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12-2.
ラウルの法廷から、あっという間に十日が経った。
その朝、ニコは目覚めてすぐに右手首を確認し、「うん」と頷いた。
今日は、ラウルの刑の執行——ハルドへと発つ日だ。
ラウルにとっても、王宮の皆にとっても区切りとなる大切な日でもある。
だからこそ、ニコは密かに決めていた。
——今朝までに紋がもどらなかったら、兄さんと領に……ヴァレンティアのおうちにかえる。
ニコはそのまま身を起こし、日課の祈りを行った。
青色のロザリオは、もう光を放たない。
その後、いつも通り朝の支度を終えて朝食の間へ向かう。今日は、久しぶりにテオが同伴してくれた。
テオは正式にヴァレンティア家の跡を継ぐことが決まり、今週末には王宮を後にする。
そのため、ここ数日は出立の準備で忙しくなかなか一緒の時間が取れずにいた。
「……ニコ。
わかってるとは思うが、今日のラウル殿下の……」
「うん、お見送りでしょ。行かないよ」
ニコはあっさりとそう言うと、朝食の間の扉を開いた。
「おはようニコ! 今朝もとびきりかわいいね!」
中に入るや否や、ユーリの大きな声が響いた。
いつも通りの日常。
でも、それも残りはあと少しだけ。
ニコは少しだけ寂しさを感じながら小さく微笑むと、ユーリの前でくるりと回って一礼した。
ユーリは途端に真顔になって胸を押さえる。
「……危ない。
妻が可愛過ぎて胸が張り裂けたかと思った」
「お前、それ、もう本当に洒落にならんからやめろ」
そんなお決まりのやり取りを見つつ席についたニコは、ふと隣の椅子の上に大きな革の旅行鞄が置いてあることに気がついた。
「ユーリ、これ、なあに?」
ニコが問いかけると、ユーリがすぐに頭を抱えながら大きな声を出した。
「ああー! しまった!
私としたことが、従者に渡し忘れてしまった!」
冷めきった目で見てくるテオを横目に、ユーリは大げさにため息をついて肩を落とす。
「これがないとラウルが困ってしまうかもしれない……。だが、私はこの後すぐ会議で行けないしなあ。いやあ、困った、困ったなあ!」
「……」
ニコは旅行鞄をじっと見つめた後、ユーリの方を向いて言った。
「じゃあ、僕、もっていこうか?
今日は学校がお休みだから、だいじょぶだよ」
「本当かい?!それは助かるよ、ニコ!
ありがとう!!」
「うん!どういたしまして!」
お使いという役目を渡されたニコは、嬉しそうにそう言うと、「任せて!」と胸を張って見せた。
朝食後、ニコは大きな旅行鞄を両手で持ち、「ついでにこれもお願い」と手渡された小ぶりな革の巾着袋を長めの紐で首から提げながら北門に向かい歩き出した。
あまりにも重たそうなので、テオが
「手伝おう。兄さんに貸してごらん」
と申し出たが、ニコは首を横に振って譲らない。
「兄さんは、お見送りにいっちゃだめなんだよ!
僕はお使いだからいいけどね!」
そう言われてしまうと、ここ数日きつく見送り禁止を申し付けてきた身としては何も言い返せなかった。
とはいえ、こんな大きな荷物を持ち、一人で行かせるのは心配だ。
そこでテオは仕方なく、こっそり後ろからついていくことにした。
「よいしょ、よいしょ……」
ニコが朝食の間を出て廊下を渡り、階段の前にたどり着く。すると、一人の侍女が飛んできた。
「まあ、妃殿下! お持ちいたしますわ!」
「だいじょぶ、僕がラウルさまに持っていくの。
ユーリに、たのまれたの」
「左様ですか……では、階段の下まで私がお持ちしましょう。お足元がお見えになってないようですし、もし転んだりしたら、北門まで行けなくなってしまいますから」
「……それはこまっちゃうね。
うん、わかった!ありがとう!」
ニコはそう言うと侍女に鞄を渡して、無事階段を降りきった。
「よいしょ、よいしょ」
侍女と別れてもう少し進むと、今度は衛兵が寄ってくる。
「妃殿下、重そうですね。お持ちしますよ」
「だめだよ、僕がラウルさまに持っていくんだ」
「では、中庭までなら良いでしょう。
私は、そのまま休憩に出ますから。
落として足でも痛めたら、北門まで行けなくなってしまいますよ」
「……そっか。そうだね、ありがと!」
中庭ではギルが、その後はまた騎士団員が——ニコを助けようとする者は絶えることなく、先々で繋がっていく。
——俺がついていなくても、もう大丈夫そうだ。
少し離れた柱の影からその様子を見ていたテオは、目を伏せてふっと小さく笑い、そっとその場を離れた。
とうとう北門の手前まで来たニコは、最後に手伝ってくれた衛兵からカバンを受け取った。
ラウルの出立はあくまでも刑の執行であり、一般の使用人の立ち会いは禁じられているのだ。
ここから先は、ニコ一人で運ばなければならない。
「よーし、がんばるぞ!」
