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第3話 まともな人は男を拾わない
玄関を上がって右が俺の部屋、その隣がずっと空いていた八畳間。大学から帰ったときには物音がしていたので、きっと雨宮がいるのだろう。
薄っぺらい茶色の扉を二回ノックする。
「雨宮さん、お風呂空きましたけど」
「入って」
扉を開けるともうすでに雨宮の空間ができあがっていた。壁一面に雑然と貼られた絵、物を詰め込まれたスチール製の戸棚、あちこちの間接照明と干し草のような独特の匂い。思ったよりずっと物にあふれている。それをじっくり眺める間もなく、助けて、と椅子に座った彼が自分の膝を指差した。
「あ、政宗 だ」
「ああ、この子が政宗か」
雨宮の長い指がふわふわとした政宗の黒い毛の間を通っていく。政宗は目を細めてにゃあ、と気持ちよさそうに鳴いた。
「掃き出し窓を開けたら飛び込んできて、ここから動かないの。そろそろどいてほしいんだけど」
デスクの上にはスケッチブックと鉛筆が置かれている。細い線がいくつも交差するその絵はほんの描き出しだろうが、その一本一本に必然性があるように見える。何かすごいことが、これから始まるような。
「おいで政宗」
手を伸ばすと、反抗するように身をよじり、政宗は自ら膝を降りた。
「雨宮さんすごいですね。政宗はあんまり人に触られるの好きじゃないんですよ」
「俺仲間だと思われてんのかも」
黒い髪。黒い毛。ぱっと見、人好きしない雰囲気。似ているかもしれない。
「政宗はここんちの猫なの?」
「上杉さんの猫です。俺が拾ってきたんですけど」
「だから今朝みんなからまた拾ってきたって言われてたのか」
「そうです」
政宗を拾ったときも、昨日と同じようにひどい雨が降っていた。そして昨日と同じように傘を持っていなかった俺は、家へと走っていた。近道と称して近所の公園を突っ切ったのは偶然で、政宗の消え入りそうな鳴き声を聞き逃さなかったのは奇跡だろう。遊具の下で震えていたその黒い塊は今の半分ほどの体重しかなく、片目はつぶれていた。それを湿った自分の上着に包んで連れ帰った。餌をやったり風呂に入れたりすると、政宗は三日で見違えるほど丸くてやわらかくなった。
「あの、これ全部雨宮さんが描いたんですか?」
壁の絵を見つめる。複雑なシンボル、写真みたいに実写的なカラス、色鮮やかなスカルに牡丹。色も大きさもタッチもばらばらなそれらは、ざっと二十枚はある。そこに規則性はあるようでない。だが、どれも静かに息をひそめ、闇が深まるのを待っているような臨場感がある。
「そう」
「もしかしてタトゥーのデザインですか」
「うん」
「すごい……」
「すごくないよ、まだ。誰かの身体に彫って初めて完成するものだから。そこから年月を経て人間と一緒に熟成して、一体化してく。ここに貼ってあるのはまだ彫ってないデザインだから、冷蔵庫に親が貼りつけた幼稚園児の絵みたいなものだよ」
「楽しいですか?」
昨日自分がされた質問をしてみると、好きだよ、と返ってきた。彼の声がどことなく甘くて、心臓が跳ねた。
「もう十年以上彫ってるからね。好きな仕事じゃなきゃこんなに続かない。透くんは?」
質問の全容がつかめなくて、一瞬考えた。自分が長いこと続けてきたものがあるかを聞かれたのか、仕事(バイト)について聞かれたのか、それとももっとざっくり毎日何をしているのかを聞かれたのか。いや、たぶんそのどれでもないし、でも、どれでもいい。彼は俺が自分のことを話しやすいようにと、どうとでもとれる質問を投げたのかもしれない。
「今大学院の一年目です。ずっと子どものころからぼんやり考えてたことがあって、それを研究してるんですけど」
畳の上に腰を下ろすと、雨宮も椅子から降りた。彼は向かい合わずに隣にあぐらをかいたので、俺のガードはさらに緩んだ。
「俺、生まれたときから母親だけで、でも父親はたぶん日本人じゃないんです。母親に聞いてもはっきり答えないし、別にDNA鑑定したいほど生物学的ルーツが気になるわけでもないんですけど。田舎で育って、他に俺みたいな人種が混ざった人間も外国人もいなくて、いじめとかはなかったけど、ずっと疎外感があって……」
部屋の影にひそんでいた政宗が再び雨宮の膝の上で丸くなった。墨だらけの指が毛皮の上を丁寧に流れていく。
「たとえば英語しゃべってって無茶ぶりされて、できないって言うとがっかりされたり、髪の毛黒く染めてきてって学校の先生に言われたり、初対面の人にお父さんどこの人って聞かれたり」
周りと少しでも違うことをすると、「やっぱ透は外人だなー」と言われた。
そうじゃないのに。
俺の人生に父親が存在したことは一度もないのに、彼らが納得できないことは全て、いもしないそいつのせいにされる。
「東京は透くんみたいな子、そんなに珍しくないけどね」
「そう思って勉強して、こっちの大学来たんですけど、一言目に『なに人?』って聞いてくるような人はいますね、やっぱり。そういう時の小さい引っかかりを共有する仲間が欲しいとか、ましてや俺が何者なのかを誰かに理解してほしいとか、外に向かって働きかけたい気持ちはないんです。自分に対する違和感を、どう処理すれば楽になるのかを知りたいんです」
どこに行っても浮いている気がして、それが生活の一部になっている。
「違和感……。透くんはカラコンしてる方が違和感あるけど」
「え、そうですか? 初めて言われました」
「うん、目の色と雰囲気が合ってる、すごく」
今日は裸眼だ。家ではカラコンもめがねもしない。
「家では頑張らないんだね」
「そうなるんですかね? ジェイクや南斗相手に自分をとりつくろってもって感じかなあ。ここでは俺が一番まともだし」
雨宮が、「まともな人は街で男を拾ってきたりしないよ」と笑った。
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