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第2話嘘つきは泥沼のはじまり
外に出るとぽつぽつとアスファルトに濃い点が落ち始め、電車に乗る頃には雨の匂いに包まれていた。俺を助けてくれた男は雨宮という。自分から多くを語らない彼を尊重した結果、車内ではその程度の情報しか得られなかったけれど、不思議と不安はなかった。
俺にはハウスメイトが二人いること、リフォーム済みではあるものの築年数の古い一軒家なので最近のアパートみたいに快適ではないということを伝えたところで、最寄り駅に着く。
見上げたからといって止むわけでもない雨に立ち止まっていると、ばさりと視界を黒いものが覆う。
「ないよりはまし」
雨宮の折り畳み傘の下で身を寄せあいながら、濡れた住宅街を歩く。しっとりとした彼の匂いが、雨に混ざってしみこんだ。ようやく玄関先にたどり着いたときには、二人とも乾いた場所の方が少ないくらいだった。水のしたたる髪をかきあげて、「傘意味なかったね」と雨宮が笑った。この人は雨が似合う。
翌朝。キッチンというには年季が入りすぎているので、俺はここを台所と呼んでいる。棚から白い皿を二枚出し、冷蔵庫から食パンを二枚取り出す。雨宮は静かに椅子を引き、腰掛けた。朝の光にさらされている彼は、なんだか蒸発してしまいそうだ。気だるそうに細められた目。細い首筋に描かれたいく筋もの黒いラインは一体どこまで伸びているのだろうとえり首をちらっと見たとき、あ、と雨宮が声をあげた。
「ちょっと見せて」
彼は立ち上がると息がかかりそうなくらい間近まで近づいてきて、きれいなヘーゼル、とひとりごとのようにつぶやく。しばらく視線をからみあわせたが、彼の瞳孔は開いたままでまばたきすらしない。あまりに長いこと見つめられて根負けした俺は、視線を下へずらし、気づかれないようにそっと息をはいた。片手に持っていたマーガリンが、自分の熱で溶けてしまうところだった。
「眩しかった?」
その質問は想定外で、俺は思わず吹き出してから、大丈夫ですと言った。
薄い色素の理由を詮索されるのが苦手で、普段はダークブラウンのコンタクトレンズをつけている。だが目の色の話で一瞬身構えたのに、それ以上は踏み込まれなかった。
「雨宮さんもコンタクトですか?」
じじじ、とトースターのダイヤルを回しながら訊ねる、というより確認した。あの人工的なグリーンの薄膜は昨日の夜に取り払われたらしく、今彼の瞳は夜のような黒だ。
「うん、俺もカラコン。視力はいいよ」
緑も黒も似合いますね、と正直な感想を言うと、きみは裸眼の方がいいよ、とこれまた正直な感想が返ってきた。抑揚のないトーンで。
「めがねは?」
「あれは伊達です。俺も視力よくて、昨日のコンタクトもめがねも度数入ってないんです」
めがねとコンタクトの二重装備で、一般的な学生に擬態している。そんなものなくたって正真正銘の大学院生なのだが、この家を一歩出れば、それらのアイテムがないとどこにも馴染めないような不安がある。お守りのようなものだ。
玄関扉が開く音がした。おそらく二階の部屋の住人、南斗 がコンビニの深夜バイトから帰ってきたのだろう。階段を数段かけ上がった足音は、途中で引き返して台所へと入ってきた。
「おは……、おい透、てめぇまた生き物拾ってきたとか言わねえよな?」
雨宮が視界に入った途端に南斗はそう言ってテーブルに近づいてきた。南斗を見上げた雨宮の咀嚼が、一瞬止まる。それからまた、もそもそとトーストを食べ始めたので、雨宮さんは肝が据わっている、と俺は感心した。
丸みを帯びたシルバーのショートヘア、オーバーサイズのカラフルなパーカー、ハーフパンツから伸びる細い足。今日の南斗はジェンダーのちょうど真ん中をいくファッションだ。顔は女子に言わせると女子より女子らしい。背丈も百六十あまり。見た目だけでは、どっちともつかず困惑してしまう。
「雨宮さん、こいつは二階に住んでる南斗です。もし雨宮さんがここに住むことになったらこいつが真上で夜中はマジでうるさいので、昼間は音楽とか大音量で流したり天井にボールぶつけたりして嫌がらせすることをお勧めします」
ちらりと南斗を見た雨宮は、どうも、と言い、南斗はポケットに手をつっこんだまま「俺夜ほとんど家にいねえんだから一番静かだろうが」とぼやいた。
「雨宮さんは家ないんだってさ。うち一部屋余ってるし、これから上杉さんに入居可能か聞いてみようと思って」
