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1.政略結婚は突然に-1
発情期の来ないオメガに、王子である価値はなかった。
だから父は、十四年間、私を城の奥へ閉じ込めた。
けれど役立たずの私にも、たった一つだけ価値があった。
──敵国に嫁ぐことだ。
◇ ◆ ◇
ステンドグラスから差し込む冬の日差しと魔石の光が、高い天井を照らしている。
灰色の石造りの大聖堂に、大司祭の声が朗々と響いた。
「リヴァル・ブレイズ・グランディオ」
「はい」
隣から重く低い声が返る。
「セレンディウス・シエル・フォン・ルミナリア」
「……はい」
自分の名だと気づくのが一拍遅れた。
「汝ら、互いを生涯の伴侶と認め、これを守ることを誓うか」
「誓います」
「……誓います」
声がわずかにずれた。隣に立つ男の眉がぴくりと寄る。
──間違えた。
数刻前に教わったばかりの作法を頭の中で辿り直しながら、セレンは姿勢を正した。誓いの言葉も、返事をする場所も覚えていたはずなのに、最初から遅れてしまった。
怒らせただろうか。
隣を窺うと、男はすでに正面を向いていた。咎められることもない。
セレンは重ねた袖の中で、指先に力を込めた。
この婚姻は、失敗させてはいけない。
「ここに契りを交わし、証を示せ」
大司祭の声に合わせて、ヴェールが上げられる。
セレンはそこで初めて、夫となる男の顔を真正面から見た。
鐡 のような黒い髪に、燃えるような赤い瞳。背が高く、礼装の上からでも鍛えられた身体つきがわかる。眉間には先ほどから皺が寄ったままだった。
怖そうな人だと思った。
道中、従者たちが話しているのを聞いた。北の軍事国家グランディオの第二王子は気性が荒く、戦場では敵味方から恐れられる暴君だという。気に入らない者を斬り、前の婚約者まで激しい寵愛で死なせたという話もあった。
今朝も婚礼の支度をしていた従者から、粗相のないように、声を荒らげられても口答えをしないようにと念を押された。
赤い瞳に見据えられると、その話の数々が頭に浮かぶ。けれど、先ほど誓いの言葉が遅れた時には、眉を寄せられただけだった。
果たしてこの人の妻として、やっていけるだろうか。
セレンは目を閉じた。
夫婦になる以上、いずれオメガとして求められることもあるのだろう。けれど、自分には発情期 がない。子を成せるのかもわからない。
それでも、そんな自分でもいいと、彼は望んでくれた。
そう思った途端、薄いベールで仕立て上げられた衣装が、たちまち重く感じられた。
それでも目をぎゅっと閉じたまま、口付けを待つ。
やがて、唇に冷たくて、柔らかい感触が触れた。
焦げたような熱と鉄錆のような匂いを感じたのもつかの間、それはすぐに離れて行く。
……終わり?
もっと、恐ろしいものを想像していた。痛くても耐えなければならないと思っていたのに、そんな覚悟をする必要すらなかった。
セレンは目を開ける。そして隣に立つ男の横顔を見た。
眉間に皺を寄せた顔は不機嫌そうで、愛想もない。けれど少なくとも今のところ、彼は大人しかった。単に式の最中だからなのか、それともそれ以外の理由なのか。
ㅤセレンにはまだ、彼の考えていることまではわからなかった。
婚礼の儀を終えると、二人ははらはらと降り注ぐ花吹雪の中を歩き、並んで大聖堂のバルコニーへ出た。
外へ踏み出した途端、眼下の広場から歓声が押し寄せる。これほど大勢の人間から同時に見られた経験などない。
教えられた通りに振る舞わなければ。
姿勢を整えたところで、歓声の中にざわめきが混じり始めた。隣の者と顔を見合わせ、セレンを指してなにかを話す者もいる。
なにか、間違えただろうか。立つ位置も姿勢も、教えられた通りのはずだった。
歓迎されていないのかとも思ったが、罵声が飛んでくるわけではない。どうやら、自分がここにいることそのものに驚かれているらしい。
理由はわからなかった。
セレンはせめて教えられたことだけは間違えないよう、グランディオの市民へ微笑みかけ、手を振った。
答えを知ったのは、婚礼を終え、二人で控え室へ戻ったあとだった。
控え室へ入ると、人の目がなくなったぶん、セレンはようやく少しだけ息をつくことができた。
改めて視線を向けると、リヴァルは思わず見入ってしまうほど整った顔立ちをしていた。鋭い赤い瞳も、通った鼻筋も、冷たさを感じさせる輪郭さえ不思議なほど均整が取れている。それなのに眉間には皺が寄ったままで、今にも誰かを叱りつけそうなほど不機嫌そうに見えた。
……お美しい方だ。
そう思った途端、自分が夫の顔をじっと見つめていたことに気付いた。それと同時に、リヴァルがこちらを振り向いた。
