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第19話 最終話 雨の向こう側へ
だ円形の水滴が、ガラスをつるりと滑っていく。
掃き出し窓の前の黒い毛玉。クッションよりは平べったいその塊は、よく見るとわずかに上下している。政宗が雨の日に特によく眠るのは、自然の摂理に逆らわないからだと思う。外に出れば綺麗な毛並みが台無しになるし、追いかけるべき虫も小鳥も、今は姿をひそめている。
三角の耳がぴくりと動き、居間へ雨宮が入ってきた。
「もうすぐ出るよ」
言いながら彼は政宗の横へ腰を下ろした。ネイビーのカーディガンに、俺から奪ったままの黒縁めがね。休日の雨宮さんの、黒以外の装いは目をひく。落ち着いた色味と白い肌に映える模様が呼応し、彼の人としての奥行きが垣間見えるようだ。アクセサリーのついた長い指が政宗の毛の中に埋まる。ぐにゃりと身体を伸ばし、政宗は喉を鳴らした。
携帯を取り出し、シャッターを切る。
「盗撮?」
くすりと笑う雨宮に、今撮ったばかりの写真を見せた。次の瞬間、勝手にどんどん画面をスワイプされる。
「覗きやめてくださいっ」
「でもこれ浮気の証拠写真じゃん」
「違うって」
確かに俺の携帯には、政宗の写真が多い。待ち受けも政宗だ。
「猫好きなだけです」
「今度の家はペット可だよ。また猫拾う?」
「まあ、人間拾ってくるよりましですよね」
自虐を込めて笑うと、さっきまで政宗を撫でていた手が俺の横髪をすく。
「拾ってくれてありがとう」
その声が政宗の代弁なのか雨宮自身の言葉なのかは考える間もなく、耳もとにあった手は後頭部に流れ、引き寄せられる。
「あの、」
「ん?」
近い。とても近い。何か言わなきゃ、キスされる。
「自分がおせっかいでよかったって初めて思いました。雨宮さんに撫でてもらえる政宗は幸せだし、雨宮さんも政宗のこと好きだし、俺たまにはいいことするじゃんって」
「たまには? 透のそういうちょっと卑屈なところも、なぜか好き」
雨宮の顔がぼやけ、息がふれあう。
「政宗が見てますけど……」
「うん」
うんって何だ。それぐらいじゃあ止まらないってことか。
薄い唇がそっと触れ、結局俺は抵抗しなかった。雨宮のこういう情熱的な一面は、付き合うまで予想していなかった。隙さえあれば触れてくる。これもまた、引っ越しを決めた一因ではある。
最初は、雨宮だけが引っ越すのだと思っていた。
__透がここにいるから俺もここにいるだけで、実はシェアハウスは苦手で。
結稀の家から帰った翌日だった。いきなりの告白に驚きつつも、上杉さんの伊豆土産、白餡饅頭を頬張りなら「引っ越すんなら、内見一緒に行ってもいいですか?」と聞いた。雨宮は首をかしげ、「もちろん。一緒に住むんだから」と言い、俺はさらに驚いた。俺の驚きに今度は雨宮が驚いたようで、ため息をつかれた。
__俺以外との同棲は許さないよ。
ささやいたその唇で口を塞がれ、脳裏にちらりと結稀がよぎる。彼より長い年月を、この人のそばで過ごしたい。強くそう願った瞬間、扉が勢いよく開き、弾かれたように離れた。「ヒューヒュー」とどこで覚えてきたのか分からない古くさい野次を飛ばすジェイクが饅頭を三つもかっさらっていく。それが決定打となり、引っ越しを決めた。
おととい引っ越し業者に荷物を運んでもらっていたので、今日運び出すものは自分たちの身体以外にほとんどない。二人で借りたレンタカーは軽自動車だったが、それで十分だった。
早朝からみそぎのように降り注いでいる静かな雨。いい門出だ。
ジェイクと上杉さんに玄関前で見送られ、車に乗る。ジェイクからは招き猫をもらった。俺の猫好きを意識しての贈り物なのだろうけれど、千万両の小判を大事そうに抱えた猫に少し申し訳なくて、笑える。
