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第4話 「あとで俺の部屋においで」

居間の掃き出し窓を開け、縁側に座った。小さな庭にはもみじの木、その向こうに上杉の離れがある。ガーデンライトにぼんやりと浮かぶ緑のぎざぎざ。片手に持っていたカップに口をつけると、唇の内側が引っかかった。カップは山ほどあるのに、いつもかけた物を手に取ってしまう。気づいたときは危ないから捨てようと思うけれど、飲み終わると忘れてしまう。洗って、すすいで、拭きとるころにはもう明日の授業のことなんかを考えている。また棚に戻して、次の日にそれにお茶を淹れてしまう。その繰り返し。  すぐ後ろでカラカラと音がして振り返ると、カップ麺を持った雨宮が立っていた。ハーフジップを胸元まで下ろし、ゆるいスウェットパンツを履いている。どちらも黒で、もしかしたら部屋着なのかもしれないけど、そのシルエットやあちこちに光るシルバーアクセサリーのせいで、やっぱりファッションスナップから飛び出してきた人のように見える。 「晩飯ですか?」 「夜食、かな。晩飯はスタジオでちょっと食ったし」 「いい匂い」  久しぶりに嗅いだ人工的な豚骨の香りは、それだけで舌の上に味や食感まで思いおこさせる。 「ひとくち食べる?」 「いいんですか」  割り箸が湯気を立てた黄色の麺を持ち上げる。ラーメンというのは、夜の十時を過ぎた途端、魅力的になる魔物だ。雨宮の赤い唇から、ふうー、ふうー、と息が吹きかけられ、焦れながら待った。今日はめがねをかけていないから曇るのを心配しなくていい。 「いただきます」  ぱくりと食らいついてから、どうしよう、とかんがえた。実は麺をすするのが苦手だ。す、す、と何度か吸ってみたがたいして入ってこない。これが自分のだったら歯で噛みちぎってしまうのだが、これから雨宮が残りを食べるのだからそうはいかない。口を細めて必死ですすっていると、くすくすと笑われた。 「ラーメン食べるの初めての人?」 「よく言われます。ジェイクの方が食べるのうまい。ラーメン好きなんですけど」 「外でカップ麺食べるとおいしいよね」 「キャンプで作ったカレーがうまいのと似てますね」  少し丸まった背中。きれいな箸使い。すっきりとした頬の内側へと、抵抗なく吸い上げられる麺。背徳の味がする、と微笑む雨宮の唇は濡れている。なぜだか見てはいけない気がして、持っていたお茶の表面に視線を落とした。 「雨宮さん、指にもタトゥーあるんですね」 「うん。これ、ファーストタトゥー」  彼は器用に左薬指だけを折りまげて見せた。指の根元にくるりと一周、太い線と細い線がある。他の指や手の甲にあるタトゥーよりも少しぼやけた黒。これが、初めて雨宮さんが身体に刺した針のあと……。 「自分で入れたんだよ、中学んとき」 「自分で⁉︎」  声が裏返ってしまったが、雨宮がふっと笑ったのは、たぶん俺についてじゃなくて自分の過去についてだ。 「俺の中学、進学校で厳しくてさ。目立たないとこにした。ピアスは校則違反だったけど、墨はそもそも校則にすらなかったからセーフでしょ、とか思いながら」 「雨宮さんが……?」  ピアスもタトゥーもない雨宮を想像してみる。髪も今よりきっと短くて、背も低くて、制服を着て。それはもう別人だ。 「そう、雨宮さんが」  おかしそうに口角をあげる彼には、やっぱりタトゥーがよく似合っている。 「なんで彫ろうと思ったんですか?」 「そのころ自分が周りと違うってはっきり気づいちゃったんだよね。それで学校や社会に弾かれる前に自分からその枠を出ていってやろうと」  雨宮さんは周りに合わせないことを選んだのか。誰にも自分をねじ曲げさせないと、自らに刻んだのだ。 「今思えばただの反抗期だけどね」 「反抗期かあ。俺、なかったんですよね。中高は勉強ばっかしてたし、親も仕事ばっかしてて、気づいたら大人になってました。俺も何か反社会的なことやってみればよかったのかな」 「今からでもやってみる?」 「まずその熱量がないです。自己主張とか苦手だし。雨宮さんはタトゥー入れてよかったですか?」 「うん。当時の俺には目に見える他人との違いが必要だったし。でも十八でこの仕事についてからはタトゥーなんて珍しくなくなって、彫っても彫っても他人との違いになんかならなかった。肘に蜘蛛の巣、背中に竜、腕にトライバル、指にレタリング、そういうありきたりなタトゥーは何百も見てきたし、流行り物も人とかぶる。彫り師もデザインも皮膚も違うから、全く同じタトゥーはひとつとしてないんだけど、俺はタトゥーに縁のない人からも他の誰とも違うってことを見た瞬間に感じ取ってもらえるような身体にしたかったんだよね」 「成功してると思います、それ」  ありがとう、と言ってから、雨宮はラーメンの汁を少し飲んだ。