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12-3.
「“おおむね順調”というのは数字にすると?」
「ええと……」
「ここ、前年との比較がない。
これでは判断できないな。出し直してくれ。次」
「お願いいたします」
「……この数値、本当に確認したのか?」
「は、はい」
「では、三頁目と五頁目の数字が合わない理由を説明してくれ」
「……すみません、持ち帰ります」
ユーリの執務机の前には、事務官たちによる長蛇の列ができていた。
「……おい、今日の殿下……いつにも増してキレッキレじゃないか」
「あぁ……やばい。帰ろうかな……」
ラウルが踏ん張ってくれていたとはいえ、ユーリが不在だった間、国政には少なからず遅れが出ていた。国王も危機を脱したとはいえ、まだ本調子にはほど遠い。
そんなわけでユーリは毎日非常に忙しく、今日もまた、次々に持ち込まれる大量の報告書を、物凄い勢いで処理していた。
その時、侍従が執務室に入室してきた。
「殿下」
「……今度は何だ。この列が見えんのか。並べ」
「申し訳ありません。ですが……ええと。
妃殿下がお見えになっております。
殿下のご公務が終わるまでお待ちになると仰っておりますが……その、少しご様子が気になり……。
すみません、出過ぎた真似を」
「……いや」
ユーリは光の速さで書類を置くと、立ち上がった。
「ここまでだ。残りは夕方に回す」
その言葉に、戦々恐々としていた事務官たちがほっと胸を撫で下ろした。
「ニコはどこに?」
「隣室で……」
「わかった。ありがとう」
ユーリはそのまま執務室を後にし、ニコが待つ部屋へと急いだ。
ニコの様子がおかしいという侍従の話に、ユーリは心当たりがあった。
紋が消えてから、ニコと二人で過ごす時間はずいぶん減っていた。おつとめの希望もない。
もちろん、顔を合わせればいつも通り元気そうに振る舞ってはいたが、その胸の奥で、王宮に居続けるべきかどうかをきっとずっと悩んでいたのだろう。
そんな中、昼前にテオから、ニコを連れ領に帰ると話があった。
——とうとう、直接「帰りたい」と言われてしまうのか。
そう考えると、ユーリの胸がずっしりと重くなる。
ニコがいる部屋まで、廊下の距離はほんの数メートル。
だが、今のユーリには、やけに遠く感じられた。
扉を開くと、ニコが窓辺の席で俯いているのが見えた。
「あっ、ユーリ……」
ニコはユーリの足音を察するとすぐに顔を上げた。
その頬が涙で濡れている。
だからこそ、ユーリは敢えていつもの通り穏やかな表情で歩み寄ると、その横に腰を下ろした。そして、ハンカチでその涙を優しく拭ってやった。
「おしごと中に、ごめんね」
「ちょうど終わったところさ!」
ユーリが明るく言うと、ニコは安堵したように息をついた。それから俯き、膝の上の拳に力を込めながら話し始めた。
「ユーリ、あのね……」
ユーリは「いよいよか」と身構えながらも、表情だけは穏やかなまま頷いた。
ニコはユーリのシャツにおずおずと手を伸ばし、ぎゅっと握った。それから少しの間を置いて、意を決したように言う。
「僕……ここにいたい」
てっきり帰ると言われてしまう覚悟を固めていたユーリは、一瞬固まって返事をしそびれた。
だが、ニコはそんなユーリの反応を待たず続ける。
「ほんとはね、今日まで紋が戻らなかったら……兄さんといっしょに帰ろうって決めてたの。
……兄さんにも、ちゃんと帰るよって言ったんだ。
だから、お荷物もかたづけなきゃって思って……」
ユーリは、シャツを掴むニコの手を包むように取って握った。ニコは応えるように握り返してくれた。
「けど、おかばんに全然はいらなくって。
どれか、おいていかなきゃって思ったけど、どれもおいていけなくて……」
「うん」
ニコはまた俯いた。その小さな手が震え始めた。
「そうやって考えてたら、お荷物だけじゃなくて、侍女さんも、衛兵さんも、王さまも、王妃さまも……ユーリも。みんな一緒がいいって思っちゃって。
でも、みんなは連れていけないから……だったら、僕がここにいたいって思った」
「うん」
ぐずっと鼻をすする音が響いた。
ニコの瞳から、涙がポロポロとこぼれ落ちていく。
ユーリは何も言わず頷いて、辛抱強くニコの次の言葉を待った。