バイト中の南斗からはメッセージが来た。
__泣くなよ。近いうちにジェイクとかちこんでやるから。
「それはこっちの台詞だし」
泣きさえしなかったものの、俺たちの引っ越しを一番悲しんだのは南斗だ。昨夜みんなで送別会と称して飲みに出かけたのも、半分は南斗を励ますためだった。南斗はもしかしたら今日わざとバイトを入れたのかもしれない。
「それじゃあ」
「元気でね」
「お世話になりました」
バックミラーに映る我が家がどんどん遠ざかっていく。思えば、はみ出しものの寄せ集めみたいな家だった。互いの共通項と言えば性別ぐらいだったけれど、それさえどうでもいいことになっていった。彼らのことをちゃんと理解できていたわけではない。
でも、楽しかった。
気ついたら三年もいた。居心地がよかったのはきっと、ありのままの自分でいられたからだ。そういうことを、今離れてみてようやく知った。
サイドウィンドウに顔を向ける。水滴でぼやけたガラス越しには、もううっすらグレーをまとった住宅街しか見えない。
「返事、返ってきたんです。父から」
ハンドルを握る雨宮の目が、少しだけ見開く。そう、という相槌は、いつも通り穏やかだ。
「電話したいって。それで、俺がよければこっちに会いに来てもいいかって」
最近、母に電話をした。ずっと遠慮して聞けなかった父親について。簡単には教えてくれないだろうと覚悟していたのに、「会いたい?」と聞かれてしばし言葉を失った。父のメールアドレスを受け取り、迷った末に連絡をとった。
自分の中のパーツが一体なんなのか、知っておくのも悪くないと思ったのだ。別に父が最低な奴だろうと素晴らしい善人だろうと、自己評価には影響しない。たぶん。だけど、自分の親について聞かれた時に、答えられないよりは答えられた方が会話はスムーズかな、ふと、そう思っただけだ。
「美味しいもの、食べられるといいね」
「そこ、期待してなかったですけど。それにしても……きれいだ」
ため息が漏れた。
大きなカーブを描いて緩やかに下る道路にそって、白とオレンジの光が一定のリズムで現れては消える。アスファルトのきらめきや、向こう岸に見える高層ビルのにじんだ灯りが、後ろへ流れていく。ダイナミックな光の渦の中で、自分たちだけが軽やかに前進していた。
雨はすっかり上がっていて、手ぶらで二人、遊歩道を歩く。どこを切り取っても人工的なこの場所は、観光地としての天寿を全うし、静かな住宅街へと変容しつつある。ときおりすれ違うジョギングする人や、カッパを着た小型犬を散歩させている人。物足りなさが、今の気分にぴったりだった。
ウッドデッキの水だまりに写し出される逆さまの世界を踏まないよう、気をつけた。俺は雨男だ。政宗を拾った日も、雨宮と出会った日も、雨だった。
雨は優しくなんかない。
体温を奪い、視界を曇らせ、孤独を浮き彫りにする。それでも俺は、雨を嫌いにはならない。空っぽの自分の中にまだ誰にも触れられていない水滴をうけとめ続けている間だけは、自分が何かになれたような気がする。
雨宮が立ち止まる。
「見て」
同じ景色を見ているつもりでも目の高さによって見え方が違うように、晴れの日と雨の日で光の濃度が変わるように、眼前のレインボーブリッジだって、雨宮さんの瞳に映るものと俺のは、絶対に違う。
それでもいい。
大事なのは、それでも見たいと思う気持ちだ。
装飾だらけの手をぎゅっと握る。体温の違い。指の長さの違い。流れる血の違い。完全に分かりあえることはなくても、それでもやっぱり分かりたい。
光に溢れる向こう岸を、いつまでも眺めていた。
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