この人は食べ方がきれいなのに、食べるのが早い。 「でも人と張り合うもんじゃないなって気づいて、途中からは自分のためだけに入れるようになった。単純に、好きだから、かっこいいから、それだけ」  小さな蛇が絡み付いた人差し指。指関節の間に刻まれた上品なアルファベット。手の甲にはまじないのような模様。筋の浮き出た手には自分よりも低い温度の血が流れていて、まっすぐにのびた器用そうな指は今日も誰かの肌に消えない決心を描いてきたのだ。 「確かにかっこいいですね」  タトゥーなんて入れている人、SNSでしか見たことがない。ファッションとして流行っていることは知っているが、自分とは接点がなかった。 「ありがとう。ていうかさ……」  困ったように微笑んでから、雨宮は「透くんって結構触ってくるよね」と言った。 「あっ、す、すみませんっ。なんかつい珍しくて」  それまで両手でつかんでいた雨宮の手を放したが、いいよ、と今度は逆に彼の方から指を絡めてきた。トーストくらいしか作ることのできないプレーンな俺の手に比べると、雨宮さんの手はずっと雄弁で、有能だ。 「もっと見たい?」 「見たいです」 「じゃああとで俺の部屋においで」と雨宮が言い終わる前に、後ろの戸が開く。 「あ、いたいた雨宮さん。俺タトゥー彫ってほしいんだけど」  南斗《みなと》だ。ライダースジャケットに、たっぷりしたダメージジーンズ。ビビッドなピンクのヘッドフォンを首に引っ掛けて、大きな瞳を輝かせている。 「どんな?」  聞きながら、雨宮が腰をずらし、ぴたりと俺に寄り添った。雨宮がカップ麺の容器と俺のマグカップを足元へどけると、そこへ南斗が股を開いてしゃがみ込む。これで手にたばこでも持たせたら、完全に田舎のヤンキーだ。 「ここらへんにかっけえやつを」  二の腕の内側をつかむ南斗の声を脳内でオフにすると「ここのお肉がほんとやだ」と学食で友達と話している女子大生みたいに見えなくもない。まあほとんどの女の子はうんこ座りはしないんだけど。南斗のピンク色の唇から、般若だの阿修羅だの天上天下唯我独尊だのという言葉が出てくることを残念に思うのは、見た目から勝手に中身を想像する他人のエゴだ。  この家に住んでいると、こんなふうに自分の思い込みや身勝手な期待に気付く瞬間がある。これを積み重ねていけばいつか、無意識に誰かを傷つけてしまう人のことも、許せるようになったりする。と思うのは、自分を過大評価しすぎか。 「普段は見えねえとこに彫るのもありかなと思うんだけど、痛そうじゃん。ちんことか」 「ひっ!」  俺は震え上がった。雨宮が、大丈夫だよとにっこりして肩を抱いてくる。大丈夫なわけあるか。 「どっかの国の人がちんこにタトゥー入れて、勃起が止まんなくなったらしい。まじうけるよな、あっはっはっ」 「それ知ってる。けっこう昔の話だけどね」 「雨宮さん、誰かのちんこに彫ったことあんの?」 「内緒」 「うっわ、それってイエスじゃね? 知りてー、まじ知りてー、何彫ったのか」 「南斗がちんこに彫りたいなら俺がやってもいいよ」 「いや、ここだけの話、俺痛みに弱えんだよガチで」 「二の腕の内側もまあまあ痛いかも……あ、こんばんは」  にゃあ、と鳴きながら政宗が雨宮の足もとに擦り寄っていく。カップ麺の容器が倒れたらスープがこぼれるなと思って見ていたが、政宗のしなやかな足取りは雨宮以外には何ひとつ触れなかった。 「雨宮さん、タトゥー見せてくんね?」 「じゃあ」  地面から政宗をすくいあげて膝にのせると、雨宮は右腕をまくった。手首から上が真っ黒に塗りつぶされているように見えたが、よく見ると細い線や濃淡がある。 「仲間の練習台でけっこういろんなのをごちゃごちゃ入れてたんだけど、カバーアップしてもらった」 「へー、そんなんもできんのか。てか、耳の軟骨に墨入れるとか痛くなかった? こことか」  南斗が触れようとすると、「こら、くすぐったい」と雨宮は抵抗した。 「悪い悪い。なあ、雨宮さんって全身入れてんの?」 「全身じゃないけど、背中とか胸も入ってるよ」 「超見てえ!」 「ここじゃ寒いし、また今度ね。そろそろ入ろっかな」  雨宮さんはもしかしたら、誰にでもタトゥーを見せたいわけじゃないのかもしれない。世間に自分が何者かを知らしめるために入れたタトゥーはいつしか、自分のためのタトゥーに変わっていった。  地面に下ろされて不満げに鳴いた政宗。片目が見えていなくても、彼は夜の世界を迷いなく歩いていく。

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