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プロローグ-1
「北の国へ嫁げ。お前に残された価値は、この婚姻だけだ。──失敗すれば、この国にお前の居場所はない」
十四年ぶりに塔から出され、父の待つ謁見の間へ通されたかと思えば、最初に告げられたのはその言葉だった。
赤い絨毯の先には玉座があり、その左右には文官や武官が整然と並んでいる。幼い頃に見たことがあるはずの光景なのに、塔で過ごした歳月が長すぎたせいか、自分とはまるで縁のない場所へ迷い込んだような心地がした。父の姿を見るのも久しぶりだったが、その眼差しは息子へ向けるものではなく、政務の一つを片づけようとする王そのものだった。
どうして呼ばれたのだろうと、ここへ来る道すがら何度も考えていた。
塔から出るよう命じられたのは初めてだった。長いあいだ原因のわからなかった自分の身体について、なにかわかったのかもしれない。もう一度、城で暮らせるようになるのかもしれない。なにか、政務や軍務などの仕事を任されたりするのだろうか。そう思ったセレンはいつの間にか、広間に向かう足を早めていた。
けれど父が求めていたのは、自分ではなかった。
「グランディオはアルファ中心の軍事国家だ。和平の証として婚姻を望んでいる。お前は王族として、その役目を果たせ」
父の声は広い謁見の間へ静かに響く。大きな声でもないのに、父の声はセレンの鼓膜をびりびりと震わせた。
「オメガとは子を成し、国を繋ぐために生まれるものだ。このルミナリア王家の中でオメガが生まれたのは初めてだが、本来ならお前も、そのために育てられるはずだった」
父の、感情のない目がセレンへと向けられる。思わずびくりと体が震える。
「だが、お前には発情期が来ない」
広間は静まり返った。
誰も驚かなかった。この場にいる者は皆、自分の事情を知っているのだとわかった。
「番も持てず、子も成せないオメガに王族としての価値はない。それでも王家の血だけは利用できる。だから嫁げ」
父の言葉が途切れると、それまで静まり返っていた列の後方で、小さく囁き合う声が聞こえた。
「番も持てぬオメガを送るとは……」
「向こうもお気の毒ですな」
「いや、それでも王族であることには意味がある。血筋さえあれば外交の駒にはなる」
誰かが喉の奥で笑いを噛み殺した。途端に、恥ずかしさでかっと体の奥が熱くなる。
「お静かに。殿下に聞こえますぞ」
「失礼。十四年も塔へ閉じ込められていたお方だ。今さら聞いたところで変わりますまい」
くすり、と笑いが広がる。
聞こえている。だがセレンはいつも猫背がちな背中を、普段よりうんと伸ばして前を見ていた。
塔へ移されて間もない頃なら、きっと胸が苦しくなっていただろう。どうして自分だけ王族の中で唯一のオメガで、どうして発情期が来ないのか。考えすぎて眠れない夜もあった。けれど十四年という歳月は、セレンの痛みをすっかり慣れさせてしまっていた。
だから、今さら反論しようとは思わない。父の言葉も、家臣たちの囁きも、自分がここへ呼ばれたことへの答えでしかなかった。
「向こうには、お前は病弱ゆえ人前へ出られなかったと伝えてある。塔で暮らしていた理由も、公務へ出なかった理由も、そのように説明済みだ。余計なことを口にするな」
「……承知いたしました」
それしか答えようがなかった。第一王子として産まれながらも王位継承者候補からも外され、公務に出ることもなく日がな塔の中で無為に過ごしていた自分に、ようやく与えられた役目だ。
役目を、果たさなければ。国益を産み、民を守ってこその王族だ。セレンの中に残っていた第一王子としての自覚と誇りを胸に父を見据えると、父は小さく鼻を鳴らした。
「幸い、グランディオも了承済みだ。この婚姻さえ滞りなく終われば問題はない」
その言葉を聞いて、セレンは胸の奥がわずかに軽くなるのを感じた。
病弱だと言われ、十四年間塔で暮らしていた王族であることを知ってなお、この婚姻を受け入れてくださった。自分の存在そのものを拒まれなかったのだと思うと、冷え切っていた胸のどこかへ小さな灯がともるようだった。
「せいぜい役に立て」
それきり父は口を閉ざした。話は終わったらしい。セレンは頷いたが、父王はもうこちらを見ていなかった。
近衛兵に促されて謁見の間をあとにすると、セレンは長い廊下を歩きながら窓の外へ目を向けた。
庭では侍女たちが笑いながら花壇の手入れをしている。噴水の水が陽の光を受けてきらきらと輝き、その向こうでは幼い王族たちが木剣を振って遊んでいた。
塔の窓からは見えなかった景色だ。だからだろうか。こうして自分の足で歩きながら眺めると、まるで知らない国へ来たような気持ちになる。
自分にも、こんな景色の中で暮らしていた頃があったのだろうか。
思い出そうとしても、幼い日の記憶はもう霞がかっていた。
三日後には北へ向かうと聞かされても、不思議と涙は出なかった。
部屋へ戻り、荷物をまとめようとして見回すと、持って行けるものは驚くほど少ない。一冊の本と日記帳、それに着替えがわずかにあるだけで、十四年という時間が鞄一つへ収まってしまうことに、セレンは少しだけ胸が締めつけられた。
それでも、これから行く国では、自分にも役目がある。
その役目を果たせば、少なくとも誰かに必要とされる場所で生きていけるのかもしれない。
そんな淡い期待だけを胸へしまい込みながら、セレンは静かに旅支度を始めた。
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