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第1話
──藤原 の君、宮の源氏 ともども顔を合わせ笑い給ふるうちに、夜ぞ明けぬる。
うつろはぬこの心こそ、腹心の契りなるかな。
以降、散逸 す。いとあやしきわざなり。
「このように、主人公である藤原の君と親友である宮の源氏の仲の良さは作品中で語られているわけですが、私はここに男色の趣向があると提唱します。これはまだ研究途中の考えですので、子細は次回の学会誌で発表する予定です。では時間も予定より大幅に過ぎていますから、これでいったんお開きということにいたしましょう。続きはまた明日に」
小野真弓 は幾度となく読んだ文章を壇上で述べ、最後に自説で結んだ。
一面に広がった客席から拍手はほとんど返ってこない。それも当然、今回の真弓が提唱した考えは、擬古 物語『冬草草紙 』の研究界隈ではかなり異色と言えたからだ。
──この反応は予想していたが、けっこう堪えるな。
ため息を喉元まで押し下げ、真弓は壇上から舞台袖へと戻った。
乾ききった口内にペットボトルの水を流し込んでしばし佇んでいると、助手の貝塚晴樹 が駆け寄ってくる。
色が抜けてプリン状態になった金髪が小さく揺れていた。
「小野准教授、今日の発表お疲れさまでした。教授の奴ら、准教授の新説に度肝を抜かれていましたね。俺としては、今まで誰も提唱しなかったのが不思議なくらいなんですけど」
「晴樹くんだけですよ、褒めてくれるのは」
真弓は口だけで笑ってボトルのキャップを閉める。壁越しに集まっている教授たちの談笑がさざめきのごとく聞こえていた。
今日は平安から鎌倉時代、すなわち中古中世文学に関する発表を行う会が開催されていた。
場所は京都。中古中世文学の本拠地だ。
ある私立大学に所属する准教授の真弓と真弓に師事する晴樹は、発表のためにはるばる東京から足を運んだのだ。
残念ながら発表は手ごたえなく終わってしまったが。
「准教授、これから北山の神社に行くんでしたよね。俺も行きます。研究する作品のフィールドワークは大切ですから」
「ありがとう。同行願います」
開催場所の市民ホールの扉をくぐると、すでに外は宵闇に包まれていた。空気は秋の終わりを思わせる冷ややかさで、肌に風が触れるたびに身を振るわせたくなる。
木枯らしから逃れるようにいそいそと安い中古の軽に二人で乗り込み、真弓は車を発進させた。
「後ろの席なんですけど、気をつけてください。今日のために積んできた資料が雪崩を起こすかもしれないので」
了解です、と晴樹の返事を待たずに車は道路へ出た。
「すごいですね、全部『冬草草紙』の資料だ」
バックミラー越しに晴樹が瞠目するのが見えた。
真弓と晴樹が研究しているのは、『冬草草紙』と呼ばれる鎌倉期に成立した作者不明の擬古物語だ。
藤原の君と呼ばれる主人公と、彼の親友である宮の源氏を中心人物とする、平安から鎌倉時代の朝廷が舞台の物語で、主人公の青年期を描く一種の青春物とされている。
「俺、准教授の新説に同意しますけど、やっぱり主人公の恋人の存在がネックですよね。彼女がいる限り、二人は『親友』の立場からはみ出るとは考えづらくなってしまう。まあ、准教授がまだ三十二歳で立場のわりに若いから、博士たちはなめているんですよ」
「立場のわりに、ねえ……」
晴樹の言う通り、藤原の君には恋人である姫君がいる。彼女を抜きにして作品を語ることはできない。
だが『冬草草紙』は、藤原の君と恋人が結婚する手前で以降を欠損させている。いわゆる散逸だ。
中古文学しかり中世文学しかり、物語は写本で広まるものだが、なんらかの原因で本文を大幅に散逸させている作品は数多く存在している。
