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第1話
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同じ部屋の空気を吸っている。そう感じただけで、嬉しくて。
同じ時間を過ごせてる。そう思っただけで、ドキドキした。
きっとこの甘く胸をしめつけるような想いは、恋なんだろう。
俺は目の前でピアノを引く彼に、初めて恋をした──。
彼と出会ったのは運命──でもなんでもない。
俺の勘違いから。
日曜日の昼下がり。ばぁちゃんに頼まれた。
広瀬さんの家に、茹でたトウモロコシ持ってけと。おすそ分けだと。
そこで俺は広瀬さんの家と彼の家を間違えて、インターフォンを押してしまったことが彼との出会いになる。
──ピン、ポーン。
俺はトウモロコシ袋を片手に、広瀬さんの家だと思い込み、彼の家のインターフォンを押した。で、広瀬さんの返事がなかったのをいいことに(それはそうだ。彼の家は広瀬さんの家じゃないんだから)「お邪魔します」と声をかけて、彼の家に無断で上がり込んだ。
そう、俺は無断で彼の家に上がり込んでしまった。
広瀬さんは、ご高齢で耳が悪かった。特に右側。あと足も。だから広瀬さんに直接トウモロコシを手渡すのは俺の中の親切心でしかなかった。
間違えてしまった言い訳ならある。
その日はうだるような暑さの中、学校からチャリこいで帰って玄関開けたら、ばぁちゃんにトウモロコシをほいっと手渡されて、「えーっ」ってなりながら文句も言えず、広瀬さんの家までまたチャリこいで、脳が完全に茹だってた。だからその時はただただ広瀬さんに手早くトウモロコシを届けることしか頭になく(くどいようだけど勝手に家に上がり込んだのは親切心)、TVのものなのか、オーディオのものなのか、音楽が微かに漏れる扉の向こうに広瀬さんがいるものと信じて声をかけた。
「広瀬さん、森野です。ばぁちゃんから預かりもの。トウモロコシ届けに来た。扉開けるよー」
扉を開けると──視界はナイロン袋に入ったトウモロコシに奪われたまま──いくつもの音の粒が、洪水になって俺を襲った。
次々と生まれていく、はかない音と、形を変えていく躍動音、残響音。まるでシャボン玉が次々生まれて消えていくような。雲がすごいスピードで、風にどんどん流されていくような音、音、音。
まばたきを止められなかった。生きている音の奔流に飲み込まれそうになる。
トウモロコシから視線を離し、顔を上げると、ひとりの男がピアノを弾いていた。綺麗な後ろ姿。スタイルが良くて、姿勢が美しい。色気も溢れていて、髪は美容師が渾身の力を込めてセットしたかのように整っている。思わず、自分の後頭部の髪が乱れていないかどうか確認するため手で撫でつけた。
そこで、ぴたりと音の洪水が止んだ。
「誰だ?」
低くよく通る、痺れるような美声。イケメンは骨格の関係で声さえも美しいと聞いたことがある。彼もそうなんだろう。
と、感心してる場合じゃない。血の気が引いた。和とモダンを融合させた内装の中で圧倒的な存在感を誇るグランドピアノ。後ろ姿がイケてる青年。
ここは広瀬さんの家じゃない。冷や汗がダラダラと流れ始めた。俺は知らない人の家に勝手に上がり込んでしまったようだ。
いや、もしかすれば、彼は広瀬さんのお孫さんで、この部屋はお孫さんの部屋かもしれない。そうであって欲しい。いや、そうであってくれ……!
「あーその、俺、広瀬さんにトウモロコシのおすそわけを届けに来て。その、広瀬さんは?」
彼は振り向かない。
「広瀬……? ああ、隣の大家の?」
うわぁぁぁ……!俺の人生終わった!やっぱり俺、家間違えた!警察に通報される!?
はっ、そういえば、さっき玄関で抱いた違和感。広瀬さんの家の玄関はいつも賑やかに飾りつけられていた。立派な虎の置き物やら観葉植物などなど。この家にはそれらが見当たらなかった。どうして玄関入ってそう思った時、俺は引き返さなかったのか。
そうだ。
広瀬さん、また模様替えしたんだなと思って、俺の中で思考を停止させてしまってた……!
「ご、ごめんなさい! 俺、その、家、間違えて上がりこんだけど、決して怪しい者じゃなくて、広瀬さんにトウモロコシ届けに来た二丁目に住んでいる……じゃなくて二丁目に住んでる森野っていう者で、その、あの、お邪魔しました!」
微かな笑い声。男の肩が震えてる。
「本当だ。トウモロコシの甘い匂いがする」
「え?」
二十本入っているトウモロコシの袋に鼻を寄せた。数があるだけに、甘い匂いがする。ただし間近で嗅げばの話。こんなに離れてて匂いが分かるなんて、イケメンは顔だけじゃなく鼻もいいのか?
