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1-1.
突然の大きな破裂音に、ニコは思わず肩を竦めた。同時に、ロザリオがポロリと手の中から落ちた。
すぐに続いた軽快な音楽にほっと息をついたが、それもほんの束の間。
馬車が揺れるほどの大きな歓声が上がり、ニコは再び肩を竦めた。
「ようこそ王都へ、花嫁さま!」
「ご成婚、おめでとうございます!」
騒がしい外への興味に負け、ニコは窓のカーテンを人さし指一つ分だけそっと開いてみた。
すると、真っ白な花びらが、シャワーのように降り注いでくるのが見えた。それがあまりにも美しくて、ニコの口元が自然と緩む。
「わあ……。何かのお祝いかなあ。
とってもにぎやかだね、兄さん」
「まあ、結婚……だろうな」
一気に華やいだニコの表情とは反対に、向かいの兄——テオは、苦々しい顔でみぞおちを押さえながら答えた。
「結婚かぁ、すてき! 花嫁さん……どこかな」
もっと見たいとカーテンをさらに開こうとした小さな指を、大きな手が止めた。
「やめなさい」
ニコはひゅっと息を詰め、思わず手を引く。
「……ごめんなさい」
「違う、叱ったわけじゃない。そうじゃなくて……」
テオは外の様子を一瞬だけ確認し、すぐにカーテンを閉めた。
「今は閉じておいた方がいい。
……多分。いや、絶対に」
そして、床に転がっていたロザリオを拾い上げ、ニコに渡してやった。
「……そうだよね。
僕なんかに見られたら、花嫁さん……いやだよね。
不吉だもの」
ニコは小さくそう返すと、ロザリオを祈るように持ち直して、そっと目を閉じる。
すると、その青い石が淡く光った。
テオはその薄く緑がかった光から視線をそらすように目を伏せて、小さく息を吐く。
「いや、そういう意味ではなく」
「兄さんも、ずっと顔色が悪いもの。
きっと僕と長く一緒にいたせいで、呪いに当てられたんだ」
「いや、違う。お前に呪いなんかはないし、これはいつもの胃痛だ」
「まあ、大変! お薬あるかな?聞いてみる?」
「は?」
「ちょっとー! ぎょしゃさーん、止めてー!
兄さんがおなかいたいってー!」
「おい、やめろ」
「聞こえないのかな?」
「こら。だから、窓を開けるな」
「でも……」
「じきに着く。それに、今ここで馬車を停めたら大変なことになる……気がする」
「……そうだよね。
お祝いの邪魔になっちゃったら、悪いもんね」
ニコはしょんぼりとした様子で俯きながら、大人しく座り直した。
違う、そうではないとテオは心の中で呟いた。
だが、仮に「じゃあ、なんで?」と、無邪気に問い返されても、正直に答えられる気がどうしてもしなかった。
だから、結局はそのままやり過ごすことにした。
それにしても、これからのことを思うと胃がキリキリと痛んでたまらない。
馬車の揺れすらきついと感じ始めた矢先、突然馬車の乗り心地が滑らかになった。
——広場に入ったようだが……。
その感覚に、テオは頭を抱えた。
車輪から伝わる振動の質が、確実に変わった。
ーーあいつ、敷いたな、絨毯を。
しかも厚めのやつを。
広場に絨毯を敷くなんて、何を考えているんだ。
テオの中の嫌な予感が、確信へと変わっていく。
「兄さん、本当に大丈夫?」
ニコは心から心配そうな顔で立ち上がると、兄の隣に座り直した。
そして、兄に寄り添いながら、そのみぞおちのあたりをゆっくり撫で始める。
「いたいの、いたいの、とんでけ〜」
テオと目が合うと、ふわりと微笑んで見せた。
ニコは今朝、何の説明もないままこの馬車に乗せられたのだ。
そして、故郷から遠く離れたこの王都に連れられてきた。きっと不安でたまらないだろう。
それなのに文句の一つも言わず、兄への気遣いまで……。
なんて優しい子なんだ。まるで天使のようだ。
「いたくない、いたくないよ」
ニコは、兄のお腹を優しくさすりながら、小鳥のさえずりのようにそう繰り返した。
そのあまりの尊さに、テオは思わず目頭が熱くなった。
「兄さん、どう?
