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第17話 俺は雨宮さんが好きだし、雨宮さんしか信じない

熱い。  背骨の根本に、ずしりと重たい熱がたまっている。まだ眠っていたいのに。ゆっくりと浮上する意識の中で、自分ではないものの重さと温度が次第にはっきりとしてくる。 「え……?」  薄暗い部屋の中。見たことのない天井。見たことのない壁。見たことのないカーテン。 「結稀くん、何で…………」  何で俺の上に乗ってんの。  質問は結稀のキスで塞がれる。きゅっと全身の毛穴という毛穴が引き締まるような、嫌悪感が生まれる。 「ちょちょちょっ、ちょっと待って!」  咄嗟に首をひねると、わずかに結稀の顔が離れた。だけど身体は密着したままだ。苦しい。 「結稀くん、こういうのはよくない」 「僕がゲイだと知ってて僕の家に泊まりにきて、浴びるほど酒飲んで、僕のベッドで横になってキスまでしといて、お預けさせようっていうの? そういうのこそよくない」 「____ッ」  太ももにぐっと体重をかけられ、両手をシーツに縫い止められる。きれいについた結稀の筋肉はこんなところで力を発揮する。唇で唇をふさがれ、息ができない。  俺の上で結稀が腰を前後にゆする。布越しに性器がこすれ、俺は「うっ」とうめいた。 「あー、興奮する。ずっとこうしたかったんだよね」  今まではさわやかだと思っていた彼の笑顔に、震え上がる。はあはあと艶めいた息をこぼしながら、再び深く口を合わされる。かたく奥歯を噛み締めて、それ以上の侵入を阻止しようとしたが、執拗に歯列や歯茎を責められて、解けてしまう。  流れ込む唾液。胃が迫り上がってくる。体温の低い舌がねっとりと口内を蹂躙していく。あまりの恐怖にぎゅっと目を瞑ると、涙が滲んでこめかみをつたう。  やられる。  膝に力が入らない。  腕に力が入らない。  身体の芯が膠着し、指先がびりびりとしびれていく。血液がどんどん凝固して、このまま冷たい石になってしまいそうだ。  今、自分の浅はかさを思い知らされている。結稀を利用できると思っていた自分に。彼の不安や孤独を自分が埋めるのだと、本気で考えていた。俺の中身なんて空洞なのに。本当は埋めてもらいたがっていたのかもしれない。結稀の持っている雨宮の残骸をかき集めて、粉々に砕いて、自分の空虚を満たそうと。  なんて傲慢で、偽善的で、利己的なんだろう。  指一本だって動かせやしない。だって、身体はもう諦めている。爪の先まで降参していて、この苦痛が一瞬でも早く終わることを願ってしまっている。  考えるな。  こんな時に、雨宮さんのことなんて。 「震えてるね。かわいい」  楽しそうな掠れ声と共に、耳を粘膜が包む。結稀は今、獲物を締め上げ、頭から食らい尽くす蛇だ。もう声も出ない俺は、早鐘のように鳴り響く自分の鼓動を祈るような気持ちで聞く。  ついに脳も思考を拒否する。  何も感じたくない。  何もかんがえられない。  なにも。  極限状態というのを、生まれて初めて体験している。巨大な穴に落ちていくようなある種の解放感の中で、幻聴が聞こえた。俺を呼ぶ声だ。  透。透、いるんだろ? 返事しろ。  いるよ、ここに。でももう、俺はここにいたくない。一秒だって、もう。 「何⁉︎ なになになにっ」  結稀の慌てた声とともに、のしかかっていた重みがふっと消え、同時にまばゆい光に包まれた。部屋の明かりがつけられたのだろう。 「透から離れろ」  この声は。  怒りに満ちた声。決して大きくはないが、心臓に霜がおりるような冷たく鋭い響きだった。 「何だよいきなり! 見て分かるだろ、お楽しみ中なんだよ! 悪趣味だな、(れん)。そんなに透くんと僕がセックスするところが見た____ぐっ!」  蓮。  蓮って、もしかして。  結稀の気配が遠のく。目を開けても、目の荒い白黒動画みたいに何かが動いていることしか分からない。  酸欠だ。