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プロローグ-2
馬車は人目を避けるように早朝の城門を抜けた。
見送りの列もなく、門兵だけが形式通り敬礼を送る。市場へ向かう人々は王家の紋章が描かれた馬車を見ても、一瞥するだけで足を止める者はいない。
今日、この馬車へ第一王子が乗っていることを知る者はほとんどいなかった。
馬車が城門を抜けると、石畳を叩いていた車輪の音がやがて土を踏む柔らかな音へ変わった。揺れも少しだけ大きくなり、窓の外の景色がゆっくりと流れていく。
セレンは窓枠へ手を添え、その景色から目を離せなかった。
塔の窓からは見えなかった城下町が、今はすぐ目の前にある。朝早いというのに市場には荷を積んだ荷車が並び始め、店先では果物や工芸品を並べる者や、桶へ水を汲む者が忙しなく行き交っていた。子どもたちの笑い声が風のように馬車とすれ違い、犬がそのあとを追い掛けていく。
同じ国に生まれたはずなのに、自分はそのどれ一つとして近くで見たことがなかった。民はこんな営みの中で支え合い、笑いあっているのかと、そんな当たり前のことにさえ胸の鼓動が速くなる。
やがて馬車は城下を抜け、街道へ出た。
畑には切り株に腰掛けて話をする男女や、枯葉をくべた火にあたる老人、その向こうでは羊を追う少年が杖を振っている。落ち葉と共にさらさらと流れる小川には冬の柔らかな陽光が反射し、遠くには薄青に霞んだ山並みが続いていた。
塔から見える空は四角く切り取られていたが、ここでは空がどこまでも広がっている。
セレンは何度も窓へ顔を寄せ、移り変わる景色をじっと眺めて過ごした。向かいへ座る従者は最初こそ驚いたようにこちらを見ていたが、やがてなにも言わなくなった。
ふと、足元へ置かれた小さな木箱が目に入った。今まで気付かなかったが、蓋には王家の紋章が刻まれている。
箱をそっと開けると、小ぶりな焼き菓子がいくつも並び、ほのかな甘い香りが立ちのぼった。
セレンは箱を見つめ、それから従者へ視線を向けた。
「あの、これは、食べてもよろしいのでしょうか」
問い掛けた瞬間、従者はきょとんとした顔になった。
「……殿下のお召し物や旅の品と一緒に用意されたものですが」
「私のため、ですか」
「はい。お好きな時に召し上がっていただくよう仰せつかっております」
好きな時に。
その言葉がすぐには飲み込めず、セレンは箱と従者の顔を交互に見た。それからセレンは小さく頷き、指先で恐る恐る一つだけ摘まみ上げた。
口へ運ぶと、ほろりと崩れた生地の甘さがゆっくりと広がっていく。
「……美味しい」
思わず漏れた声は、自分でも驚くほど小さかった。
もう一つ手を伸ばそうとして、ふと指先が止まる。
一日に二つ食べてもよいのだろうか。
……食べたら、なくなってしまう。
それが惜しくて迷った末に箱を閉じると、その様子を見ていた従者が小さく口元を緩めた。
「お気になさらず。北までは長旅ですから」
その言葉に、セレンは照れくさそうに頷いた。
「|発情期《ヒート》が来るまでに着けばいいのですが……」
次いで、侍女はそんなことを口にした。だが乗り合わせていたもう一人の侍女に袖を掴まれ、素早くなにかを耳打ちされる。すぐに青ざめた顔をした侍女が慌てて頭を下げた。
「しっ、失礼しました」
そしてそんな謝罪の声も飛んできた。セレンは、口にした菓子から味がなくなっていることに気が付いた。
「別に、構いません。……慣れてますので」
菓子を飲み下したあとで微笑みながらそう言うと、侍女はますます頭を低くするばかりだった。
箱を膝へ抱え直しながら再び窓の外を見ると、馬車はもう振り返っても城の見えない距離まで進んでいた。
これから向かう国がどんな場所なのかは、まだなにも知らない。
怖くないといえば嘘になる。けれどそのぶん、初めて見る景色もまだあるのだろうと思う。そう思うと、少しだけ胸が踊った。それでも父の「役目を果たせ」という言葉が、セレンの胸の中で静かな重みを持った。
婚礼のための行列は、数日おきに宿場で休息を取った。
その日も馬を休ませるため、昼過ぎからしばらく停泊することになった。
