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12-4. 最終話
——かわいい……。
ユーリは、腕の中で規則正しい寝息を立てているニコを眺めながら、もう何度目かわからない言葉を心の中で繰り返した。
「……すぅ……すぅ……」
——いやもうなにこの寝息。ほんとかわいい……。
銀色の髪が頬にかかっているのをそっと指先で払い、そのまま我慢できずに小さな唇へちゅっと口づけた。
「ん……むにゃ……」
ニコはほんの少し眉を動かしたものの、目を覚ます様子はない。
それどころか、もっとくっつこうとするようにユーリの胸元へ頬を寄せてきた。
ふっくらした唇が、まるでキスするようにユーリの胸に当たる。
その柔らかな心地よさに、思わず心が跳ねた。
——かわいい……。
夕べ、このお口と、たくさん——。
「…………」
ユーリは一人、ぼっと顔を赤くした。
——いや、朝から何を考えてるんだ、俺は。
そう自分を戒めながらも、視線はやっぱり腕の中のニコへ戻ってしまう。
昨夜、ニコは自分からここにいたいと言ってくれた。自分から手を伸ばして、触れてほしいと言ってくれた。
そして今、こうして、安心しきった顔で自分の腕の中にいる。
——……幸せだなあ。
そんなことを考えていると、ニコの長い睫毛がふるりと震えた。
「……ん……」
ゆっくりと若葉色の瞳が開く。
しばらくぼんやりとしていたその目が、すぐそばにあるユーリの顔を捉えた。
「……ユーリ?」
「おはよう、ニコ」
ユーリが笑いかけると、ニコも寝ぼけたまま、ふにゃりと笑った。
「おはよぉ……」
——起きたら、もっとかわいいー!!
そう思った次の瞬間、ユーリははっと我に返った。
「……ニコ、大丈夫?」
「なあに?」
「痛いところない?」
「だいじょぶだよ」
「ほんとに?」
「うん」
「無理してない?」
「もう、だいじょぶ……」
ニコはそう言ったすぐあとに、ちょこっとだけ俯いた。やはりどこか調子が悪いのかと、ユーリが即座に心配になったところで、ニコから「えへへ」という照れ笑いが漏れる。
そして、下腹をさすりながら小さく言った。
「けど……まだユーリが中にいてくれてるみたい」
その瞬間、ユーリの顔が真っ赤に染まり、イヤーカフが砕け散った。
「……またこわれたね」
「だ、大丈夫! 替えがあるから!!」
その後、二人で起き上がると、ユーリは一旦、昨夜脱がせた寝間着をニコに着せてやった。
その途中、ふと胸元に残った跡が目に入り、ユーリはまた頬を赤らめた。
「……ごめん」
「?」
「……跡になってしまった」
「わあ」
ニコは襟の間から自分の胸元を覗き、目を丸くした。
「花びらみたいだね!」
「……その反応は、天使が過ぎるでしょ」
それから、袖に腕を通した時、ふと右手首がニコの視界に入った。紋はない。
けれども、もうニコはちっとも気にならなかった。
だから、しっかり前を向いて言えた。
「僕、今日からまた、朝のお祈り、したい」
ユーリはふわりと微笑んで、頷いた。
「みんな、喜ぶよ」
「よしっ。
じゃあ僕、お祈りのお支度してくる!」
「えっ」
ニコは途端に元気に頷くと、背伸びをしてユーリの唇にちゅっとキスをした。
そして、呆気にとられるユーリを尻目に踵を返すと、そのまま駆け出していった。
「あっ、その跡、侍女に見られないように気を……」
ユーリはそこまで言いかけてから、ふっと笑う。
そして、遠ざかっていく軽やかな足音を聞きながら、幸せそうに呟いた。
「……まあ、いいか」
テラス前の前室に久しぶりに姿を現したニコを見た王妃は、「まあ!」と、驚いたように声を上げた。
「王妃さま!
ずっとおやすみしてて、ごめんなさいでした。
今日からまた、僕、お祈りします!」
「そうなの!元気になって、よかったわ〜」
ニコがそう言って頭を下げると、王妃はすぐに嬉しそうに微笑んで、両手を広げる。
ニコがその胸に飛び込むと、優しくぎゅっと抱きしめてくれた。まるで本当の母親にそうしてもらったような気持ちになって、ニコが「えへへ」と笑う。
その時、定刻を告げる教会の鐘の音が響いた。
ラッパの音が、すぐあとに続く。
ニコは王妃に頷いてみせ、ユーリと並んでテラスの前に立った。
久しぶりに姿を見せた王太子妃の元気な様子に、広場に集まっていた王都民の表情がぱっと華やいだ。
「王太子妃さまだ!」
「よかった、お元気になられたのね!」
「ちょっとあんた、出てきなさいよ!