赤い瞳と目が合い、セレンは咄嗟に顔を背ける。
しまった、見過ぎていた。
胸の内で小さく反省したところへ、不意に彼が口を開く。
「第四王女という話だったが?」
「……第四王女」
思わず小さく繰り返す。
妹のリネアのことだ。
そこでようやく、いくつものことが繋がった。
広場のざわめき。目が覚めて朝食を受け取りに行った先で荷物と共に突然馬車に詰め込まれ、行き先を尋ねても「北へ」としか答えなかった従者たち。本来なら十四日はかかる道を、休息まで削って十日で走ったこと。
望まれていたのは、自分ではない。
「あ……第一王子です」
「それは見ればわかる」
「も、申し訳ございません」
謝った直後、別の言葉が頭をよぎった。
帰される。
心臓が大きく脈打った。
ようやく、自分にもできることがあったと思ったのに。それすら、初めから自分に与えられた役目ではなかった。
第一王子として生まれながら、十歳の頃にオメガと判明した。王家にオメガが生まれたのは初めてだった。だから、王位を継ぐことはできなかった。
発情を迎えるはずの年になっても、なにも起きなかった。 医師たちは何度も診察を重ね、やがて父は、セレンを塔へ移した。魔法も強くはなかった。
けれど、婚姻なら。
自分がグランディオへ嫁ぐことで両国が結ばれるのなら、まだ役に立てる。
子は成せないかもしれない。それでも夫となる人に受け入れてもらい、ここで求められた役目を果たす。それだけは、きちんと務めなければならない。それなのに、もしここで彼の機嫌を損ねてしまったら。
また、塔へ戻るのだろうか。朝食を受け取り、本を読み、日が暮れれば眠る。明日も、その次の日も。
そう思うと、胸がきゅっと締め付けられた。
それだけではない。グランディオは第四王女との婚姻を前提に話を進めていた。それなのに、なんの説明もなく別の王族が送られてきた。これは自分一人が帰されれば済む話なのだろうか。
……下手をすれば、同盟そのものがなくなるかもしれない。
その時、婚礼前の控え室で見た男の姿が浮かんだ。
支度の途中、従者の悲鳴に顔を上げると、開いた扉の前に黒髪の軍人が立っていた。外套の下には鎧を着込み、顔の半分を血で濡らしている。
男は部屋を見渡し、ヴェールをつけたセレンと目が合うと眉を寄せた。
「……部屋、間違えた」
それだけ言って、扉を閉めた。
あれが、リヴァルだった。
今は血も落とされ、怪我をしている様子もない。あの血は彼自身のものではなかったのだろう。
この婚姻が壊れれば、次にこの人が向かう場所がルミナリアになるかもしれない。
国境に暮らす民がいる。兵士がいる。城には父も母も、弟や妹たちもいる。
それだけは駄目だ。
「わ、私が申したのです」
声が上擦った。
リヴァルがこちらを見る。
「ぜひ、貴方の元へ嫁ぎたいと……私が、そう申しました」
返事はなかった。
嘘だと見抜かれたら。騙したのかと怒鳴られたら。婚姻をなかったことにすると言われたら。
それでも、ここで引くわけにはいかない。
やがて、リヴァルが鼻を鳴らした。
「まあいい。誰が相手でも構わん。婚姻そのものに興味はない」
「……よろしいのですか」
「勘違いするな」
リヴァルは一歩近づき、セレンを見下ろした。
「お前を選んだわけじゃない。ただ、婚姻を取りやめる理由もない。それだけだ」
「……はい」
やはり不機嫌そうだった。けれど、怒鳴られなかった。婚姻をなかったことにするとも、ルミナリアへ帰れとも言われない。
誰でも構わない。
本来なら喜ぶような言葉ではないのかもしれない。それでも今は、その言葉に救われた。
リヴァルは踵を返しかけ、ふと足を止めた。
「動くな」
「は、はい?」
セレンが見上げると、リヴァルは無言で手を伸ばす。セレンは咄嗟に目を閉じて身を固くした。
ふと、髪をわずかに押したような感覚があった。恐る恐る目を開くと、彼の指が白い花弁を一枚つまみ上げていた。
「付いてた」
それだけ言って花弁を払い落とし、今度こそ部屋を出て行く。物々しい足音が遠ざかる。
扉が閉まってから、セレンはそっと自分の髪へ触れた。
……違う。
暴君だと聞いていた。気に入らなければ怒鳴り、力で従わせる。そんな姿を、想像していた。
もしかして、お噂とは違う方なのだろうか。そんな考えが胸をよぎる。
けれどすぐに首を振った。まだ、会ったばかりだ。
それなのに、どうしてか胸がもやもやする。
「──あ」
セレンはそこで、自分が初対面の夫に嘘をついたことを今更思い出した。
「……どうしましょう」
それでも、帰れと言われなかったことに、安堵している自分がいた。
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