ニコはそう気合を入れると、重たいカバンを持ち直して、歩き出した。
ラウルの出立に際し北門に用意されたのは、馬車一台と御者一名という非常に簡素なものだった。
見送りの者はいない。ただ、刑の執行を見届ける法務官が一人控えているのみだ。
ラウルは北の塔から騎士団に連れられて、この北門へとやってきた。馬車の前で手錠を外されながら、一度だけ王宮を振り返って見た。
——王宮を見るのも、これが最後になる。
そう思ったが、不思議と感傷はなかった。
むしろ驚くほど気持ちが落ち着き、さっぱりした感覚さえある。
「……世話になった。ありがとう」
騎士にそう告げると、彼は何も言わずに頭を下げた。
するとその時、馬車の影からふわりと姿を現した者がいた。ラウルが大きく目を見開く。
「ラウルさま、ごきげんよう」
それは、元婚約者のソフィアだった。
「どうして、お前がここに」
ラウルは考えるよりも先に、そう言葉が出た。
「妃殿下が、お手紙をくださいました。
今日、ラウルさまが王都を出られる、と」
「……あいつ、機密情報を……」
「それから、ここの立ち入りの認可証も」
「……兄上」
思わず声を低くするラウルに、ソフィアはふふっと笑いかけながら歩み寄った。
そしてラウルの前に立つと顔を上げてその顔を見つめる。
「私もお供させてくださいませ、ラウルさま」
「……お前との婚約は、既に解消している。
共に来る義理はない。
もっとよい伴侶と、幸せになれ」
「あら!それは困りますわ」
「……何?」
するとソフィアはいたずらっ子のように微笑んで、ラウルを見上げながら返した。
「私、先日お見合いをしたのです。
ですが、ラウルさま以外の方との結婚は考えておりません、とお断りしたら、お父さまから勘当されてしまいましたの。
ラウルさまに連れて行っていただけなかったら、もう行くところがありませんわ!」
「……お前、私を脅すのか」
「脅しではございませんわ。ほら!」
そう言ってソフィアが胸を張り、父親である伯爵の直筆のサインと印入りの勘当を告げる書類を取り出し見せつけてきたので、ラウルは深いため息をついた。
「……好きにしろ」
「ふふっ、ありがとうございます」
ソフィアは、途端に満面の笑みを見せる。
ラウルが困ったように額に手を押し当てたところで、後ろから大きな声が響いた。
「ラウルさま! ラウルさまあ!
おわすれものだよー!」
その声に、ラウルが額に手を当てたまま、さらに肩まで落とした。
振り返ると、ニコが大きな旅行鞄を半分引きずって歩きながら手を振っている。
「もう、ラウルさまってば、うっかりさんだね」
「……私は何も忘れていないが」
ニコはなんとか旅行鞄をラウルに渡す。
ラウルはそれを軽々と持ち上げながら、首をかしげた。
「でも、ユーリがわたすのを忘れたって。
あ、あとこれもついでにどうぞだって」
さらにニコが、首から下げていた巾着をラウルに渡す。
大きさの割にずっしりと重いそれは結び口のところからわざとらしく封筒の先っぽがはみ出していた。
ラウルは、ため息交じりに封筒を開く。案の定、見慣れた兄の文字だった。
『昼食代だ。
リューネの街に着いたら、赤鹿亭に寄れ。
あそこの肉料理は絶品だ。干し肉も分けてもらえるぞ。何かと役に立つだろう。
それから、リューネの街には、腕のいい宝飾師がいるんだ。ついでに妻に結婚指輪でも買ってやれ』
改めて見た巾着の中身は、道中の食事と指輪代を払ったとしても、かなり余るほどの金貨が入っていた。
「……兄上」
読み終えたラウルはそう呟き、もう一度王宮を見上げ、静かに頭を下げた。
ほどなくして、出発の時間が訪れた。
法務官が馬車に乗り込むよう指示を出すと、ニコは名残惜しそうにラウルの袖を掴んだ。
「ぜったい、あそびに行くね」
「……兄上が許さんだろう」
「もう、ラウルさまってば!
妃殿下、ユリウス殿下がお許し下さるように、必ずハルドを素敵な場所にしますね」
「……うん。僕も毎日、おいのりするね」
「それは頼もしいですわ!」
そのままニコは、ぎゅっとラウルとソフィアにくっついて続ける。
「……いってらっしゃい。
ラウル兄さま、ソフィア姉さま」
ニコは、自然と口をついて出た言葉に自分で驚いてしまい顔を上げた。
ラウルとソフィアは思わず顔を見合わせた後、揃って優しく微笑んでみせた。
それからラウルは、ニコの頭を大きな手でがしがしと撫でると、ニコに向かって言った。
「……どこにいても、離れていても。
ニコラスは私の弟だよ」
その言葉が嬉しくて、ニコは半分泣きそうになりながら元気に頷いた。
「ばいばーい! またねえ!」
そうしてニコは、二人が乗った馬車が見えなくなるまで、ずっと手を振って見送った。
北門が完全に閉じられると、辺りがしんと静まり返った。
——僕も、兄さんにちゃんと言わなくちゃ!