王族は万が一の敵襲に備え、家族といえど別で部屋を取ることになっていた。セレンには小さな部屋を割り当てられたが、落ち着かずに外へ出た。宿の裏手には小さな中庭があり、そこで湯を飲みながら、静かに本を読んでいた。
しばらくすると、近くから話し声が聞こえてくる。
「しかし気の毒だな」
「誰がだ」
「嫁ぐ方だよ。相手はあの暴君王子だぞ」
従者たちの声だった。ページを捲ろうとした手が止まる。
「暴君?」
「ああ。気に入らない相手は斬る。戦場じゃ敵味方問わず恐れられてる。小国を滅ぼしたって噂もあるぞ」
「しかも、前の婚約者は死んだ。斬り殺されたって噂だが」
「殿下の激しいご寵愛に耐えられなかったって話じゃなかったのか」
「どうだかな。なんにせよ気に入らない者はみんな斬るというぞ」
「どちらにしろ、先が思いやられるな」
笑い声が混ざる。セレンは視線を本へ戻した。
……暴君。
その噂はどれも恐ろしいもので、聞くに耐えない物もあった。
セレンは次のページをなかなかめくれないまま、嫁ぎ先の王子について考えを巡らせた。
よもや、父王はその噂を聞いて、それを承知したのだろうか。
……なぜ、暴君に嫁ぐのが自分だったのだろう。
妹の第四王女リネアは今年で十八になる。適齢期でいえば、彼女が最適なはずだった。
あまり考えたくないことが浮かんだ瞬間、セレンの顔からさっと血の気が引いた。それでもこんな役立たずな王子だと知りながら、婚姻を受け入れてくださった。
もちろん、同盟のためなのだろう。だが妻として迎える以上、まったく望まれていないわけではないのかもしれない。
恐ろしい人だとしても、粗相をしないよう慎ましくさえいれば、少しは穏やかに暮らせるのではないだろうか。
そう自分に言い聞かせたあとで、セレンは小さく苦笑した。
考えるだけ無駄だ。自分に選ぶ権利などなかったように、これもまた、上から決められたことの一つに過ぎない。
期待してはいけない。
期待すれば、失った時に苦しくなることを、もう知っている。
セレンは再び本へ視線を戻す。けれど先ほどまで読んでいたはずの文字は、なかなか頭に入ってこなかった。
中庭を渡る風が、少しだけ冷たかった。
北へ進むにつれて気温は下がり、十四日後、婚礼の一行はグランディオへ到着した。
ついてからも、休む暇はそれほどなかった。控え室へ通されたセレンは、白いシルクの礼装を着せられ、金の髪飾りとヴェールをつけられた。仕上げに香水まで振りかけられ、思わず目をしょぼしょぼさせる。
王と王妃は、来なかった。おそらく別の控え室で身なりを整えている頃だろう。今生の別れになるかもしれなかったが、会いに行く勇気はなかった。当たり前だ。オメガということで祝福を受けたのに、適齢期になっても発情期が来ない。これでは世継ぎが望めない。魔法も強くない。両親が失望するのも無理はない。
セレンはふうと息をつく。呼ばれるまで本でも読んでいよう。
そう思ったその時だった。
「きゃあああぁ!!」
ふと、部屋の入り口から悲鳴が上がった。はっとして顔を上げると、腰を抜かしてへたり込んでいる従者と男が対面しているのが見えた。セレンは思わず立ち上がる。
ドアの前には、黒髪の、血まみれの軍人が立っていた。
背は高く、外套の下には鎧を着込み、腰には剣が下がっている。顔の半分は血で塗れ、足元にはぽつり、ぽつりと赤い雫が垂れ落ちていた。従者が悲鳴を上げた原因はほぼこれだろう。粗く血なまぐさい匂いの中、赤い瞳が不機嫌そうにぎろりと部屋全体を見渡す。
──途中、ヴェール越しのセレンと目が合う。
彼はセレンを見つめ、それからわずかに眉をひそめた。
「……部屋、間違えた」
低く単調な声が聞こえた。思ったより普通に喋る。そう思ってセレンが瞬きするや否や、男は即座にドアを閉めた。重い足音が遠ざかっていく。
途端に訪れた静寂に、従者もセレンも思わず拍子抜けした。
まさか、あれが第二王子なのか。暴君と、従者たちが噂していた男。
セレンの中では、もっと恐ろしい人物を想像していた。
だが実際に見て最初に浮かんだのは恐怖ではなく、自分とは全く別の世界を生きている人間だ、ということだった。
腰の抜けて立ち上がれなくなっていた従者に手を貸して、セレンは婚礼の儀の準備を進めることにした。
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