「だけど、僕にはもう紋がないから、ユーリに守ってもらう必要がない。
祝福の力がつかえないから、なんの役にも立てない……ユーリの花嫁さんでいられない。それでも……」
そこでようやくニコは顔を上げて、ユーリを見た。
その緑色の瞳からは、とめどなく涙が溢れていた。
「僕、ここにいたいんだ、ユーリ。
だから僕、もっともっと、いろんなことをがんばる。いっぱい勉強もする。
きっと役に立てるようになる……。
だから、僕を、ここにおいてください。
ユーリの花嫁さんで、いさせてください」
——ニコが、ここにいたいと言ってくれた。
本当に帰ってしまうと思っていただけに、ユーリはその事実が何よりも嬉しかった。
もう、さっきまでの焦燥は感じない。
——ニコを抱きしめたい。
けれども、今じゃない。
ちゃんとニコの気持ちを受け止めて、ほぐしてからじゃないと、きっと伝わらない。
自分でも驚くほど気持ちが落ち着いている。
ユーリはまずはじめに、ニコの涙をもう一度ゆっくりと拭ってやった。
それからまっすぐその瞳を見つめると、ニコもまた反らさず視線を合わせてきた。
そして、これまで頷くばかりだったユーリが、初めて問いかけた。
「ニコは、俺のこと、好き?」
「もちろん、だいすきだよ」
「俺と一緒にいたい?」
「うん」
「それは、紋があっても、なくても?」
「うん、おなじ」
「じゃあ……もし俺が王太子じゃなくなってさ。
みんなやニコにとって何の役にも立たなくなったら……俺はニコの夫にふさわしくないと思う?」
「思うわけないじゃないか。
だって、僕はユーリが王太子さまだから好きなんじゃなくて、ユーリだから好きなんだもん。
それに、ユーリは王太子さまじゃなくなったって、みんなの役に立て……」
そこまで言って、ニコははっとした顔をした。
同時にユーリが口元を緩めて頷き、はっきりと言う。
「俺も、ニコと同じ気持ちだよ」
ニコが大きく目を見開いて、ユーリを見た。
そして、ユーリはそのままニコをそっと抱き寄せる。
「もちろん、勉強したいなら応援する。
でも、ここにいるために頑張る必要はないよ。
それは、ニコ自身のためにすることだ」
それは、久しぶりに感じたユーリの体温だった。
温かくて、いい匂いで、とびきり優しい。
ニコがその胸に頬を寄せると、ユーリはもう一度、ゆっくりと言った。
「愛してるよ、ニコ。誰よりも愛してる。
紋があるとかないとか、そんなの関係ない。
俺は、ニコがニコだから、大好きなんだよ」
その言葉を聞いた瞬間、ニコの脳裏に、忘れていた記憶が一気によみがえった。
——まだ隔離される前の、あの夏。
川上で、一緒にみつけた青い花畑。
手をつないで一緒に眠ったベッドの中。
そして、結婚の約束をした街の教会。
——そうだ。
ユーリは、紋が出る前からずっと、僕のことを大好きだと言ってくれていた。
そして僕も、ユーリのことが大好きだった。ユーリの花嫁さんになりたいって、ちゃんと思っていた。
……どうして、こんな大切なことを忘れちゃってたんだろう。
「……ふえっ。」
「……ニコ?」
「うわぁぁぁん……!」
突然、胸の中のニコが大きな声で泣き出したので、ユーリは一瞬焦ってしまった。
だが、泣きながらもぎゅっと抱きしめてきてくれるのが、まるで求められているようで嬉しくて、何も言わずに優しく受け止めた。
ニコは気持ちのまま、大きな泣き声を上げる。
「僕も、僕もずっとユーリのことが好きだったぁ……!」
「うん」
「花嫁さんになってって言われて、うれしかったのに……」
「うん」
「僕、わすれちゃってたの……」
「うん」
「うぁん、ユーリ、ごめんなさいぃ……!」
「……謝らなくていいんだよ」
「でも、でも……」
「いいんだ。俺もニコが花嫁さんになってくれるって言ってくれて、とても嬉しかったし……嬉しいよ」
「……ふえっ」
「ふふ、今日は泣き虫ニコだね」
「……っ!ユーリもだしぃ……っ」
「……そうだね、泣き虫夫婦だね」
やがてニコとユーリは顔を見合わせ、半分泣いて、半分笑うと、抱きしめ合った。
そして、どちらからともなく唇を重ね合った。
それは、お互いの『大好きだよ』が伝わる、これまでで一番甘くて、優しいキスだった。
一方、テオはすっかり片付いた殺風景な自室で、引き継ぎの資料をまとめていた。
ふと軽い足音が近づいてくるのに気がついて、顔を上げる。すぐにノックの音が響き、次の瞬間には扉が開いた。
