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第1話 昨日のせいか?
霧島迅(きりしま・じん)のスパイクが、ブロックの白い指先に弾かれた。
ボールはコートの外へ落ちる。
「もう一本!」
迅が声を上げるより早く、鈴谷律(すずや・りつ)がボール籠へ向かっていた。
拾い上げたボールを指で回し、ネット際へ戻る。
「今の、助走が遅い」
「トスが低いんだよ」
「いつもなら間に合ってる」
「今日は間に合わねぇ」
「じゃあ合わせろ」
「そっちが上げろ」
律の眉間に皺が寄った。
次のトスは、迅の望んだ高さまで上がった。
高すぎた。
迅は空中で身体を反らし、どうにか右腕を振り抜く。ボールはエンドラインを越え、壁へ鈍い音を立ててぶつかった。
「今度は高ぇ!」
着地した迅が振り返る。
律はネットの下をくぐり、転がったボールを追った。
「注文どおり上げただろ」
「限度があんだよ」
「低い、高い、遅い。次は何だ?」
「お前がムカつく」
「それは前からだ」
周囲で練習していた部員たちが、露骨にこちらを窺っている。
普段なら誰かが茶化すところだった。
今日は声が飛んでこない。
ここ数日、迅と律の速攻は微妙に噛み合っていなかった。
大きく崩れているわけではない。試合なら、その場で修正できる程度のずれだ。
それでも迅には耐えられなかった。
律の指を離れた瞬間、どこへ上がるか分かる。
そう信じて跳んできた。
律も、自分が上げれば迅が決めると信じている。
そのはずなのに、今はボール一個分の距離がやけに遠い。
「二人とも、一回休め」
主将の声が飛んだ。
「まだできます」
律が即答する。
「できてねぇから言ってんだろ」
「迅が合わせればできます」
「お前な」
迅がネットへ近づくと、主将が間に腕を差し入れた。
「熱くなる方向が違う。今日は終わり。ストレッチして帰れ」
「俺、別のセッターと合わせます」
「は?」
律の言葉に、迅の足が止まった。
律は迅を見ず、ボール籠の取っ手を握った。
「誰が相手でも打てるんだろ。確認してみれば?」
「俺が打てねぇって言いてぇのか」
「俺のトスが悪いって言い続けてるのはお前だろ」
「そこまで言ってねぇ」
「似たようなもんだ」
主将が息を吐いた。
「鈴谷も今日は上がれ。寝ろ。二人とも動きが重い」
「平気です」
「平気なやつは、一本ごとに喧嘩しない」
律が口を閉じた。
迅も反論できなかった。
****
練習を切り上げても、苛立ちは消えなかった。
シャワーを浴びても、着替えても、律は迅と目を合わせない。
いつもなら並んで寮に帰る。
どちらから誘うわけでもなく、コンビニへ寄り、どちらかの部屋で動画を見たり、くだらない話をしたりする。
今日は律が一人で体育館を出ていった。
迅は数秒遅れて、その背中を追った。
「律」
呼び止めても、律は歩調を緩めない。
「ついてくんな」
「帰る方向、一緒だろ」
「お前の部屋に行く気はない」
「まだ何も言ってねぇ」
「言うつもりだっただろ」
「だったら何だよ」
律が足を止めた。
夕暮れの構内に、運動部の掛け声が遠く響いている。
「今日、お前といたら、また喧嘩になる」
「もうなってんだろ」
「これ以上は面倒だ」
「逃げんのか」
律の肩がぴくりと動いた。
迅は分かっていて言った。
律は勝負を途中で投げるのが嫌いだ。
「その言い方、やめろ」
律が振り返る。
「逃げるんじゃない。頭を冷やすだけだ」
「俺は冷えてる」
「どこが」
「お前よりはな」
「じゃあ、その馬鹿みたいな目つきは何だよ」
「お前がムカつくからだよ」
「俺だってムカついてる」
律が迅の胸を押した。
迅は一歩も下がらなかった。
「最近ずっと、お前のことばっか考えてんのに」
律の動きが止まった。
言ってから、迅も止まった。
今のは違う。
トスのことだ。
助走のことだ。
タイミングのことだ。
そう続ければ済むはずなのに、律の指がシャツを掴んだまま離れない。
「……俺だって考えてる」
律が低く返した。
「何で合わないのか。お前が今どこで跳びたがってるのか。次はどんな球なら、気持ちよく決めるのか」