南斗は雑に椅子を引き、大股を開いてどかりと座った。こいつは生活音がうるさい。あと声と存在も。
上杉というのは、裏の離れに住んでいる大家だ。この家の貸し出しに賃貸業者を介することはなく、主に知人の紹介で訪れる希望者の中から彼女が選ぶ。
「この人なら秒殺だろ」
俺の皿からミニトマトをつまもうとした南斗の手を払って、「秒殺って、即入居させてもらえるってこと?」と翻訳した。南斗の言葉は分かりにくい。
「そ。だって顔面力えぐくね?」
「南斗、日本語でしゃべって」
「分かれよ院生。俺前から思ってたけど、上杉さんは入居者を顔で決めてんだろ。雨宮さんは絶対いけるよ、おめでとっす」
「そんなわけないだろ」
「透、お前くそ失礼」
「いや雨宮さんの顔がだめって意味じゃなくて、顔の好みで決めてんだとしたら政宗 は……」
「政宗はくそイケメンだろうが。あんだけウインクかましてんのに」
「何その雑なイケメン定義。そのゆるい枠からすら外れた俺とジェイクはどうなんの」
「は? ふざけんな。お前はハーフ代表だし、ジェイクはオージービーフ代表みてえなツラしてんだろ。鏡見てこいや。……あざすっ」
雨宮が無言で差し出したミニトマトが、南斗の口に入っていく。近所のスーパーで一袋百五十円で売られていたそれを、トーストと一緒に三つずつそれぞれの皿に乗せておいた。雨宮さん、もしかしてトマトが苦手だったのか。
「俺は典型的なハーフじゃないし、ジェイクは牛じゃない」
欠けたマグカップに注いだ牛乳に伸びてきた南斗の手をぱちんとはたき、がぶがぶと飲んだ。
「雨宮さんって、仕事アーティスト系?」
南斗の問いに、そんな感じ、と雨宮は答える。
「やっぱりな。俺と一緒の匂いするし」
なぜかふんぞり返った南斗に、一緒にすんなよと思う。南斗はバンドのボーカル担当で、曲も作っているらしい。週に一度はギグがあるが、本業はフリーターだ。アーティストと呼ぶには不安定すぎる。
「ここ、家賃は高くないけど、女の子連れてくんのは禁止だよ。大丈夫そ?」
「大丈夫。今フリーだから」
そう言って立ち上がると、雨宮は食べ終わった食器を片付け始める。
「あー、帰る家ないって、もしかして相手に追い出された的な?」
「いや、逃げてきた」
「こわっ」
南斗があっはっは、と手を叩いて爆笑した。今知り合ったばかりの人に、よくここまで無神経にからめるな、こいつは。
「あー、雨宮さんおもろ。で、どんなクズだったの?」
「三度の飯より浮気が好きだったよ」
「リアルにクズかよ。そいつ百回死んだ方がいいね」
そこだけは南斗に全面同意だ。いや、本当に知りもしない人に死んでほしいわけじゃないけど。
再び扉が開いて、ジェイクが顔を出す。彼がちょっと屈んでいるのは、この昔ながらの家屋では部屋に出入りする度に頭をぶつけてしまうからだ。そういえば、雨宮さんも昨日俺の部屋に入るとき、おでこをさすっていた。
「おはようござ……あれ? 透は今度は人を拾ってきたんですか?」
「ははっ、ジェイクも俺と同じこと言いやがった。雨宮さんっていう、今日から透の隣の部屋に住む人。仲良くしろよ」
「南斗、まだ決まったわけじゃ……」
「絶対いけるって」
「初めまして雨宮さん。ジェイクと申します。オーストラリアから来た留学生です。趣味はアニメ、特技もアニメです。どうぞよろしくお願いします」
一番日本人らしい挨拶をしたジェイクが深々と頭を下げ、それにつられて洗い物を一旦置いた雨宮も振り返って頭を下げる。すれ違う隙間もない台所に男が四人。急に室温が上がった気がする。コーヒーはいかがですか、と雨宮に話しかけるジェイクを残し、南斗が出ていく。
この家に住んで三年以上になる。南斗もジェイクも俺が入る前からここにいて、隣の部屋は一年近く空いているので、三人暮らしが日常になっていた。見慣れた景色の中に、全身ブラックの静かな大人。下手なフォトショで無理やりこの雑多な生活に貼り付けられたような雨宮は、それでも何の迷いもなく「じゃあここに住まわせてもらおうかな」と言ったのだ、今朝。まだハウスメイトとも会ってないし、部屋だって見る前だった。まるでコーヒーの注文でもするように気軽に決断が行われて、俺はすこし驚いた。
「透、僕の牛乳がありません。何か知っていますか?」
「南斗が全部飲んだ」
「賞味期限は先月でしたけどね」
「うそっ……」
思わず口を押さえると、肩に大きな手のひらがぽん、とのせられた。
「透、嘘つきは泥沼の始まりですよ」
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