「兄さぁん……っ!」
姿を現したのは、予想通りニコだった。
泣き腫らした顔をしているが、その表情はこれまでとは見違えるほど明るい。
——気持ちの整理がついたようだな。
テオはほんの少しの寂しさと安心感を抱きながら仕事の手を止めた。
「おかえり」
「うん!」
ニコにそう声をかけてから、窓際のソファーへと向かう。ニコはすぐに後をついて、腰を下ろした兄の横に並ぼうとした。だが、テオはそんなニコに向かい、ぽんぽんと膝を軽く叩いてみせる。
するとニコは顔を明るくして、大好きな兄の膝の上に向かい合わせで腰を下ろした。
「えへへ……」
テオは嬉しそうに自分の胸にくっついてくる弟の背中をゆっくり撫でながら、ほんの少しだけ過去に思いを巡らせた。
ニコは幼い頃から、本当に自分の膝の上が好きだった。
この子をこうやって膝に乗せて、絵本を読み、お菓子を食べさせ——時に叱り、悩みを聞いてやった。
——そんな日が、ずっと続くと思っていたが……。
どうやら、ユーリの元へ送り出す時がとうとう来たようだ。
テオは小さく息をついた。
それから、ニコに向かって穏やかに言う。
「兄さんは、いつだってお前の幸せを願ってるよ」
先に口火を切られたニコは、驚いたように兄を見た。テオは、次にそんなニコの頬を大きな手で撫でながら続ける。
「離れてたって関係ない。お前は俺の弟で、俺はお前の兄さんなんだから」
ニコはしばらくテオの顔を見つめていたが、やがて頷き、ふわりと微笑んだ。
「僕も、兄さんのこと大好きだよ。離れてても、ずっとずっと兄さんの弟でいさせてね」
「兄さんも、ニコが大好きだ。
ヴァレンティアは、お前の故郷だ。
いつでも帰っておいで。待ってるよ」
「うん、ありがと!」
「それから……兄さんも、ニコに会いたくなったらここに遊びに来てもいいかな」
「ふふっ、もちろん」
——もう、大丈夫だな。ニコも……俺も。
そう答えるニコを見て、テオは安心したように目を細めた。そして、膝の上の弟をもう一度だけ、ぎゅっと抱きしめた。
その夜のこと。
ニコは、元気に廊下を歩いていた。
すれ違った侍女たちが、久しぶりにご機嫌な様子の王太子妃を微笑ましく思いながら声をかけてくる。
「あら、妃殿下。おつとめですか?」
「うん!」
「まあまあ!
なら、美味しいお菓子はいかがですか?」
「フルーツもどうぞ!」
「でしたら、お茶もご用意しましょうね!」
「妃殿下、せっかくですから、こちらの新しい寝間着にしませんか? 先日、殿下が絶対似合うからとお選びになったものですよ!」
「あら!
それなら新しい香油もお付けしましょう!」
「それなら、妃殿下にお似合いの花束も作りましょうか」
「ふふっ。みんな、ありがとー!」
ニコは、いつの間にか侍女たちの大行列の先頭を歩きユーリの部屋へと向かっていった。
「……お前たちは、何をしているんだ」
ニコのノックを受けて部屋から出てきたユーリは、ずらりと並んだ侍女たちを見て、開口一番呆れた様子でそう言った。
「えへへ。みなさん、おねがいします!」
「かしこまりました〜」
「殿下、失礼致します〜」
「えっ、おい。俺の部屋だぞ」
「はい! すぐ済ませますね!」
そのまま侍女たちはユーリの部屋に代わり代わりに立ち入り、夜のお供のお菓子やお茶、ふわふわのクッションに、果ては気分が華やぐ香、ニコが大好きな花まで手際よく用意し、
「では、ごゆっくり〜」
「素敵な夜を〜」
と、満足げに言いながら軽やかに撤収していった。
扉がぱたんと閉まると、室内が急に静かになった。
そうなると急に二人は気恥ずかしくなってきてしまって、お互い照れながら笑い合う。
「……おいで」
「うんっ」
やがて、ユーリが両手を軽く広げる。
ニコは元気に頷くと、大好きなその胸の中に飛び込んでぎゅっと抱きしめた。
ソファーに腰を下ろし、ユーリにくっついて甘えながら大好きな本を読んでもらう、いつも通りの大切な時間。
ニコは、こんな風にまた過ごせること、これがこれからも続くことが嬉しくてたまらなかった。
ユーリの声、匂い、体温……そして抱かれている安心感。時折頭や背中を撫でてくれる大きな手が、気持ちいい。
そのうち、お腹のあたりも触れてほしくなってむずむずしてきたので、「撫でて」と言うかわりにユーリの手をそっとおへそのあたりに導いた。