呼吸が苦しい。 「透、大丈夫? じゃないな、くそっ」  やっぱり雨宮さんだ。  雨宮さん、と言いたいのに、声すらまともに出せない。 「過呼吸起こしかけてる。結稀、この部屋から出てけ」 「は? 不法侵入しといてヒーロー気取りですか。ここ僕んちなんだけど」 「じゃあ救急車呼ぶけど」  乱暴に扉を閉める音。そっと身体を抱き起こされ、胸までめくられたカットソーを下ろされ、はだけたシャツを直してくれる。まだ不規則に震える肩が、雨宮の温もりに包まれた。大丈夫だよ、と耳元に柔らかい声を感じる。背中をさする手。政宗を大切そうに撫でる、あの手だ。ゆっくりと雨宮さんの輪郭が浮かびあがる。 「息、ゆっくり吐いて」  次第に呼吸が落ち着いてくる。乾きかけた俺の涙を、大きな手がぬぐう。ごめん、と言いながら。  雨宮さんは悪くない。  全部俺が悪い。いっそ責めてほしかった。バカなことすんなって。首突っ込むなって。 「全然連絡くれないから、出張早めて帰ってきたのに家にいないし、南斗から透がここにいるって聞いて」  死ぬかと思った。  そう言って俺を抱きしめた雨宮さんの、消え入りそうな声。  雨宮さんが動揺している。それだけで、胸がいっぱいになる。 「ごめん、ほんとごめん透」 「俺、大丈夫ですよ。ちょっと飲みすぎて記憶飛んだけど、寝たからだいぶすっきりしたかも」 「……俺とはもう、話したくなかった?」 「そんなわけないじゃないですか。ずっと待ってることしかできなくて……」  辛かった。ほんと、けっこう限界だった。 「もしかしてドアに挟んでおいた紙、見てない?」 「紙?」  雨宮は、結稀の車で家を出た夜、自分への嫌がらせをやめてほしくて好きな人がいると伝えた。雨宮さんは言わなかったが、おそらく結稀は取り乱したのだろう。合鍵は受け取ってもらえず、郵送するつもりだったが、こんな形で役にたった。  それからタクシーで一旦うちに戻り、身支度を整えて大阪へ立った。家では誰にも会わなかったので、俺の扉の隙間に電話番号を書いたメモを残しておいたと言う。  政宗かもしれない。  ヒラヒラしたものが挟まっていたら、つかまえたいと思うのが猫心だ。 「あいつがまさかノンケの透くんにまで手を出すとは思わなかった。裏目に出るとは」 「それはこっちの台詞」  入り口の扉を開け、結稀が言った。突如、雨宮が結稀を鋭く睨め付ける。黒々としたタトゥーに縁取られた険しい横顔に、ブラックのセットアップ。裏社会の代表みたいな彼の雰囲気に気圧されることなく、結稀は部屋へ入ってくる。 「出てけって言っただろ」 「水持ってきたんだよ」  投げつけられたペットボトルを雨宮は片手で受け取め、蓋を開ける。はい、と渡されたそれを、俺は必死で飲んだ。からからだった。 「知ってた? 蓮。透くんってひどいよ。僕には全然優しくない。優しいふりがうまいだけだ」  ぐさりときた。その通りだ。結稀くんは、最初からそれを知っていたのかもしれない。知っていてなお、俺に会っていたのか。 「結稀」  雨宮の制止は届かない。 「蓮、聞いて。僕、透くんとキスしたよ。気持ちよさそうだったから、一緒にベッドまで来たんだけどね」 「結稀くんごめん、俺、飲みすぎて……」 「何それ、僕が一方的に悪いみたいに。この二週間、僕と何度もデートしてた透くんに責任はなかったってわけ?」 「デートって意識はなかった。友達だと思ってたから。違ったならごめん」  自惚れ屋、と結稀が小さく吐き捨てた。 「結稀くんが俺のこと全然好きじゃないってことは、最初から知ってるよ。何で俺を誘ったの?」 「もういいじゃん別に。落ち着いたんならさっさと帰ってよ、二人とも」  気だるそうに壁にもたれ、結稀は目も合わせずに言った。 「結稀、一発殴らせろ」 「は? さっき蓮のせいで頭思いっきり打ったし腕もあざになる勢いだったし、僕の顔に傷つけるとか……」 「どうせマスクで隠れるだろ」  立ち上がった雨宮の手を強くつかんで引き戻した。 