかったんですか」
「場所を知りたかっただけで、今から行くわけじゃないんだ。何もしないから、ね?」
何もしないからなどとわざわざ言うのは、これからあなたに危害を加えますと宣言しているようなものだ。
「すみません。行きたくないので放してください」
はっきりと嫌な顔をして腕をふりほどいたのに、クリスは全くひるまない。それどころかぐっと腕をつかんで大丈夫大丈夫と強引に連れていこうとする。これはもう、助けてと叫ぶか、警察呼びますよと脅すしかない。あー、もう、たった今ここに来たばっかりなのに。そのとき。
「お兄さん、俺のつれに何か用?」
喧騒を静かに切り開く刃物みたいな低い声が、鼓膜を震わせた。驚いた俺とクリスが振り返るのとほとんど同時に、その声の主が俺たち二人の間に割り込んできた。まるで親しい友人にするように肩を抱かれ、一体誰だろう、と謎の男の横顔を見上げた途端、凍りつく。
ヤバいかも。本当のヤバいやつ来たかも。
耳たぶにこれでもかとじゃらじゃらつけられたシルバーのピアス。軟骨にもいくつか。さらりと垂れたサイドヘアの下や、一瞬影かと思った耳周りから首元の黒さは全て、タトゥーだった。その切れ長の目がうっすら緩み、「これから俺ら遊びに行くんだよな」と俺に同意を求める。小鼻のごく小さな点が光を反射し、そんなとこにもピアスがあるのか、痛くないのかなと思ってただただ彼の放つ存在感に圧倒されていると、肩からすっと長い腕がほどかれた。
「大丈夫? もう行ったみたい」
「あ」
気づいたらクリスはいなくなっていた。もしかしてこの人、助けてくれたのか。
「ここで声かけてくる人は全員ガン無視した方がいいよ。知り合いじゃないなら」
前髪からのぞく彼の目を、まっすぐ見上げた。やっぱりちょっと怖い。
「あ、ありがとうございます。助かりました」
「駅まで行くなら俺も帰りだから、一緒に行く? 慣れてないでしょ、この辺」
この発言で相手の親切を確信し、そそくさと財布を出した。
「何やってんの」
「いや、お礼したくて……あ、すみません。二千円しかなかった」
「いらないけど……。じゃあコーヒーでも奢って」
どんなぼったくり店に連れて行かれるのかと再び緊張したが、男は目の前のファーストフード店へ入っていく。ああ、よかった。
黒っぽい液体の入った紙コップが二つ。レジ横に置いてある薄いプラスチックのふたをきっちり閉めてからそれらをつかみ、彼の背中を追いかけた。二階席の窓に面したカウンターに並んで座ると、彼は髪を耳にかけながら聞いてきた。
「バイト帰りとか?」
「いや、あの……ちょっとした出来心で来たんですけど……」
「出来心……」
噛みしめるように、彼がリピートする。それ以上質問する気はないらしく、黙って見つめられてしまう。とにかく何か話さなければ、と思った。
「人間観察しようと思って」
特別驚いた様子もなく、そうなんだ、とだけ返ってきた。
「せめてググってから来ればよかったです。目的地とかもちゃんと決めて」
物珍しさについゆっくり歩いてしまったのがいけなかった。メインの通りを歩き始めてたったの数分でクリスとかいう変な奴にからまれてしまった。
でも、と、透は考える。行き交う人々をここから見下ろすだけでも、けっこう面白い。背中に楽器を背負った蛍光ペンみたいな髪色の若者。コンセプトが分からないけどとにかく目を引くコンセプトカフェの女の子たち。夜なのに帽子やサングラスの人。年齢不詳、性別不詳の人々。おもちゃ箱をひっくり返したように騒がしく、まるで秩序のないこの世界。
「俺学生なんですけど、こういう街では社会で肩身が狭い思いをしている人たちが、ある意味のびのび生きているっていう話を同じ研究室の人が発表してたんです、今日。それで、自分の目で見てみたくて。さっきまでは無計画に動いた自分を後悔してたんですけど、今は来てよかったかもって思います」
もう二度と会わない人だからだろうか。つい安心して自分の話をしてしまった。
「大学生か」
「院生です」
このあとに続く質問は「どこの大学?」が一番多くて、「頭いい」というのがよく聞くコメントなのだが、この人はそのどちらとも違うことを言った。
「へえ、そっか。楽しい?」
吸い込まれそうに淡いグリーンの瞳に映り込んでいるぼんやりした自分の輪郭を見つめながら、うなずく。昼間みたいに明るいこの場所で見ると、頭の先からつま先まで真っ黒だと思っていた彼のまとう黒に、いろいろな深さがあることに気づく。髪の毛はどこか青みがかっているし、プルオーバーは染めたてみたいな漆黒だし、ブラックジーンズは色褪せている。爪にも甲虫の背中のように光の粒子を詰め込んだ黒が塗られていて、タトゥーだらけの指には殴られたら痛そうなごつごつしたリングがいくつもはめられている。この人はどの角度から撮影しても、どこを切り取っても、物語の一部みたいだ。現代物のヴァンパイア。
「仕事帰りですか?」
「うん、この近くのスタジオで働いてて」
「もしかしてモデルさんですか」
「ふはっ」
なわけない、と噴き出した彼から毒々しさが消え、ちょっと見とれた。今まで会ったことのないタイプだ。というか、この人がどんな人かなんて全く知らないんだけど。
めがねが曇るのを避けるために、しばらく置いていたコーヒーを喉に流し込む。
「う……」
苦くて酸っぱくて、信じられないほど薄い。今この瞬間、このまずさだけが現実なんじゃないかという気がしてくる。
「あの、やっぱり数百円のコーヒーじゃお礼にならないんで、バイト代入ったら現金をお渡ししたいです。もしそれが失礼であれば、何か改めてご馳走させていただくか、それか、えっと……、北海道のカニとかお送りしてもよろしいですか?」
少しの間があってから、相手はおかしそうに笑った。
「カニかあ……、うん、カニよりふぐが好き」
「ふ、ふぐですか……」
ふぐはちょっと分からない。あれはお歳暮みたいにネットで調達できるものなのか? 考え込んでいると、「冗談だよ」と笑われた。
「でも、お礼はどうすれば……」
じゃあさ、とグリーンの瞳が近づいてきた。
「今晩泊めてくれる?」
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