「藤原の君と姫君は恋人ですが、結婚した確証はどこにもありません。もちろん藤原の君と宮の源氏が男色の間柄だったという確証もないのですが……私はそうであってほしい、と思っています」
「へえ、理由とかはあるんですか」
「それは」
理由は、ある。
しかし、それを口に出していいのか否か。
返答に困っているうちに車は北山の神社に到着した。
北山の神社の正式名称は「冬草神社」という。作品の題はこの神社の名から採られており、『冬草草紙』を研究する上では重要な聖地なのだ。
神社はさほど大きくはないが、今夜はたくさん設置された篝に火を入れ、豪華に煌々と輝いていた。
今夜は、『冬草草紙』にちなんだ祭りが開かれる日であった。
車から降りて一言、晴樹が呑気にのたまった。
「お、屋台がめっちゃ出ていますよ。准教授はなにか食べますか。俺はチョコバナナが食べたいんですけど」
「おごりませんよ」
目的は祭りではない。初めて訪れるこの神社を一巡りして写真に収め、これからの作品の研究に生かすのである。
一眼レフを首から下げ、にぎやかな参道を通り抜ける。目指すは『冬草草紙』で描かれる、二人が腰かけた設定のある岩だ。この神社はかつて温泉が湧いていた記録があり、それに関した記録も多く残されている。
「言わなくてもわかりますよ。なるほど、例の岩に行くんですね」
一見遊んでいるような風貌に反して、晴樹はできる助手だ。真弓は感心しつつ、歩みを進めた。
やがて、二人なら楽に腰かけられそうな大きさの岩が姿を現した。周囲は草が生い茂っており、今にも虫が飛びだしてきそうなほど荒れていた。
──これに、藤原の君と宮の源氏が座ったのか。
真弓はこわごわ腕を伸ばし、岩の表面に触れた。
木枯らしのそれとは違う、凍てつく冷たさが掌に広がる。まぶたの裏に存在しない登場人物たちを描いて、遠い世界に思いをはせた。
その時、にわかに足元が柔らかくなった。
ぬかるみにでも足をとられたのか、と思ったのもつかの間、両足が地面に吸い込まれる。
底なし沼のようだった。
「准教授⁉」
晴樹が飛んでくる。真弓は両手を振り回して沈む身体にあらがったが、遅かった。
視界は漆黒に染まり、意識が遠のいていく。
ふわふわとした空間の中、身体が落下する感覚におちいり、やがて記憶が途切れた。
***
次に目を開けると、真弓は知らない屋敷の縁側に座っていた。
直に座っているのではなく、尻の下には草を編んで作られた円座 が敷かれている。かたわらには白く濁った液の入った提子が置かれていた。中身はおそらく酒だろう。
ちら、と目線を上げれば、飛び込んできたのは作りこまれた和風の庭だ。
竹や松に囲まれた広々とした池には、朱色の橋が渡されている。空に浮かぶのは、一つの曇りすらない望月だった。
──まだ意識が混乱しているらしい。この景色は、まるで平安や鎌倉時代の絵巻物の世界じゃないか。
目をこすりつつ手元に目線を戻すと、矢庭に酒の入った土器を突き出された。
「■■、どうして飲まないんだ? 気分でも悪いのか」
土器を突き出してきたのは頭に立烏帽子を被った狩衣の青年だった。精悍な顔は少し焼けて浅黒い。
「せっかくうまい酒を持ってきてやったんだから、少しは飲めよ。なあ■■」
彼の言葉の端々に、ノイズがかかっている。自分の耳を軽く叩いてみたが、特に問題はないらしい。
寸の間思案して、真弓は青年に問うた。
「時文 殿、今日の兵衛府はどうでしたか」
「ん? ああ、特に何事もなくいつも通りだったぞ。見回りをして、頭に報告して……そんなところだな」
あっけらかんと答える彼に、真弓は確信した。
