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第18話 ひと針入れたら、止められないよ
雨どいを伝う水音が、細やかなリズムを刻んでいる。締め切ったカーテンの隙間からは光がほとんど漏れてこない。黒いカーテンっていいなと思いながら寝返りを打つと、目前に安らかな寝顔が迫った。耳の周りの緻密なタトゥーは今、朝雨の暗がりに溶け込んでいる。柔らかそうな耳たぶや薄い軟骨を貫通しているシルバーやブラックの装飾。いつもより数が少ないのはたぶん、大きめのピアスを寝る前に外したからだろう。この人は耳のはじっこまでこの人特有のあり方で形作られている。
__俺、だめなんだよ。
昨夜帰りのタクシーを外で待っている時、ガードレールに寄りかかりながら雨宮は小さく笑った。彼の自嘲は、俺の胸にも刃を立てた。
「俺、信じたら負けだと思ってるんだよ。透のことだって、信用なんかゼロだった」
「ほんとに?」
「ほんとに。スタジオの近くで外人に絡まれてて、ちょっとかわいかったから助けただけ。透がお礼とか言い出したから、つけ込んだだけ。俺だって、あいつと同じくらいしょうもないわけ」
そんなことない。雨宮は結稀とは違う。そう否定したいのに、根拠が見つからない。
「がっかりした?」
「しません」
人に期待したり、落胆したりすることはいけない事だと思っていた。今でもできればそんなことはしたくない。でも、少し分かった気がする。人は、人を知りたい。分かりたい。大事な人ほど気になって、四六時中考えて、相手のことを勝手に想像して、喜んだり悲しんだり怒ったり、振り回されてしまうものだ。そういう尊い気持ちを、手放してはいけない。
「好きにならないようにって気をつけてたんだけどな」
ぽつりと雨宮がつぶやいた言葉は、犬の遠吠えにかき消されてしまうほど頼りなかった。
「好きになったって、いいじゃないですか」
「好きになったら、また信じちゃうだろ」
震える声に、目を合わせられなかった。手負いの獣みたいな雨宮を、見てはいけない気がした。
向こう側が透けて見えるほどすり減らした自分自身。それが、雨宮の孤独。雨宮の痛み。隙のない模様で武装された彼の内側を知って、たまらなくなってしまった。
「信じなくていいです」
「ん?」
「雨宮さんが俺のこと信じてくれなくても、俺は雨宮さんのこと信じるから…………」
「信じさせてよ」
頼りない街灯の下、雨宮と目が合って、返事の代わりに目を閉じた。
帰ってシャワーをあびて、髪も乾かさずに二人でベッドに潜りこんだ。三分も経たずに眠りに落ちていたと思う。
ちりちり、と雨宮のまつ毛が揺れる。意外と長くて、量も多い。だから目元の影が深いのか。うっすらと開いたまぶたの奥、夜雨みたいな瞳がゆっくりと俺を映す。
「おはよう。気分どう?」
耳に熱がたまっていくのを感じながら、大丈夫だと答えた。
結稀のうちで、俺は吐いた。それはもう、内臓まで吐き出さんばかりの勢いで。飛ぶ鳥跡を濁さずで去りたかったのだが、残念ながら俺にそんなスマートさはなかった。「透くんなんかに高い酒飲ませるんじゃなかった」といら立つ結稀に、「どうせならベッドにぶちまければよかったんだ」と雨宮が言い返し、俺の背中をさすってくれた。飲み過ぎによる胃のむかつきももちろんあったが、それよりも極度の緊張状態からの解放と、遅れて訪れた結稀とのキスへの拒絶反応によるものだろう。酒は強い方だと自負していたが、当分は見たくもない。
二階で物音がする。軽快な足音は階段を下り、トイレに入り、それから台所へ。ジェイクと南斗の話し声が聞こえ、いつもの朝が始まる。ああ、でも。
「そういえば政宗、雨宮さんが出張に行って最初の三日はこの部屋のドア引っかきに来てましたよ」
「透くんは?」
「え?」