その言葉が、迅の腹の奥へ落ちた。
律は普段どおり口が悪く、睨むように見上げている。
なのに最後の一言だけが、別の意味に聞こえた。
「気持ちよくって何だよ」
「スパイクの話に決まってるだろ」
「今、変な言い方したの、お前だからな」
「変に受け取ったのはお前だ」
「受け取ってねぇ」
「じゃあ離せ」
律の指は、まだ迅のシャツを掴んでいる。
迅がそこへ視線を落とすと、律はむしろ力を込めた。
「お前が先に退け」
「押したの、お前だろ」
「近づいたのはお前だ」
胸が触れそうな距離だった。
律の唇が、言い返すたびに動く。
練習後で少し荒い呼吸も、額に残った湿り気も、妙に近い。
迅は、前から律のこういうところが気に食わなかった。
強気なくせに、たまにひどく無防備になる。
自分だけが気づいているような気がして、腹が立つ。
「ほんとムカつく」
迅が吐き捨てると、律の目が細くなった。
「奇遇だな」
「一回、黙れよ」
迅は律の顎を掴み、そのまま口を塞いだ。
唇が重なった瞬間、頭の奥が真っ白になった。
押し返されると思った。
律の手は迅の胸から離れ、首の後ろへ回った。
引き寄せられる。
迅は驚いて一度唇を離した。
律が息を切らし、間近から睨んでくる。
「何でやめる」
「お前」
「そっちからしたんだろ」
「殴られるかと思った」
「今さら?」
律の耳が赤い。
それを指摘したら負ける気がした。
迅はもう一度キスをした。
今度は深く入り込む。
律も退かない。
舌を絡めるたび、どちらが先に息を乱すか競っているようだった。
律が迅の髪を掴む。
迅はその腰を抱き寄せた。
身体が密着すると、律の喉から短い息が漏れた。
「今、変な声出した」
「出してねぇ」
「出した」
「うるさい」
「もう一回聞かせろよ」
「調子乗んな」
そう言いながら、律は迅の唇を追った。
****
迅の部屋へ着くまで、二人ともほとんど口を利かなかった。
黙っていたのは冷静になったからではない。
少しでも話せば、構内でまたキスをしそうだった。
玄関の扉が閉まる。
迅が鍵をかけた直後、律が背中からぶつかった。
「遅い」
「鍵くらい閉めさせろ」
「さっきまで偉そうだったくせに」
「お前が平気なふりしてんのがムカつくんだよ」
振り返ると、律の唇はもう赤くなっていた。
そのくせ目だけは挑発的だった。
「平気だけど」
「じゃあ帰れ」
迅が扉を示す。
律は動かなかった。
「帰ってほしいのか?」
「聞くな。分かるだろ」
「言えよ」
「嫌だね」
「負けるのが怖い?」
「お前にだけは言われたくねぇ」
迅が律の腰を引き寄せる。
律は笑った。
勝ったつもりの笑い方だった。
それがまた腹立たしくて、迅はベッドまで押していった。
膝裏が縁に当たり、律が仰向けに倒れる。
すぐに起き上がろうとした肩を押し戻すと、律は迅の手首を掴んだ。
「上から押さえたくらいで勝った気になるなよ」
「まだ勝ったなんて言ってねぇ」
「じゃあ何する気だ」
「黙らせる」
「キスじゃ無理だったけど」
「もっと別の方法で」
律の呼吸が止まった。
ほんの一瞬だった。
それを見逃すほど、迅は鈍くない。
「何、今さらびびってんの」
「びびってねぇ」
「声、上ずってる」
「お前こそ手が震えてる」
言われて気づいた。
律の肩を押さえる指先に、わずかに力が入りすぎている。
迅が舌打ちすると、律の表情が緩んだ。
「迅」
名前を呼ばれる。
煽りも悪態もなかった。
迅は律のシャツを掴み、額を寄せた。
「嫌なら、今出てけ」
律は迅の目をじっと見返した。
それから迅の首へ腕を回し、自分から唇を重ねた。
答えはそれで足りた。
迅は律の服を脱がせた。
律も迅のシャツを乱暴に引き上げる。途中で布が顎に引っかかり、迅が悪態をつくと、律が声を立てて笑った。
「格好つかねぇな、エース」
「お前の脱がせ方が下手なんだよ」
「だったら自分で脱げ」
「今さら待てるか」
ベッドの上で揉み合う。
どちらが先に相手を裸にするか競うように、指がボタンや裾を追った。
肌が触れ合うたび、笑い声は短い息へ変わっていく。
迅が律の首筋へ噛みつくと、律の背中が反った。
「っ、そこ、やめろ」