──この男は、『冬草草紙』に登場する藤原の君の乳兄弟である橘 時文だ。彼は兵衛府で働いているし、訊いたところ設定とも相違がない。
おぼろげな予感が確信に変わる。
真弓は腰を上げて屋敷の部屋に引っ込んだ。
屋敷の作りは例にもれず寝殿造のようだが、大して広くはない。
御簾をくぐって母屋をうろつき、部屋の隅に鏡台を見つけた。恐る恐る覗き込むと、鏡の中には見知らぬ青年の顔が映った。
年頃は二十にならないくらいだろうか。健康そうな整った面に、頭には貴族の証である立烏帽子が乗っている。身を包むのは若草色の狩衣だ。
「……これは藤原の君だ」
我知らず独り言ちる。
若草色の狩衣は藤原の君が気に入っている服装で、作中に何度も登場しているのだ。
自分は、神社で岩に触れた。その瞬間、地面に引きずりこまれてこの場に至る。からくりなど一つもわからない。
ただ、これは現実に相違なさそうだ。現に、触れた己の頬はしっかりと柔らかく、およそ夢とは思えなかった。
だが百歩譲ってこの状況を受け入れるとして、まだ問題がある。
藤原の君しかり宮の源氏しかり、本名がわからないのだ。
時文などの脇役や位の低い者は本名で書かれるが、作中では身分の高い人物はあだ名で書かれる。これはあの『源氏物語』でも適用されている古典文学の常識だ。
少し首をひねって、思いついた。
先ほど時文が発した言葉にかかっていたノイズの裏には、藤原の君の本名があるのではないか。
さりとてノイズは暴けそうになく、この問題は堂々巡りになる。
──こうなれば、いっそ自分の名前をつけてしまおうか。
真弓は指で鏡の淵をなぞり、はっきりと中に映る青年に向かって呼びかけた。
「君は藤原真弓。私は、藤原真弓だ」
真弓が口角を持ち上げると、映る青年も笑う。なにかが腑に落ちる心地がして、意を決して縁側へ引き返した。
「真弓、どこ行っていたんだよ」
時文の声にノイズはかかっていなかった。
「いえ、少し水を飲みに戻っただけです」
ふうん、と気のない時文の返事を流し、次に何を問うべきか考える。
『冬草草紙』は藤原の君と宮の源氏が出会うところから始まる。しかし、まだ宮の源氏の姿がないのを見る限り、物語はまだ始まっていないようだ。
「ところで真弓、明日の件、しっかりやれよ」
考え途中で新たな話題を入れ込まれ、真弓はたじろいだ。
「明日の件、ですか」
「主上の末弟君を寺から連れてくるんだろ。お生まれになってから、母君をすぐに失われて寺へ預けられたかわいそうな親王さまを」
「……そうでしたね」
なるほど、物語は明日始まるらしい。
親王こそ、後の宮の源氏である。
宮の源氏は、元は上皇の第五皇子である。「元は」というのは、物語の中で臣籍降下し源氏の姓を賜るからで、それまでは親王だ。
彼はこの世に生を受ける代わりに、母である女御を産褥で失った。女御は現在の帝の母と異なり少し位が低いこともあって、宮の源氏は宮中で存在が浮いてしまった。
次期東宮は第一皇子──つまり現在の帝──と決まっており、行き場もない。結果、宮の源氏は母の縁故の寺へと預けられることになったのだ。
彼はそのまま、長い間存在を忘れられていた。
「このたび主上が即位されてようやく親王さまを手元に戻せる、って騒いでいたもんな。それで、連れてくる命が下ったのがお前ってわけだ。まったく面倒なことになったな。同情するぜ」
「命を下すのに私以外適した者がいなかったのですから、仕方ないですよ」
物語の記憶を繰って、間違っていないか思い返す。時文が変な顔をしないので、おそらく記憶は正しいはずだ。