「雨宮さん、止めようよ。もういいから」 「よくない。俺がよくない」 「頼むから雨宮さんっ」  両手で腕にすがった。腕まくりしていた袖部分がずるりと下がり、雨宮が止まる。  嫌なんだよ。  そんなふうに、雨宮さんの感情が揺れるのが。  俺以外の誰かに向けられるのが。  俺のからっぽの心の中には、雨宮さんが必要なんだよ。 「……結稀くん」  結稀にまっすぐ目を向ける。結稀は俺を見ない。でも、俺は続けた。 「俺は結稀くんのこと、嫌いだ。だから優しいふりしかできなかった。でもそれは結稀くんがうらやましかったからだ。俺が欲しいものを持ってる。結稀くんが努力して、自分で勝ち取ったものだっていうのは分かってんだけどね。そういう強さ、俺にはないから」  雨宮の訝しげな視線をうけながら、俺は立ち上がる。 「最初っから、こうやって本音で話しとけばよかったよ。俺は雨宮さんが好きだし、雨宮さんしか信じないんだって」  結稀が初めて俺を見る。指で触れれば血がでそうな、険しい視線だった。それを見て確信する。結稀は今でも雨宮さんが好きなのだ。 「何なの透くんって。そうやってへりくだってるふりで、見下すのやめてよ。どうせ僕は誰も信じてないよっ。自分自身のことだって信じてないんだよ!」  結稀が乱暴に自分の髪を掻き乱す。せっかく綺麗にセットしてある茶色い髪が台無しだ。「あーちくしょうっ。何で、何でお前なんかにっ」  結稀はその場にしゃがみ込む。両手で抱えた膝に顔を突っ伏したまま、くぐもった声で続けた。 「お前みたいなちょっとお勉強ができるだけのダサい子どもに……あーっ、くそ……」 「そうだよ、俺は何もない。何も持ってない。そんな奴どうこうしたって、結稀くんには何の得もない。だから、」  結稀のつむじを見つめる。この頭の中に、きっといろいろ詰まってる。知識とか、戦略とか、負けず嫌いな気持ちとか、雨宮さんとの思い出とか。  俺はその場に膝をおろし、正座をする。 「雨宮さんのことは放っておいてください。お願いします」  頭を下げた。 「透、そんなことしなくていい」 「雨宮さんは黙っててよ」  フローリングの床が冷たい。もっと冷たければいいのに、と思う。今この行動に、他人への配慮なんてない。全部、全部自分のためだ。雨宮さんが欲しい。それだけだ。 「ほんとうざい」  顔を上げると、結稀が顔をくしゃくしゃにしていた。ついごめん、と言いそうになり、意味のない謝罪を飲み込んだ。 「なんか勘違いしてるみたいだけど、僕は別に蓮に固執してない。透くんがあまりにも無防備で浅いから、奪っちゃえば面白いだろうなっていう、遊び心だったんだよ。わっかんないかなあ」  結稀は笑っていたが、目が潤んでいた。  それを拭うのは、もう雨宮の役目ではない。ましてや俺なんかが手を出せば、余計に傷口をえぐってしまう。  黙って部屋を出て、リビングに置きっぱなしだった荷物をまとめた。 「さっさと出ていけボケナスども」  背中で聞いた南斗みたいな小言に、少しだけ笑った。変わり身がおかしかったのではない。ようやく結稀の本当の声が聞けて、安心したのだ。 「次は警察呼ぶから」  玄関先で振り返りもせず雨宮が言う。持っていた鍵をことりとシューズボックスの上に置いて。 「次なんかあるわけないだろ。蓮なんかクソみたいな彼氏だったし、透くんなんか遊んでやる価値もない」  結稀の反論に、雨宮は言い返さない。 「結稀くん、それじゃ…………」  振り返って結稀の仏頂面を見た瞬間、込み上げてきた。口元を押さえた俺を見て、結稀が思いきり顔をしかめ、「やめてよ」と言った。やめられるもんならやめたい。 「透?」 「うっ……」  トイレにかけ込んだ俺の背後で、雨宮の「大丈夫? ゆっくりしておいで」という笑いを押し殺した声と、「ざけんなよっ」と叫ぶ結稀の声が重なった。  

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