「いや、何でもない」
雨宮の言葉の少なさはもしかしたら、自分を守るためなのかもしれない。
「政宗なんかより絶対俺の方が寂しかったです」
昨日、帰りのタクシーの中で知らない番号から何十件も着信とメッセージが残されているのを確認した。全て雨宮からだ。南斗に聞いたらしい。
腕の中にぎゅっと抱き込まれる。この人の熱はいつだって、俺の心臓を熱くする。
「透は俺には一言もくれないのにあいつとは連絡とってて、最悪な気分だったよ」
嫉妬されている。胸の奥を筆先でくすぐられるような感覚に耐えられなくて、雨宮の薄い背中のシャツを強く握りしめた。
「あの遊び人がまめに透と会ってたのは、透に本気だったからだ。あいつは死んでも認めないだろうけど。頼むからもう、俺の知らないところで知らない奴と会ったりしないで」
違うと思う。でも俺はうなずく。雨宮さんがそう言うならそれでいい。雨宮の言ったとおり、結局人間は好きな人の言うことなら信じてしまう愚かな生き物だから。それを弱さと呼ぶなら、俺は一生弱いままでいい。雨宮さんの弱さごと、好きでいたい。
玄関が慌ただしくなってきた。
「ジェイク出かけんの?」
「はい、大学です。今雨止んでますよ」
「よっしゃ、じゃあ俺も一緒に出るわ」
二人分の行ってきますのあと、扉が閉まり、鍵がかかり、笑い声が遠ざかっていく。車が通り過ぎ、バイクが通り過ぎ、静寂が訪れた。
「どうしようか」
甘いささやきに、顔をあげた。黒い瞳がじっと俺を見つめている。横からとか、斜め後ろからとか、雨宮がこちらを見ていないときなら何時間でも見つめていられるのに、視線を合わせられたら一秒ももたない。彼の漆黒の眼差しに全てを見透かされそうな気がして。俺がどのくらい雨宮さんに夢中なのか、下手したら俺自身よりはっきりわかっちゃうんじゃないかという気がして。
目を伏せた瞬間、ふっと彼の気配が近づいて、唇が合わせられた。ごく軽く触れただけなのに、胸の奥にぶわりと熱いものが広がる。離れていこうとする雨宮の無駄のない輪郭線を両手でとらえ、口を開けた。
二人の間に引かれた境界線を唾液でふやかすように、舌をからませ、唇を押し付け、ゆるく吸い上げる。
息をする時間も惜しい。
結稀との数えきれない過去のキスにいまさら焼けつくような嫉妬を覚え、雨宮のシャツの裾をまくり、素肌に触れ、足を絡めた。
がばりと布団ごと起き上がった雨宮は、はぎ取るように服を脱ぎ捨て、競うように俺も裸になった。
押し倒され、重なった身体の間で熱がこすれる。その小さな触れ合いだけで、あ、と声をあげてしまった。きっと、雨宮さんにも聞こえたはずだ。羞恥で赤くなっているであろう首すじを舐められ、ぬる、ぬる、と体液をまとった硬い先端で裏すじをこすりあげられ、咄嗟に自分の親指の付け根を噛んだ。
「痛いのが好きなら、俺を噛んで」
噛んでいた手をとられ、指をからめられてしまう。その間も、腰の緩やかな動きを止めてくれない。
「ち、ちが……ん、声、出ちゃう、から……っ」
「いいじゃん、俺しか聞いてないよ」
「あっ、んん……」
「透」
だめだ。
雨宮さんはずるい。そんなふうに耳元で呼ばれたら、俺の身体は弛緩する。もう好きにして、めちゃくちゃにしてって、全身の細胞が泣き出してしまう。その思いが届いたかのように、雨宮の動きは大胆になっていく。
「うっ、あ、待っ、だめ……ふっ……」
かくかくと膝が震え、ついに脱力した。温かい口内に自分の一番弱い器官を飲み込まれ、一気に血流が早まっていく。
ひとたまりもない。雨宮のまっすぐな鼻筋のその下に、濡れた自分の欲が見え隠れする。目を逸らしたいのに逸らせないほど強烈で、刺激的で、気が狂いそうだ。