藤原の君の父は代々摂関を務める家柄だが、母は妾だ。そんな彼に帝が親王を連れてくるよう命じたのは、帝や摂関家の一族を自分の扱いゆえに親王が嫌っているからである。
親王を迎えるにはある程度の地位の者が適しているが、摂関家の者が行けば親王は良い顔をしないだろう。
一方、庶子である藤原の君は地位が高いながら、摂関家と程よい距離の者だ。実際、藤原の君は父の家ではなく母の屋敷に一人で住んでいる。
ちなみに、妾である母はすでに儚くなっているため登場しない。
「妾の子で一人ぼっちである私と、親王さまの孤独を重ね合わせた結果の命令でしょう」
これはいつかの論文で書いたことのある意見だ。
つくづく悲しい命令であると感じる。なおかつ、因果な運命であるとも。
お互い一人きりだった二人が出会うことで、『冬草草紙』は動き出すのだ。
「ここから親王さまの寺は遠いから、明日早く出立するのだろう。じゃあ、俺はこのあたりで引き揚げるとするかな」
残った酒を一息に飲み干して、時文が立ち上がった。
「明日、頑張れよ。主上の命令なんだからな」
「ええ、もちろん」
屋敷の門まで彼を見送り、真弓は母屋へ戻った。ようやく一息つけそうだ。
古の時代の寝台である帳台に入り、横たわって天井を見つめる。
──本当に『冬草草紙』の中に来てしまったのか。
真弓は十年以上の月日をこの作品に捧げてきた。この場所が、作品に深入りしすぎるあまりに見てしまった妄幻 なのではないかとすら思えるほどに。
「できるなら、現実には戻りたくないな」
閉ざされた御帳の中に無意識のうちのつぶやきがこぼれて、やはり、と気づいた。
自分は、現実を嫌っている。
作品を研究する毎日を厭うわけではない。生まれながらに置かれた、揺るぐことのない身の上が存在する現実を嫌悪しているのだ。
真弓は、偶然生まれただけだった。
油断した高齢の両親が避妊せずまぐわったせいで、予期せずこの世にまろびでた。
小野家にはすでに年の離れた兄がおり、うっかり生まれてしまった次男にかける金は持ち合わせていなかった。
両親は長男ばかり構い、真弓はほとんど放っておかれた。小学生だった頃は彼らの興味を惹こうと頑張っていたが、中学生になる頃には諦めて、勉学に打ち込む毎日になった。
「悪いけど、大学は自分で行ってね」
母は笑いながら真弓に告げた。半ば覚悟していたことではあったが。
真弓は奨学金を借りて大学に進み、そこで『冬草草紙』と出会った。
作品にいたのは、自分と同じ孤独な登場人物だった。主人公の藤原の君も孤独ではあったが、真弓にとって一番共感できるのは、寺で一人放っておかれていた宮の源氏だった。
同じ屋敷に住む藤原の君と宮の源氏は常に一緒で、笑いあい、泣きあい、幸せな毎日を過ごしていた。
──いつも宮の源氏の近くにいる、藤原の君になれたらいいのに。
そう思ったことも一度や二度ではない。
この二人がただの親友でなく、一歩踏み込んだ男色の関係だったら。二人が恋人だったら。
そう思って作品を読むたび、真弓はうらやましさと幸福感でいっぱいになる。
もはや、自分は宮の源氏を愛しているのではないか。
否、くだらない。架空の人物に懸想するなど。
彼を思うたび相反する思考が脳を支配し、最後にはため息になって終わるのだ。
きっと明日、宮の源氏と邂逅する。
真弓は唇を噛みしめ、瞑目した。
己は『冬草草紙』の研究者だ。今置かれた状況は、またとない研究の機会である。
宮の源氏への思いは仕舞って、彼の観察に徹しよう。もし現実に戻ることがあれば、新たな知見を発表できるかもしれない。
静かな決心を胸に、真弓は眠りに落ちた。
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