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1.政略結婚は突然に-1

 ステンドグラスから差し込む冬の日差しと魔石の光が、高い天井を照らしている。  灰色の石造りの大聖堂に、大司祭の声が朗々と響いた。 「リヴァル・ブレイズ・グランディオ」 「はい」  隣から重く低い声が返る。 「セレンディウス・シエル・フォン・ルミナリア」 「……はい」  自分の名だと気づくのが一拍遅れた。 「汝ら、互いを生涯の伴侶と認め、これを守ることを誓うか」 「誓います」 「……誓います」  声がわずかにずれた。隣に立つ男の眉がぴくりと寄る。  ──間違えた。  数刻前に教わったばかりの作法を頭の中で辿り直しながら、セレンは姿勢を正した。誓いの言葉も、返事をする場所も覚えていたはずなのに、最初から遅れてしまった。  怒らせただろうか。  隣を窺うと、男はすでに正面を向いていた。咎められることもない。  セレンは重ねた袖の中で、指先に力を込めた。  この婚姻は、失敗させてはいけない。 「ここに契りを交わし、証を示せ」  大司祭の声に合わせて、ヴェールが上げられる。  セレンはそこで初めて、夫となる男の顔を真正面から見た。  (くろがね)のような黒い髪に、燃えるような赤い瞳。背が高く、礼装の上からでも鍛えられた身体つきがわかる。眉間には先ほどから皺が寄ったままだった。  怖そうな人だと思った。と同時に、道中で聞いたいろんな噂が次々と脳裏に浮かぶ。けれど、先ほど誓いの言葉が遅れた時には、眉を寄せられただけだった。  そんな恐ろしい男は、今は静かだった。婚礼の儀の最中だから、大人しいだけなのか。  果たしてこの人の妻として、やっていけるだろうか。  セレンは目を閉じた。  夫婦になる以上、いずれオメガとして求められることもあるのだろう。けれど、自分には発情期がない。子を成せるのかもわからない。  それを、この人は知っているのだろうか。  役に立たないオメガなどいらないと言われたら。  そう思った途端、薄いヴェールで仕立て上げられた衣装が、たちまち重く感じられた。  それでも目をぎゅっと閉じたまま、口付けを待つ。  やがて、唇に冷たくて、柔らかい感触が触れた。  焦げたような熱と鉄錆のような匂いを感じたのもつかの間、それはすぐに離れて行く。  ……終わり?  もっと、恐ろしいものを想像していた。痛くても耐えなければならないと思っていたのに、そんな覚悟をする必要すらなかった。  セレンは目を開ける。そして隣に立つ男の横顔を見た。  眉間に皺を寄せた顔は不機嫌そうで、愛想もない。けれど、少なくとも今のところ、セレンになにかを強いる人には見えなかった。  塔の窓から遠くの宴を眺めていた自分には、誰かと生涯の伴侶になる日など来ないと思っていた。  それが今、自分にも与えられている。  それだけのはずなのに、隣に立つ男から、視線を外すことができなかった。  婚礼の儀を終えると、二人ではらはらと降り注ぐ花吹雪の中を歩く。女性用の服よりも控えめな装飾とはいえ、裾は長く歩きずらい。そんな最中にがっちりと腕を組まれ、セレンはもつれそうになりながらも不揃いな足並みでどうにか前へ進んだ。  二人で大聖堂のバルコニーへ出る。外へ踏み出した途端、ファンファーレが高らかに鳴り響いた。眼下の広場から歓声が押し寄せる。これほど大勢の人間から同時に見られた経験などなくて、セレンはどこを見たらいいかわからなくなりそうだった。  教えられた通りに振る舞わなければ。  そう思い直して姿勢を整えたところで、歓声の中にざわめきが混じり始めた。  隣の者と顔を見合わせ、セレンを指してなにかを話す者もいる。  なんだろう。  なにか、間違えただろうか。立つ位置も姿勢も、教えられた通りのはずだった。  歓迎されていないのかとも思ったが、罵声が飛んでくるわけではない。どうやら、自分がここにいることそのものに驚かれているらしい。 「──第四王女という話だったが?」  セレンがざわめきを気にしないようにしながら民衆に手を振っていると、不意に歓声に紛れてそんな声が聞こえた。 「第四王女」  セレンは思わず小さく繰り返した。  妹のリネアのことだ。 「あ……第一王子です」 「それは見ればわかる」 「も、申し訳ございません」  セレンの咄嗟の謝罪が歓声に紛れた。  それにしても、なぜ彼は王女の話をするのだろう。