「効いてんじゃん」
「跡つけたら殺す」
「明日、練習着で隠れる」
「そういう問題じゃ、んっ……」
迅が同じ場所を舌でなぞる。
律は迅の肩を押したが、離そうとする力ではなかった。
「何エロい声出してんだよ」
「お前が出させたんだろ」
「知らねぇよ」
「嬉しそうなくせに」
「調子乗んな」
迅は言い返しながら、もう一度律の反応を引き出した。
低く噛み殺そうとした声が、少しずつ甘く崩れていく。
それを聞くたび、胸の奥が熱くなる。
律が声を抑えようと唇を噛んだ。
迅は気に入らなかった。
「……何、黙ってんだよ」
「うるさいって言っただろ」
「別に止めろとは言ってねぇ」
律が目を丸くしたあと、意地悪く笑った。
「やっぱり聞きたいだけじゃん」
「違ぇよ」
「じゃあ離れろ」
「それも嫌だ」
「欲張り」
「お前に言われたくねぇ」
迅が引き出しから必要なものを取り出すと、律の視線が追った。
強気だった目に、初めて緊張が滲む。
それでも律は逃げず、自分から脚を開いた。
「手間取ったら笑うからな」
「黙って任せろ」
「それが信用できない」
「すぐ分からせる」
迅は急がなかった。
口では挑発を続けながら、律の呼吸と身体の力がほどけるまで、何度も触れ方を変えた。
律は初めこそ平然としていたが、次第に言葉を途切れさせた。
「っ、迅……そこ、何回も、するな」
「嫌なの?」
「その聞き方、腹立つ」
「じゃあ、どうしてほしい」
「自分で考えろ」
「セッターのくせに指示出せねぇのか」
「今は、お前が決めろよ」
律の言葉が、掠れて落ちた。
迅の胸が強く鳴る。
試合中なら、どんな無茶なトスでも打ち切れと言う男が、今は迅に任せると言った。
その意味を考えた途端、身体の奥まで熱くなった。
「後悔すんなよ」
「お前こそ」
迅がゆっくり挿入すると、律の身体が大きく震えた。
「っ、あ……!」
律の指が迅の肩へ食い込む。
途中で止まり、息が整うのを待つ。
律は目を閉じたまま、悔しそうに眉を寄せていた。
「律」
「止まんな」
「強がんなよ」
「止まったまま喋る方が、むかつく……」
「ほんと可愛くねぇ」
「お前に言われたく、な……っ、あぁ♡」
迅がさらに奥まで進む。
律の声が甘く跳ねた。
その響きに、迅の理性が揺れた。
「今の、もう一回」
「馬鹿、できるか」
「じゃあ俺が出させる」
「勝手に、しろ……っ」
奥まで繋がったまま、しばらく動かずにいる。
律の呼吸が迅の首筋へ当たる。
近すぎる。
練習中、ネット越しに何度も見てきた目が、今は熱に潤んで迅だけを睨んでいる。
こんな表情を知っているのは自分だけだ。
そう思った瞬間、迅はどうしようもなく満たされた。
「何笑ってんだよ」
律が睨む。
「笑ってねぇ」
「口元、緩んでる」
「お前が変な顔してるから」
「殺す」
「できるもんならやってみろ」
迅が腰を引き、ゆっくり擦る。
律の喉が震えた。
もう一度。
今度は少し深く。
「んっ……迅、待っ……」
「待たねぇ」
「さっきは、あんな慎重だったくせに」
「もう平気だろ」
「勝手に決めるな、っ、あ♡」
突き上げるたび、律の身体が跳ねる。
迅の名前を呼びかけては、途中で飲み込む。
そのたびに迅は奥まで届くように角度を変えた。
「声、我慢すんなよ」
「誰の、せいだと……っ」
「俺のせいで出てんの?」
「うるさ、い……あっ♡ そこ、迅、そこばっか……!」
「嫌なら、そんなにしがみつくな」
「離したら、お前が調子乗るだろ」
「もう乗ってる」
「最悪……っ、あぁ♡」
律の脚が迅の腰へ絡む。
引き寄せられ、さらに深く繋がった。
迅も息を詰めた。
「お前、自分からやってんじゃん」
「違う。逃がさないだけ」
「どっちを?」
律が答えられず、迅の肩へ噛みついた。
迅は笑い、そのまま律の腰を抱え直した。
擦るだけでは足りない。
律の声をもっと聞きたい。
強気な目が熱に崩れるところを、最後まで自分だけが見たい。
突き上げる動きが速くなる。
「迅、っ、待て、これ……もう、無理……♡」
「限界?」
「言わせんな……!」
「俺に負けるって言ったら止める」
「誰が、言うか……っ、あぁっ♡」
「じゃあ止めねぇ」