ユーリは、すぐにニコの望み通り大きく温かい手で優しく撫で始める。
——なんだか、すごくドキドキして、きもちい……。
ニコはうっとりしながら、ユーリのシャツをきゅっと掴んだ。
ユーリに触れてもらうたび、身体中に「気持ちいい」が溢れて、止まらない。
読んでもらっている本の内容なんて、もうちっとも頭に入って来ない。
頭の中が、「もっとユーリに触ってほしい」という気持ちでいっぱいになる。
こんなことは、初めてだ。
その時ふと、ニコは『初めてのおつとめ』の時に、女官から習った内容を思い出した。
『愛する二人が、お互いにもっと触れ合いたいと自然に思えた時。その時が、身体を重ねる時です』
——僕は、もっとさわってほしい。
ユーリはどうかなあ……。
そう思うとすぐに、言葉が口をついて出た。
「ユーリ」
「ん?」
「……僕の体、もっとさわりたい?」
「えっ?」
「僕ね、ユーリにもっとさわってほしいの」
「えっ、あ……ええと……」
いきなりそんなことを聞かれたユーリは、思い切り動揺しながらニコを見たのち、赤面して答えた。
「はい、さわりたい……デス」
「よかったあ。じゃあ、今がその時だね!」
ニコはバンザイをしながらそう言うと、ぴょんとソファーから飛び降りた。
そして、ユーリに向かって手を差し出す。
「に、ニコラスくん?」
「ユーリ! しよ!」
「ええと……なにを?」
「からだをかさねるの!」
「へ?」
「? 知らないの、セッ……むぐっ」
「いや分かるけど! ニコの口からその言葉が出るのはなんか違うというか……!」
「……したくないの?」
「……えっ。いやっ、まあ……………したいです……」
ユーリはそう言うと照れたように笑って、ニコの手を取った。そして立ち上がると、そのまますっとニコを抱き上げて、その額にキスを落とす。
「……まったく。初めての時は、かっこよくエスコートしようと思ってたのに」
ユーリは、驚いた顔をするニコにそう言って、少しだけ拗ねたように肩を竦めて見せ、それでも嬉しそうに微笑んだ。
「ふふっ。ユーリは、いつもかっこいいよ」
ニコもまたそう言って、ユーリの胸に頬を寄せ笑った。
ユーリはそのままニコをベッドまで運ぶと、柔らかな寝具の上にそっと降ろした。
それから両腕をつき、ニコを包み込むようにゆっくりと身を寄せる。
——わっ、ちかい。
いつもよりずっと近くにあるユーリの顔に、ニコの胸がどきんと大きく鳴った。
「……怖くない?」
「うん、ぜんぜん!」
ニコは笑顔でユーリの首に腕を回すと、自分からその身体を引き寄せた。
するとユーリは、安心したようにふっと笑った。
そして、そのまま優しく唇が重なった。
最初は、触れるだけの軽い口づけ。
でも、一度離れて、また重なって——そうするうちに、少しずつキスは長く、深くなっていく。
——えっ……。
いつものと、ぜんぜん違う。
……なんか、すごい。きもちいい……。
ニコは夢中でユーリの首にしがみついた。
頭の中がふわふわして、身体から少しずつ力が抜けていく。
もっともっと気持ちいいのが欲しくなって、ニコは懸命にユーリの唇を追った。けれども、ユーリがゆっくりと、唇を離してしまう。
そして、そのまま額をこつんと合わせ、鼻先がつくほどの近い距離で、ニコの瞳を覗き込んだ。
「……ニコ、本当にいいの?」
「うん」
「ほんとに?」
「うん」
「今、やめてもいいんだよ」
「だいじょうぶ」
「途中で嫌になったら、すぐ言ってね」
「……もーっ」
あまりにも入念な確認がもどかしくて、ニコは少しだけ頬を膨らませると、自分からユーリの唇に、ちゅっと口づけた。
「僕、ユーリのこと、大好きだよ」
「……うん」
「だから、ユーリとひとつになりたいの」
その言葉に、ユーリが急に黙った。
でも、よくよく見ると、その目が少し潤んでいる。
「……泣き虫ユーリだ」
「泣くだろ、これは」
二人は顔を見合わせて、ふふっと笑うと、今度はどちらからともなく、もう一度唇を重ね合った。
その口づけは、今までで一番深く、長く続いた。
ニコは大好きなユーリの首に腕を回した。
そして、柔らかなベッドに、その身体がより深く沈んでいくのを感じながら、幸せそうに瞳を閉じた。
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