王太子妃さまがお祈りなさるってよ!」
そんな声と共に皆がニコの復帰を喜ぶ中、ニコはユーリに手を引かれテラスの真ん中まで歩くと、前を向いて美しくお辞儀をした。
そして、青いロザリオにそっと手を添えて、ゆっくり瞳を閉じた。
「神さま、今日という日を迎えられたことに感謝いたします」
ニコの祈りに促されるように、広場の皆もまた祈るように手を組んだ。
あたりが心地よい静寂に包まれる。
「どうか、みんなが今日も無事に過ごせますように」
青いロザリオが光ることはなかった。
だが、誰もそんなことを気に留める様子もない。
皆一様に、ただニコの優しい祈りに耳を傾けていた。
その時、ふわりと若葉のような瑞々しい香りが漂った。ひと息吸い込むと、胸の奥まですうっと澄んでいくような心地がする。
続いて、風が吹いた。
若葉の香りを乗せ、足元から天へ向かって柔らかく吹き上がっていく。
「明日もまた、笑顔で会えますように。
神さま、みんなに力を貸してください」
ニコがそっと目を開けると、すぐに歓声が響き始めた。
「王太子妃さまー!」
「ありがとうございます!」
「今日も頑張れそうです!」
ニコは途端にぱっと顔を明るくして、ユーリを見た。ユーリが頷くと、笑顔で頷き返す。
「妃殿下ー!」
「はーい!」
そして、王都民の声に応えて、大きく手を振る。
ユーリもまた寄り添うようにして、ニコの横に立った——が。
「おかえりなさいませー!」
「はーい!ありがと……」
お返事に気を取られ、あまりにもテラスから身を乗り出すので、ユーリがその腰を支えてやった。
ニコは照れたように「えへへ」と笑い、ユーリもまた優しく微笑み返す。
そんな仲睦まじい王太子夫妻の様子を見た広場の皆は、より一層大きな歓声を上げた。
その時、さらにひときわ大きく風が吹き上がった。
その風は広場の木々を揺らし、王都の空高くへと舞い上がる。やがて風は王都を越え、アルヴェリア王国全土へと流れていった。
それから瞬く間に数日が過ぎ、とうとうテオが王宮を離れ、領に戻る日が来てしまった。
「思ったより……餞別をいただいてしまったな」
テオが最後まで手元に残していた鞄に、荷物をぎゅっぎゅと詰めながら、小さくぼやいた。
「兄さん、人気者だから」
「……意外すぎて胃が痛い」
「おなか、本当にだいじにしてね。
ちゃんと、おくすり飲んでね」
「あの薬、不味すぎて逆に胃が痛くなるんだよな」
「でも、飲まないとだめ」
「はい……」
何とかすべての荷物をしまい込み、テオは鞄の蓋を閉めようとする。だが、鞄が膨らみすぎてなかなかうまく閉まらない。
手で押しつぶしながら何とか蓋を合わせて、留め具を掛けようとした瞬間、ニコの手が静かにそれを制した。
テオが思わずニコの方を見る。
ニコは、鞄を見つめたまま俯いて、じっとして動かなかった。
——これを閉めたら、いよいよ兄さんが領に帰ってしまう。
ユーリとここに残ることを決めたのは、自分自身だ。ちゃんとこの日が来ることも、覚悟していた。
けど……だけど。
「……」
テオは小さく息を吐き、ニコの気持ちが整うのを静かに待った。
やがてニコは鞄を見つめたまま、ぽつりと言った。
「僕ね……土の魔力があるんだって」
「……調べられたのか?」
「うん……。
紋がなくなって、分かるようになったんだって」
「そうか、土か。俺と同じだな」
「兄さんも?!」
その言葉に、ニコは思わず顔を上げた。
兄とお揃いの力があることがわかり、いくらか寂しさが和らいだのか、嬉しそうに目を細めると、少し弾んだ声で続けた。
「でね、僕の魔力は、とくに植物とよく合うんだって。……だからね、僕、これから農業のお勉強をしようと思うの。
お勉強したことや、僕の魔力を、アルヴェリアのみんなの役に立てたいんだ。
だって、おなかがいっぱいになると、みんな幸せな気持ちになるでしょ?」
「……そうだな、それはいい」
テオは小さく微笑んで、ニコの頭を優しく撫でた。
「実はな……。
お祖母さまも土属性の魔力持ちだったんだ」
「……おばあさまも?」
「若い頃は、王宮で魔術師長を務めたほどだったそうだ。植物や農業に関わる知識と術に長けていて、日々王国内の畑を駆け回っていたと、子供の頃よく武勇伝を聞かされたな。
……ヴァレンティア領は今、国で一番農業が盛んだが、それもお祖母さまのおかげなんだよ」
「そうなんだ!