「あー、良かったら、君もトウモロコシ食べる?」
「……広瀬さんのトウモロコシだろ?それ」
「まぁそうだけど、広瀬さんはひとり暮らしでこんなに食べられないから、きっと君の家にも配りに来ると思う。多分だけど。だから俺、君に先に渡しといたって、広瀬さんに伝えておく。だから大丈夫。で、何本食べる?」
「すごい地域だね」
背中を丸めて笑う男を見てやはりと思った。彼は”よそ者”だ。この田舎でこんなイケてる奴、見たこともなければ聞いたことないし。
ここからバスで一時間ほどのところにある私立大が十数年前、公立大学法人化とかで公立大学になって、県外からたくさんの学生が入ってくるようになった。彼もその学生のうちのひとりなのかも。
「えっと、本当にごめん。俺、泥棒とかじゃないから」
「うん。ここ借りる時に不動産屋から聞いた。この沙和町に泥棒は出ないって。理由を聞けば、『だって沙和町ですよ』って笑ってた」
「まぁ、見たまんま、のどかなところだよ」
男が笑いながら振り返った。ぎょっとした。予想を超えたイケメンだった。骨格のフォルムは完全に男のものなのに”綺麗”としか言いようがない、涼やかで優しそうな目元にすっと通った鼻筋。弧を描く口元にしばらく見惚れた。
「何?」
怪訝そうな声でハッと我に帰った。
「あ、いや、ごめん。すげーかっこいいから見惚れた。芸能人とか、じゃないよね?」
「違うよ」
彼の目が伏せられ、艶のある目元にすっと朱が走った。俺はてっきり彼は「芸能人みたい」とか「かっこいい」とか言われ慣れてると思って気軽に言っただけだったから、照れられると、こっちが恥ずかしくなる。
「あー、初対面で変なこと言ってごめん」
「いや……君の声で、言われてると…何か、照れた。こっちこそ、ごめん」
「俺の声?」
「すごくいい声してるから」
「え。今度は俺が照れる番かよ」
ふたりで笑った。
十歳離れた従姉がアニメが好きで俺は小さい頃から声優養成所顔負けの発声指導遊びに付き合ってた。それが功を制したようだ。まぁ地声にも、それなりに自信はあるけど。
「トウモロコシは何本いる?」
「ひとつ」
「ん、これ。じゃあここのテーブルに置いとく。じゃあ俺はこれで」
「ありがとう」
「家間違えて家に上がり込んだのは俺なのに礼言われると……
あのさ、俺、その、インターフォンも鳴らしたし声もかけたんだ。でも返事なくて……勝手に上がり込んで、本当にごめん」
「この部屋、ピアノの音が漏れないように改装工事してもらったから」
「え?」
「この部屋に居る俺には、インターフォンも君のことも声も聞こえないんだ」
「え、危な。鍵かけとかないと」
「……そうだね」
お前が言うなよって思われたかな。
「……じゃ、俺はこれで。お邪魔しました」
「ああ」
ドアノブに手をかけて部屋を出ようとした途端、彼の指先が滑らかに、鍵盤をなぞり始めたので、焦って振り返った。
「あの、鍵」
彼の鍵盤をなぞる手がぴたりと止まった。ゆっくりと彼が振り返った。髪が揺れる。ドキッとした。髪一筋でさえ、彼のイケメン度を底上げしているような凄みが彼にはある。
そこでふと気が付いた。彼のやや伏せられた目。俺の方を見ているようで見ていない。違う。彼の目、見えていない。彼は自分で家の鍵、かけられないんだ。
「その、トウモロコシのお礼がしたい。広瀬さんの家にそのトウモロコシ届けたら、俺のピアノ聴いていかないか?俺のピアノでお礼になるか分からないけど」
「え」
「俺もあと十五分くらいで迎えが来るから、あんまり時間ないけど」
「あ!さっき!さっきの曲、もう一回聴かせて欲しい!」
「分かった」
広瀬さんにトウモロコシを届けて、彼の弾くピアノを全身鳥肌立てながら聴いた。彼にプロなのか聞けば違うよと笑われた。
スーツに白い手袋、帽子姿の車の運転手が彼を迎えに来て、ドラマみたいだと心の中で感動していると、彼は別れ際、名前を教えてくれた。湊。それが彼の名前なのか苗字なのか俺には分からなかった。ただ湊が「湊」と呼んで欲しいと思っているなら、その通り呼ばればいいと安易に考えた。
湊は俺が高校二年だと知ると驚いていた。でも俺は制服姿でいる。やはり湊の目は見えていないことは確定した。
湊は俺の話す声がしっかりしているから、もう俺が成人していると思ったようだ。
俺が最後、湊のピアノ演奏を褒め称えると、湊はどこか満更でもない様子で、また聴きにきていいよと言ってくれた。仕草ひとつイケてるとしか言いようがない。俺は速攻、湊とLINEを交換しようとしたけどLINEやメールはしない派だと言われて(そこでハッとした。湊は文字が見えないんだ)携帯番号を交換することにした。湊は自然な様子で音声アシスト機能を使って俺の番号を登録していた。
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