セレンのなかでふっと疑問が浮かんだ瞬間、そこでようやく、いくつものことが繋がった。  広場のざわめき。謁見の間での嘲笑。彼の噂。  ……ああ、そういうことか。  グランディオが迎えるはずだったのは、自分ではない。  妹の、リネアだ。  彼女は今年で十八になる。適齢期でいえば、確かに彼女が最も相応しい。  けれどリネアは、なんでも自分で決めたがる子だった。辺境を治める公爵と交際を深めていると、塔の外で従者たちがそう噂していたのを聞いたことがある。  そんな彼女に、暴君と呼ばれる男との婚姻を持ち出せば──断られるのは、目に見えていた。  だから、自分が選ばれた。  第一王子として生まれながら王位継承権を失い、発情期が来ないことで塔へ移された。それでも婚姻なら国の役に立てるのだと思っていた。ようやく、自分にもできることがあったと思ったのに。それすら、初めから自分に与えられた役目ではなかった。  ここで彼の機嫌を損ねれば、婚姻は破談になるかもしれない。そうなれば帰る場所はもうどこにもない。  それだけでは済まない。第四王女との婚姻を前提に話を進めていたグランディオが、この婚姻を欺かれたと受け取れば、同盟そのものが崩れるかもしれない。  国境で暮らす民も、兵も、城に残る父や母、弟や妹たちも、その先に巻き込まれる。  それだけは、絶対に駄目だった。 「わ、私が申したのです」  声が上擦った。  リヴァルがこちらを見る。 「ぜひ、貴方の元へ嫁ぎたいと……私が、そう申しました」  返事はなかった。  嘘だと見抜かれたら。騙したのかと怒鳴られたら。婚姻をなかったことにすると言われたら。  それでも、ここで引くわけにはいかない。  やがて、リヴァルが鼻を鳴らした。 「まあいい。誰が相手でも構わん。婚姻そのものに興味はない」 「……よろしいのですか」 「勘違いするな」  リヴァルは隣に立ったまま、セレンを見下ろした。 「お前を選んだわけじゃない。ただ、婚姻を取りやめる理由もない。それだけだ」 「……はい」  やはり不機嫌そうだった。けれど、怒鳴られなかった。婚姻をなかったことにするとも、ルミナリアへ帰れとも言われない。  誰でも構わない。  本来なら喜ぶような言葉ではないのかもしれない。それでも今は、その言葉に救われた。  やがてバルコニーでのお披露目が終わって控え室に戻ると人の目がなくなったぶん、セレンはようやく少しだけ息をつくことができた。  改めて視線を向けると、リヴァルは思わず見入ってしまうほど整った顔立ちをしていた。鋭い赤い瞳も、通った鼻筋も、冷たさを感じさせる輪郭さえ不思議なほど均整が取れている。それなのに眉間には皺が寄ったままで、今にも誰かを叱りつけそうなほど不機嫌そうに見えた。  ……お美しい方だ。  そう思った途端、自分が夫の顔をじっと見つめていたことに気付いた。それと同時に、リヴァルがこちらを振り向いた。  赤い瞳と目が合い、セレンは逃げるように顔を背ける。  しまった、見過ぎていた。  胸の内で小さく反省したところへ、不意に彼が口を開く。 「おい。……動くな」  低い声に呼び止められて、驚いたセレンは蛇に睨まれた蛙のように動けなくなる。おそるおそる見上げると、リヴァルは無言で頭に手を伸ばしてきた。セレンは咄嗟に目を閉じて身を固くする。  ……殴られる。  けれど、想像していたような衝撃は来なかった。代わりに、髪をわずかに押したような感覚があった。  恐る恐る目を開くと、彼の指が白い花弁を一枚つまみ上げていた。 「付いてた」  それだけ言って花弁を払い落とすやいなや、リヴァルは婚礼衣装を緩めながら部屋を出て行った。呆気に取られるセレンを控え室に置き去りにして、物々しい足音が遠ざかる。  扉が閉まってから、セレンはそっと自分の髪へ触れた。  ──ありがとうございますと、言う間もなかった。  暴君だと聞いていた。気に入らなければ怒鳴り、力で従わせる。そんな姿を、想像していた。  もしかして、お噂とは違う方なのだろうか。そんな考えが胸をよぎる。 けれどすぐに首を振った。まだ、会ったばかりだ。  それなのに、どうしてか胸がもやもやする。 「──あ」  セレンはそこで、自分が初対面の夫に嘘をついたことを思い出した。 「ど、どうしましょう」  セレンの胸は途端に不安でいっぱいになった。

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