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第15話 俺は流されやすい

明治神宮前なんて、上京してから数えるほどしか降りたことがない。改札口を間違えないようにサインを確認しながら歩く。都内の地下鉄の駅はアリの巣みたいに複雑なのに、行き交う人々の足どりに迷いはない。流れを邪魔するわけにはいかず、自然に俺の足も急いだ。結稀はすでに迎えに来てくれていて、ここから十五分くらい歩くのだと言う。  地上に出ると、結稀のホームだと肌で感じた。こんなに沢山の人の中でも、彼は決して埋もれない。有名モデルが広告を務める街頭ビジョンも、洗練されたショップの並びも、着飾った女の子のグループも、全てを背景にしてしまうようなセンスの塊。これが本来の彼の姿なのだろう。隣に雨宮の後ろ姿を想像してみるとぴったりとはまってしまう気がして、目を逸らせた。  結稀の家は2DKで、こぢんまりとした物件だった。値段はこぢんまりとはいかないだろうが。改めて彼とのライフステージの違いを確認させられたが、そんな事は大したダメージにはならない。  それよりも。  神経を研ぎ澄ませてしまう自分がいやだ。ここは雨宮の古巣だ。それをどうしたって意識してしまう。ダイニングの端っこに置いてある小さい観葉植物とか、ブラックのローテーブルとか、テレビの横のルームフレグランスとか。はっきりとした雨宮の痕跡は白々しいほど取り除かれているのに、残像みたいなものがそこかしこに見えてしまう。  今日ここにきたのは、結稀に久しぶりの休日だから家飲みがしたいと誘われたからだ。泊まってもいいとさえ言われている。出かける前にそれを南斗に伝えると、俺も連れてけと言われたが、断った。一人で来ないと意味がないのだ。これは俺にとってはじっくり話すチャンスだから。結稀に、もしくは雨宮に関する確信がほしい。なんでもいい。結稀が嘘つきな悪者でもいいし、完璧な善人でもいい。とにかくもう、一向に帰らない雨宮を恨んでもいいのか、信じてもいいのかと迷うことから解放されたい。  キッチンからいい香りが漂ってきている。促されるままに一度ソファに腰かけたが、結局その下のラグにあぐらをかく。結稀が餃子とキムチを持ってきた。 「雨宮と一緒だ」  結稀が笑う。とげのない言い方だった。久しぶりに彼の口から聞く雨宮という言葉。  俺は唇を噛んだ。だって、確かに雨宮さんは椅子より床に座っていることが多い。それを知っているのが自分だけだなんて思わないけれど、自分よりずっと長く雨宮のことを見てきた人の存在を目の当たりにして、楽しいわけがない。 「乾杯しよう」  そう言ってグラスを合わせてきた結稀の敬語がとれたのはごく最近だ。  ローテーブルに並んだ料理は大衆居酒屋にあるような酒のつまみが多い。ナントカのカルパッチョとか、臭いチーズの盛り合わせとかが出てくるのかと思っていたが、結稀も庶民的な味が好みなのかもしれない。おしゃれな人が好む食べ物もおしゃれだとは限らない。 「透くんはお酒強い?」 「弱くはないかな。けっこう好きだし。結稀くんは?」 「好き。最近は控えてたけど今日は透くんが来るから、色々開けようと思ってるんだよ。これとか、これとか」 「おお、やっと出た。結稀くんっぽいの」 「ははっ、何だそれ」  赤と白のワインボトル。白の方は氷たっぷりのワインサーバーに入っている。その隣には、ウイスキーボトル。滅多に飲まない類のアルコールを並べられ、ラベルを読んでみたが味も価値も想像がつかない。 「透くんはどんな人が好きなの?」  食事も進み、ビールも二杯目に突入したところだった。  これは、話の流れで雨宮のことについて聞けるかもしれない。 「ええっと、うーん。普通に、かわいい子、かな」 「かわいい子ねえ」  結稀からグラスを受け取り、口をつけた。思っていたよりずっと滑らかな舌触りの赤ワインに、お、と声がもれた。まだビールが終わってすらいないのだけど、まあいいか。チーズ持ってくる、と言った結稀がさけるチーズとプロセスチーズとともに戻ってきたので、そのチョイスに安心した。 「年上と年下とタメだったら?」 「年上と付き合ったことはないけど、あんまり年は関係ないかも」 「なるほど」  結稀はふわりと微笑むと、グラスをあけた。ペースが早い。二杯目のビールグラスはとっくに空だ。置いていかれぬようにと、ビールを煽った。まだ冷えていておいしい。 「透くんはストレートなんだよね」 「……そう、だね」  自身を顧みて、一瞬ためらってしまった。ストレートじゃない相手とこういう話をするとき、言葉は慎重に選びたい。 「女の子としか付き合ったことないけど、でももし万が一好きになった人が実は男でしたって発覚しても、いきなり嫌いにはなれないんじゃないかな。だから、性的指向なんて自分で思うより流動的なものかもしれない」 「そういう場合に騙されたって思えないのが透くんの弱点だね。好きだよ、そういうとこ」  結稀の手が指先を握ってきた。その感触が女の子みたいに柔らかく、つい引っ込めてしまいそうになる。そんな事をしたら意識しているみたいで気まずいし、俺は何もなかったかのように自由な方の手でワイングラスをつかんだ。ごくごくと飲んでから、こんな風に飲む物じゃなかったと気づいたがもう遅い。結稀は空になった俺のグラスにワインを注ぎ足しながら、話を続けた。 「今まで男に言い寄られたこと、けっこうあるでしょ」  いや、と言いかけて、クリスはカウントしていいのだろうか、と考えた。それから雨宮の事を。彼から明確に誘われた覚えはない。  結稀は誤解したらしく、やっぱり、などと言う。 「男に言い寄られるのって気持ち悪い?」 「好意は素直に嬉しいけど、その人との関係が壊れそうでこわいね……あ、どうも」  裂けたチーズを差し出され、口を開ける。結稀の指が唇の内側に少しだけ触れた。その指先をぬぐいもせずに、結稀はチーズを自分の口にも運ぶ。  甲斐甲斐しいな、と思う。こんなふうに雨宮も、結稀に甘やかされていたのだろうか。あまり考えたくはない過去を洗い流すように、グラスを空ける。世界が少し、揺れている気がする。 「たとえばさ、」  結稀が白ワインのコルクを手慣れた様子で開け、空になったワイングラスに注ぎ始める。いつの間にか赤ワインのボトルは空だ。いちいちグラスを変えない結稀の大らかさが、俺にとってはありがたい。 「いろいろリードしてくれそうな小洒落た年上と、ぱっと見いかつくて無口なイケメンに告られたら、どっちと付き合う?」 「中身が好きな方」 「中身が分からなくて、でも絶対どっちかを受け入れなきゃいけないとしたら?」  こんなくだらない質問、適当にかわせばよかったのだ。でも俺の頭はビールと赤ワインでごった返していて、さらに新しく注がれた白ワインの登場によって、お祭り騒ぎになっていた。 「だったら相手の熱意によるかもなあ。うわあ、このワイン飲みやすー」  シーリングライトも、結稀の瞳も、テーブルに置かれた食べ残しさえも、面白おかしく揺れている。たぶん俺は今、笑っている。だらしない顔で。 「よかった、気に入ってくれて。どんどん飲んでよ。透くんは押されて断りきれないタイプか」  この人の声は柔らかい。するりと耳孔に入ってきて、とても聞きやすい。まるで音楽みたいだと思ったのはたぶん、結稀が耳元でささやいたからだ。 「そっか、俺、流されやすいのか」

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