ちょっとは、よくなった?」
——どうにも、こうにも。
胃痛の根源はこのニコ、 正確にはその先行きだ。
勅令に従いここまで来たが、不安しかない。
——あいつのことだから、無下にはしないと信じたいが……。
するとその時、急に馬車が止まった。
まだ城門にすら辿り着いていないはずだが……。
テオが首をひねったところで、先ほどと同じ破裂音——ラッパの音が高らかに響いた。
「王太子さま!」
「ユリウス殿下ー!」
続いて割れるような歓声が間近で上がったので、テオはより胃が痛くなった。
ニコを見下ろすと、大きな瞳をパチクリと瞬かせている。
明るい音楽が流れ始めた。
それに合わせ、足音がいくつも馬車に近づいてきたので、テオは守るようにニコの肩を抱いた。
その次の瞬間、馬車の扉が開いた。
騎士が少しだけ顔を出し、テオに向かって頷いて見せる。
——表へ出てこい、ということか。
「……兄さぁん……」
ニコが震えながら、今にも泣き出しそうな声で言った。
「大丈夫だ、行こう」
テオは優しくそう言い、その頭を撫でてやった。
馬車から降り立った公爵家長男の姿を見て、民衆は一瞬静まった。
テオはすぐに振り返り、手を差し出した。
すると、馬車の中から頼りなく小さな手が現れた。
皆が固唾を飲んで見守る中、その手がテオの手を取った。
その手を引かれるままゆっくりと姿を現したのは、まるで日に透けるようなシルバーヘアを持つ少年だった。
民衆はその美しさに息を呑み、口々に喜びの声を上げた。
その歓声のあまりの大きさに、ニコは息を詰め、思わず足を止めた。
それから胸元のロザリオをギュッと握ると、すぐに不安げな顔で兄を見上げた。
兄は黙ったまま、頷いた。
ニコもまた頷き返すと、勇気を振り絞ってその華奢な足で赤い絨毯の上へと踏み出した。
「ニコラスさまー!」
「花嫁さま!」
「なんてお美しい!」
そんな歓声が響く中、兄に手を引かれながら赤絨毯を進んでいく。
ニコはキョロキョロとあたりを見渡しながら、落ち着かない様子だ。
「兄さん、花嫁さん、どこかな」
「……前を向いて歩きなさい」
「花嫁さん、僕と同じお名前みたい。
かわいそう……」
「いいから、背筋を伸ばして」
「……う、うん。ごめんなさい」
「……」
テオは、人知れずため息をついた。
完全に嫌な予感が的中していることを確信し、胃がより一層重く感じられた。
馬車を降り、整えられた花壇と噴水の間に伸びる数十メートルの道を、民衆の声援を受けながら兄弟は行く。
ニコは不安そうな顔で手を引かれながら、それでも言いつけ通り、しっかりと前を向いて歩いた。
まるで見世物のようだとテオが辟易とし始めた頃、とうとう城門へと続く大きな石橋の前にたどり着いた。
ふとその横から小さく小刻みな息づかいが聞こえたので見下ろす。ニコだった。
——たったこれだけで、息が上がってしまうのか。
テオはやるせない気持ちで目を伏せながら、落ち着かせるようにその小さな背中を撫でてやる。
するとニコは、ふうっと息を大きく吐き、顔を上げて「えへへ」と笑った。
三度目のラッパの音が、鳴り響く。
声援もそれに合わせて引いていき、あたりが妙な静けさに包まれた。
テオはほとんど反射的に前へ向き直り、恭しく頭を下げる。ニコは一拍遅れ、慌てた様子で兄に続いた。
次の瞬間、明るく朗らかな声が響いた。
「ニコラス!」
名を呼ばれたニコが、思わず顔を上げてしまう。
すると、目の前に光るような金髪の、澄んだ空のような瞳を持つ青年が堂々たる様子で立っていた。
ニコが慌てて頭を下げようとすると、彼は目を細めながらわずかに首を横に振る。そして、民衆を見回しさらに声を張る。
「我が妻よ! ようこそ、王都へ。
王宮も、民も、皆君を歓迎する!」
弾けるような声援が、青い空に響き渡る。
フラワーシャワーの花びらが風に乗り、まるで羽根のように舞い降りた。
「ユリウス殿下、おめでとうございます!」
「お幸せに!」
すると、青年——ユリウスは、ニコに歩み寄り跪いた。
そして、ニコの緑色の瞳を真っ直ぐに見つめながらスッとその右手を差し出す。
ニコはというと、これ以上ないほど目を大きく見開いたまま、恐る恐る自分を指差しながら兄の方を見た。
兄は先程より一層青い顔で頷きかけ、しばらく考え込んだ後、やっと頷いた。
ニコはごくりと喉を鳴らし、差し出されたユリウスの手をもう一度見つめた。
そして息を詰めたまま、右手をユリウスの手にそっと乗せる。
ユリウスはニコを愛おしそうに見つめ、その手の甲にそっと口づけた。
その瞬間、ふわりと柔らかな風が巻き上がった。
ニコの手袋越しに小さな紋が浮かび上がり、淡く
緑色に光る。光はやがて風と共に白い花びらを誘い、二人を囲むようにくるくると舞った。
「……神の祝福だ」
ふと、ユリウスの後ろに控えていた年嵩の司祭が呟いた。
ニコは、とっさに兄を見る。
兄はさらに顔を青くして、今にも倒れそうだ。
ユリウスもまたわずかに眉を上げたが、すぐに目を細めて微笑んだ。
「神も、お二人のご成婚をお慶びになられています」
司祭はそうゆっくり告げると、二人に向かい祈りを捧げた。
それを合図に、民衆が湧いた。
「このご成婚は神意だ!」
「神の祝福だ!」
「ユリウス殿下に、万歳!」
「ニコラスさま、万歳!」
「アルヴェリア王国の未来に万歳!」
――ニコは、もう限界だった。
なりふり構わずにユリウスの手を振り払い、踵を返して兄に縋る。
「兄さぁん……」
その声は、今にも消え入りそうなほど小さかった。
見上げてきたその瞳は涙で滲み、今にも溢れそうだった。
テオはすぐにでも抱きしめてやりたい気持ちを抑え、その震える肩に触れた。
そして、苦渋の思いでそっとその手に力を込めた。
ニコの瞳が傷ついたように揺れ、涙がボロボロと零れ始めた。
「……今は、殿下の言うとおりに」
兄はその涙をぬぐってやりながら、努めて優しく言い、弟の背中を押してやった。
一歩前に出されたニコの横に、今度はユリウスが立った。そして肘を軽く曲げ、目配せをした。
ニコはそれをどこか恐ろしいものを見るようにしていたが、やがて恐る恐る手を伸ばした。
ユリウスとニコが、揃って一歩を踏み出す。
王都の民の祝福と興奮は頂点に達し、色とりどりの花びらが、次々と空に向かって投げられた。
時折ニコは、不安げに兄を振り返った。
兄は弟の後ろをついて歩きながら、そのたびに顎を上げて、前を向くように促した。
そうやって、まるで天から降り注ぐように美しく舞う花びらのシャワーの中、ニコとユリウスは王宮へ進んでいった。
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