残されたニコはぎゅっと唇を噛んで踵を返し、王宮に向かって駆け出した。
すっかり片付いた部屋の真ん中で、テオは小さく息を吐いた。
ベッドの上には、小さめの旅行鞄が一つ。
最終日、この鞄に仕事道具を詰め込めば王宮を去る準備が完全に整う。
もう少しでニコを王宮に連れてきてから、一年が経つ。慌ただしい毎日だったと今更ながらに思う。
一方で、ニコを置いていかなければならないことだけが心残りではあったが、もう心配はしていない。
ニコは、ちゃんとここに居場所がある。
ちゃんとここで、愛されている。
——ニコはもう自分の元を離れても、十分やっていける。
少しだけ感傷に浸りながら、テオがベッドから鞄を下ろした、その時。
「兄さぁん!」
扉のノックすらなく、ニコが部屋に飛び込んできた。
ラウルの見送りで何かあったのかと、テオは急に心配になって、弾丸のような弟を受け止めてやる。
するとニコは、いつも通りぎゅっとくっついた後顔を上げ、しっかりとした口調で兄に言った。
「僕、決めたよ。
ヴァレンティアのおうちに帰る。
兄さんと、帰る!」
テオは一瞬面食らった顔をして、ニコを見下ろした。けれども、その緑色の瞳に強い意志が宿っていることがわかると、穏やかに頷いた。
「……そうか。では、急いで荷造りをしないとな」
ニコは頷くやいなや、ぱっとテオから離れた。
「僕も荷造りしてくる!
持ってきたおかばんがあるから、すぐ終わるよ!」
「……いや、あの鞄では小さすぎでは……」
そして、テオの言うことを待たず、踵を返し部屋から勢いよく飛び出していった。
その後いくつかの公務を終えたテオは、大きめの旅行鞄を二つ持ち、ニコの部屋を訪れた。ノックをしても返事がなかったので、そっと中に入る。
すると、ニコが荷物が散乱した床にぺたんと腰を下ろし、開かれたままの籐編みの鞄の前で途方に暮れていた。
テオが入ってきたことに気がついていないのか、床の荷物を拾って一つずつ鞄に入れていく。
学校の制服、お気に入りの本、手紙、それから花の風車などなど。
「よいしょ、よいしょ」
山のようになった荷物の上へ、最後に祭壇道具を乗せて、なんとか鞄を閉じようとするのだが、当然閉じるはずもない。
ニコは項垂れて、それからまた荷物を外に出し始めた。
今度は服を丸めたり、手紙を隙間に押し込んでみたりとなんとか工夫してかさを小さくしようと試みているようだが、どう考えても無理だ。それに、まだその周りには荷物がたくさん残っている。
「……どうしよう」
ニコが、ぽつりと呟いた。
「へらさなきゃ……でも……」
この籐編みの鞄は、ニコが隔離される前に、いつもお出かけ用に使っていたものだった。
着替えを一つと、お気に入りの絵本、それからおやつを入れればいっぱいになってしまうほどの小さな鞄。
王宮には、まだ幸せだった幼い頃の思い出がたくさんあるこの鞄に、祭壇道具だけを詰め込んで来た。
ニコが他に持っていきたいものは何もないから、大きな鞄はいらないと首を横に振ったあの日のことを、テオはまるで昨日のことのように思い出す。
——ずいぶん、荷物が増えたな。
テオは小さく口元を緩めながら、ニコの横に膝をつく。
それでようやく気がついたニコは、兄に少しだけよりかかり、すんと鼻を鳴らした。
すぐにもう一度、気を取り直したように荷物を鞄に入れ始める。
今度は一つずつちゃんと見返して、入れるか、残すか考えて——首を横に振ってから、鞄に入れていく。
テオは黙ったまま、そんなニコを見守った。
だが、半分も入らないうちに、鞄の上に積まれた荷物は山のようになってしまった。
無理だと察したニコが、手を止める。
「……っ」
ぐず、と鼻を鳴らす音が静かな室内に響いた。
そのまま俯いてしまったニコの表情は、テオからは見えない。
だが、手を止めたまま呆然と荷物を見つめている様子から、その気持ちが痛いほど伝わってきた。
「はいらない……」
やがて、ニコが震える声で呟いた。
その頬に、一筋の涙が伝う。
「どうしよう……帰らなきゃなのに……。
おいてくの……えらべない……」
テオは持っていた鞄をそっと脇に置き、優しくニコの背中を撫でてやった。
「……ニコの今の気持ちを、ユーリに話しておいで」
そしてそう言うと、ニコはもう一度だけ鞄のふたを荷物ごとぎゅっと押した。もちろん、閉まらない。
ニコは袖口で涙を拭い、頷いた。
そして立ち上がり、そのまま部屋から駆け出して行く。
テオはその遠ざかる足音を聞きながら、鞄のふたをゆっくりと開いた。
そして、鞄の中身を一つずつ丁寧に元の場所に戻していった。
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