……おばあさま、お話してみたかったな」
「お前が生まれてすぐに亡くなってしまったからな……。だが、おばあさまが遺した本が、書庫にあるはずだ。帰ったら、探して送るよ」
「やったぁ! 兄さん、ありがと!」
それからニコは、視線を落としてゆっくりと言った。
「お祖母さま、全然覚えていないけど……お祖母さまの力、僕にもちゃんと伝わってるんだね」
「そうだな」
「離れてても、いっしょなんだね。
……兄さんとも、そうだよね」
「ああ。離れていても、気持ちは一緒だよ。
俺はいつだってずっと、お前の兄さんだし……お前は俺の大切な弟だ」
ニコは頷いて顔を上げ、「えへへ」と笑うと、少しだけ間を置いて、留め具からそっと手を離した。
「兄さん、僕もおてつだいする!」
そしてそう言うと、膨らんだ鞄を上からぎゅっぎゅっと押し始めた。
テオは小さく笑ってから、ニコと一緒に鞄を押し、何とか留め具を合わせるところまで持っていく。
ばちんと大きな音を立てて、ようやく鞄が閉まると、兄弟は顔を見合わせて笑い合った。
そして準備が整い、とうとうテオが出発する時刻となった。
部屋を出るとニコが自然と手を伸ばしてきた。兄弟は手をつなぎ、正門へ向かって共に歩き始める。
最初の頃は、使用人に声をかけられるたびに緊張して立ち止まってしまっていたニコだったが、今では元気に手を振り返し明るく返事をしている。テオは、その様子を口元を緩めながら見つめていた。
正門前には、すでにたくさんの人が集まっていた。
「……いやもう、ひっそりと出ていきたいのだが……」
「兄さん、やっぱり人気者だね!」
遠くから人だかりが見えたあたりから、テオは肩を落としてみぞおちを押さえる。
ニコは笑いながらそう返すと、こちらに気づいた皆に手を振った。
「みんなー!兄さんが、来たよぉー!」
わっと歓声が上がり、テオの顔が余計に青くなった。
侍女、侍従、衛兵、事務官……テオは世話になった面々と握手を交わしながら人だかりの真ん中を進んでいく。
ニコもまた、横からその様子をどこか誇らしげな顔で見ながら、兄と一緒に歩いた。
見送りの列の最後、馬車の手前では、ユーリが待っていた。
テオはユーリの前に立つと、軽く頭を下げる。
ユーリは微笑みながら一歩前に出ると、手を差し出した。
「テオ、色々とありがとう」
「こちらこそありがとう。ニコを頼むな」
「ああ」
テオはそれ以上多くを語らず、ただ頷くとユーリの手を取り、二人は固い握手を交わした。
握手が終わると、ユーリが胸を張って言う。
「そうだ、テオ。
お前への深いお礼の気持ちを込めて、広場まであの赤絨毯を敷いておいたぞ」
「……何でだよ」
テオは呆れた様子でため息をつき、肩を落とした。
げんなりとしながら正門の先へ視線を向ければ、見覚えのある赤絨毯が、本当に広場までまっすぐに伸びている。
そして、いよいよ馬車の前まで来ると、足を止めてニコの方へと向き直る。
そして、ニコの肩から腕をゆっくりと撫でると、その目を真っ直ぐ見ながら言った。
「ニコラス、結婚おめでとう。幸せになれ」
ニコは大きく目を開き、ぱちぱちと瞬いた後、破顔した。
「急にどうしたの!? へんな兄さん!」
「……そうだな、変な兄さんだな」
テオもまた、そんなニコにつられるように静かに笑った。するとニコは、テオに手を伸ばしてぎゅっと抱きつき、その耳元で囁いた。
「僕、今、すっごくしあわせだよ。
……兄さんの、おかげだよ。
ずっとずっと大好きだよ……ありがと」
ニコを抱きしめ返しながら、テオは言葉を詰まらせた。胸が一杯になって、うまい返しが見つからない。ニコを抱くその指先に、ただ力だけがこもる。
「……俺もだよ」
少しの間をおいて、テオはやっとそれだけ返し、そっと抱擁を解いた。
ニコの微笑みを見て、「これで良かったんだ」と思えた瞬間、ふっと心が軽くなった。
馬車に乗り込む寸前、テオはもう一度ユーリを、それから集まった皆を順番に見た。
そして、これまでで一番深く、長く頭を下げた。
「兄さーん! ばいばーい! またねえ!」
テオを乗せた馬車が発車すると、ニコは一番前で大きく手を振った。
馬車は赤絨毯の上を静かに進んでいく。
やがて馬車が見えなくなると、ニコは踵を返してユーリの胸に飛び込んだ。
そして、二人は微笑み合うと手をつないで王宮の中へと帰っていった。
正門が、静かに閉じられた。
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