猛烈な快感の中で、ジェルをまとった節高の指が奥をなぞり、潜り込み、ゆっくりとうごめく。スケッチブックに寸分の狂いもなく曲線を描く時と同じように、優しく、慎重に、けれど迷いのないやり方で。小さな違和感はいつしか、感じたことのない強い欲求に飲み込まれていく。
雨宮さんは男なのに。
俺も男なのに。
そんなことはお互い裸の今この瞬間に、いやというほど分かりきっている。
引き返したくない。引き返せない。でも、自分が何か取り返しのつかないものに変化してしまう気がして、こわい。
「雨宮さん……」
「ん?」
「俺、大丈夫かな」
「大丈夫じゃないよ、全然。好きな人とセックスして、平然としてられる人なんていない」
一緒におかしくなろうよ。
懇願みたいなささやきに、俺は憂いを捨てた。
「あっ、あっ、くッ__」
「透、息吸って。そう、ゆっくり。吐いて、あ、ん……上手……」
心臓の奥まで雨宮でいっぱいになり、はり裂けてしまいそうだ。それでも耐えられたのは、汗ばんだ雨宮の顔が、死にそうなほど____気持ちよさそうだったから。
熱のこもった瞳。上がった息。何より身体の一番奥で感じる雨宮の脈動がずきずきと自分の中にも血液を送り込んでくるようで、そのリアルな一体感に、泣きたくなった。
「雨宮さん……」
雨宮の耳輪に沿うブラックラインを指でなぞる。インクの匂いがしてきそうだ。小さな丸いピアスに触れ、そこから垂れ下がるモチーフを揺らし、複雑に入り組んだ部分を目で追った。くすぐったかったのか、雨宮が小さく笑う。その振動が直接体内に響いて、喘いでしまった。
顔中に雨のようにキスが降り注ぐ。そのひとつひとつから、雨宮の言葉にならない言葉が伝わってくる。やがて再び俺の性器は器用な手に包みこまれ、繰り返す緩やかな刺激に歓喜する。停滞していた熱が一気に押し上げられ、たぶん身体の奥が収縮した。だって、雨宮さんがこらえるような顔をしたから。それがとんでもなく魅力的で、俺はまだ全然余裕なんかなかったのに、「動いて」とねだってしまう。
ゆらゆらと前後に揺すられ、身体の芯が燃えた。胸の精密なブラックラインが筋肉の動きに合わせて踊り、ぐんと近づいて、今にもこちらへ伸びてきて、がんじがらめに縛られてしまいそうだ。恐怖にも似た興奮にたえられず、その黒い皮膚をつかみ、爪をたて、歯をたてた。
「……はっ」
雨宮の熱い吐息。くらくらする。この人の吐く息も、言葉も、産毛の一本でさえも、好きで好きでたまらない。
「透の身体に墨は入れない。一針入れたらきっと、俺は止められなくなる。少しの隙間も残さずびっちり自分の証を刻みたくなるに決まってる。だからこれで我慢して」
強く、穿たれた。
その瞬間に、はっきりとわかった。
欲しかったのは、雨宮の針ではない。雨宮そのものだ。
荒い息を耳に吹きかけられながら出し入れを繰り返されるうちに、圧迫感だけではない甘さが募っていく。
こんなに甘くて深い傷を、俺は知らない。
何度でも、何度でも、突き立ててほしい。
抱きしめると、手に雨宮の浮き出た肩甲骨の感触があった。ここに、翼がある。黒々と濡れた美しい羽が。タトゥーが入っていてもちゃんと汗をかくらしく、ぬるりと滑ってしまうその背中にゆるく爪を立ててしまった。雨宮が爪や歯を立てられた時の緊張感にひどく感じるタイプなのだとそこでようやく気づいたが、もう遅い。「んっ」と艶めいたうめきをあげた雨宮は、さらに奥へとすさまじい勢いで駆け上がっていく。
「あっ、あっ、雨宮さん、も、イくイくッ、いっ____!」
雨宮が低くうなる。
頂点が一つに重なって、落ちていく。どこまでもどこまでも深く落ちていけそうで、この急降下は永遠に終わらないのではないかと思うほど長い。
でも大丈夫。雨宮さんには翼がある。
その翼が折れてしまっても。
一緒に落ちていけるなら、そこはきっと、天国だ。
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