「望む、ところ……っ、迅、もっと……!」
律が初めて自分から求めた。
迅の身体を突き抜けるような興奮が走った。
「今、もっとって言ったな」
「忘れろ」
「無理」
「だったら、早く……っ、奥まで、来いよ♡」
迅は律の望みどおり、奥まで何度も突き上げた。
律の声が途切れなくなる。
悪態も煽りも、甘い息の間に崩れていく。
迅も余裕を失っていた。
律の名前を呼ぶたび、律の腕が強く首へ絡む。
離れるつもりなど、どちらにもなかった。
「迅、もう、だめ……っ、くる、あぁっ♡」
律の身体が大きく震えた。
絶頂に達し、迅へしがみつく。
その表情を見た瞬間、迅も限界を越えた。
律を抱き込んだまま、深いところで動きを止める。
荒い呼吸だけが部屋に残った。
すぐには離れられなかった。
迅が少し身体を起こそうとすると、律の腕に力が入る。
「……まだ動くな」
「重いだろ」
「今、抜いたら殺す」
「命令すんな」
そう言いながら、迅は律の隣へ身体を落とした。
繋がったまま、律の背中へ腕を回す。
律は迅の胸へ額を押しつけた。
****
さっきまでの強気が嘘のように静かだった。
「お前、こんな声出すんだな」
「殺す」
「今日そればっか」
「忘れろ」
「絶対忘れねぇ」
律が迅の脇腹を抓った。
痛い。
それでも迅は腕をほどかなかった。
律も離れない。
汗ばんだ肌が密着し、乱れた呼吸が少しずつ同じ速さになっていく。
「なあ」
迅が天井を見たまま呼ぶ。
「何」
「これで明日、もっと合わなくなってたらどうする?」
律がしばらく黙った。
「お前が下手だったことにする」
「何で俺だけの責任なんだよ」
「俺は悪くない」
「お前、途中からもっとって言ってたじゃん」
「言ってない」
「言った」
「聞き間違いだ」
「もう一回やったら確かめられるな」
律が顔を上げた。
呆れたような目だったが、耳はまた赤くなっていた。
「馬鹿じゃないの」
「嫌?」
「その聞き方やめろ」
律は迅の胸へ顔を戻した。
「……明日の調子を見てから決める」
迅は笑った。
「調整ってこと?」
「そういうことにしとけ」
****
翌日。
体育館の床を蹴った瞬間、迅の身体は軽かった。
律のトスが上がる。
高くも低くもない。
迅の助走とぴたり重なり、打点の一番気持ちいい場所へ届く。
腕を振り抜く。
ボールがブロックの上を抜け、コートの奥へ鋭く突き刺さった。
乾いた音が響いた。
「ナイス!」
周囲から声が上がる。
迅は着地し、すぐに律を振り返った。
律もこちらを見ていた。
一瞬だけ、昨夜の崩れた表情が重なる。
律は露骨に目を逸らした。
耳が赤い。
迅は口元が緩むのを止められなかった。
次の一本も決まった。
その次は、律がトスを上げる直前にブロックを見てコースを変えた。
迅は迷わず跳び、指示どおりストレートへ叩き込む。
昨日までのずれが嘘のようだった。
休憩に入ると、主将が二人へタオルを投げた。
「戻ったな」
「当然です」
律が答える。
「昨日寝たら治ったか?」
律の動きが止まった。
迅は吹き出しそうになり、慌ててタオルで口元を隠した。
「まあ、そんな感じです」
「霧島、何笑ってんだ」
「別に」
主将が離れる。
迅は律の隣へ腰を下ろし、声を潜めた。
「寝てはねぇよな、あんまり」
律が肘で脇腹を突いてきた。
「黙れ」
「でも、マジで戻った」
「たまたまだろ」
律はそう言ったが、迅を見なかった。
迅は床へ置かれた律の手のすぐそばへ、自分の指をついた。
触れる寸前で止める。
律の小指がわずかに動き、迅の指へ当たった。
どちらも離さなかった。
「なあ」
「何」
「昨日のせいか?」
律がようやく迅を見た。
冷静なふりをしている。
けれど、迅にだけ分かる程度に唇が緩んでいた。
「だったら?」
「もう一回、調整する?」
律は数秒黙ったあと、迅の指を小指で押した。
「今日の練習が終わってからな」
笛が鳴った。
律が立ち上がり、ネット際へ戻っていく。
迅もその背中を追った。
次のトスを待つ胸が、昨日までとは別の意味で高鳴っていた。
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