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第16話 「僕と付き合おうよ」
ふはは、と笑いが込み上げてきた。何だか俺って笑えるなと思う。だって、今まで自分から誰かを好きになったことなんかなかった。出会いを探して飲み会に いそしむ友達や、好きな子に猛アタックをする友達を冷めた目で見ていたのに、自分から人を好きになった途端このザマだ。自分で自分の気持ちを整理できず、勢いに任せて相手に触れて、大事なことは何ひとつ言葉にしなかった。それを相手の不義理のせいにしようとしてみたり、相手の元カレに会って探ろうとしてみたり、そのくせ策士になりきる度胸もない。
差し出されたウイスキーグラスを手にとる。綺麗なグラスだ。重さがあって、手に馴染む。黄金色の液体を揺らすと、細やかな乱反射に惚れ惚れした。鼻に近づけ、はちみつのようなほんのりと甘い香りをかぐ。
「おいしー」
「それはよかった」
背中に腕が回される。瞬間、爽やかな紅茶みたいな香りが鼻をかすめる。おしゃれな人は匂いもおしゃれなんだな。
「結稀くん、雨宮さんが浮気したってほんと?」
「ほんとだよ」
「雨宮さんが時間と金にルーズっていうのも?」
「うん、ほんと」
するすると彼の言葉が入ってくる。もっと言い訳してほしいのに。もっと感情的になってほしいのに。これじゃあ何も分からない。なんだか泣きたいような気分になる。自分の不甲斐なさに。
「透くんはタトゥー入れてる?」
話題を変えられた。
でもそれにうまく抗えない。俺の手首をつかんでくるりと表へ向けさせると、いつかの雨宮の落書きを探るように、細い指先が袖口から侵入してきた。少しくすぐったい。俺の身体のどこを探しても、もう雨宮さんの筆の跡なんて一ミリも残っていない。
「ないよ。結稀くんは?」
「あるよ。見たいなら脱ぐけど」
言い終わらないうちに、結稀は片手で胸元のボタンを外し始める。人差し指に光るリングが邪魔になったりしないのかな、と思っている間に、タンクトップ一枚になった結稀が、ほら、ここ、と胸元をぐいっと外側へ広げた。想像よりも胸板が厚い。
「あ、羽根だ……」
それは、雨宮の羽根だった。何度も見ているのだ、見間違うはずがない。白い素肌の胸元にひっそりとひるがえるそれは、雨宮の背中のそれだ。いつか俺の胸元にも描いてくれたことがある。でも結稀の羽根は、俺の消えてしまった羽根とは全く違う。その奥にはちゃんと血が通っていて、色なんかついていないのに鮮やかで、確かな存在感を持っている。
見ていられない。早くしまってほしくて、ありがたくもないのにありがとう、と言い、ワインを流しこむ。
「雨宮と同じ彫り師に彫ってもらった」
「へえ」
そっけなく響いたかもしれない。だけどそれを誤魔化す余裕が、今の俺にはない。ちっとも後悔してなさそうな結稀の声も癇に障った。
「こっちもあってさ、こっちの方が古いんだけど」
片膝をたて、靴下を脱いだ結稀の足首。スラックスの裾をめくると、ローマ数字の並びが現れた。
「誕生日とか?」
「惜しい。確かに日付なんだけどね。今のブランドを立ち上げて三年目で、大失敗した日。ここがどん底であってほしいと思ったんだ。あの時の苦しさを忘れたくなくて」
「教訓ならもっと目につくところにしようとは思わなかったの?」
「いつも見えてたら風化しそうだから。これ見たら、僕はこの足で立ってるんだって思えるし」
嫌になる。
強い人すぎて。
こんなの、敵わないじゃん。俺なんて、まだ何も成してないのに。
そのタトゥーも、雨宮の師匠が彫ったのだろうか。それとも雨宮自らが手がけたのだろうか。さすがに数字だけでは、素人目では雨宮のクセや雰囲気なんかは分からない。
考えるほどに胸の奥にもやもやが湧いてきて、アルコールを流し込む。心臓がじんわり温かくなって、生きていることを実感する。
「透くんは雨宮のこと好き?」
鼻先が触れそうな距離で聞かれ、ゆっくりと焦点を合わせた。ガラス玉みたいな瞳には、俺の心の中でも映し込まれているのだろうか。そんな直球の質問、ごまかす術がないんだけど。
「ねえ、雨宮と付き合ってんの?」
「付き合ってないよ」
「僕と雨宮がどんなふうに付き合ってたか、知りたい?」
知りたくない、もう十分、と言おうとしたのに、口を開いた時には柔らかいものが重なっていた。
「んっ……」
かすかな結稀の吐息が甘く震える。下唇を軽く喰まれて、淡いしびれが走る。何をされているのか、しばらくは理解できなかった。
「好きだよ透くん。僕と付き合おうよ」
返事なんか待っていないみたいに、再び口を塞がれた。
ちょっと待って。
予想外の展開に、頭がついていかない。
俺のことが、好き?
そんなわけ、ないだろ。
だって、結稀くんが俺に会うのは、雨宮さんに未練があるからで、俺が結稀くんに会うのも雨宮さんが好きだからで、つまり俺たちの線は似てはいるけど、決して交わらない。
「透くん……」
ため息混じりに唇の隙間で結稀がつぶやく。そんな甘い声、聞いたことがない。
「だ、だめだって……うっ」
声が上ずった。うなじに手を回され、どうして、と聞かれる。
「どうしてって……、俺、好きな人いるし……んんっ」
わずかにアルコールをまとった舌が、唇を割り、歯列をなぞる。押し返そうとしているのに、うまく力が入らない。
「透くんの好きな人が誰だろうと、僕には関係ないんだよ」
ふふ、と鼓膜を撫でるようにささやかれた。言葉の内容が全然入ってこない。
ああくそ、俺のバカ! 何でこんな酔っ払ってんのっ。
決して強引ではない。むしろ気遣うような優しい触れ合いで、座っているのにめまいがする。
「あいつになんか、絶対渡してやらないんだから。透くん、立てる? ベッドに行こう」
結稀の肩を借りて立ち上がり、どこかへと歩いたような気がするが、その後の記憶がない。
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