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第2話
翌日、曙を迎える前に真弓は屋敷を発った。
牛車で道を進むたびに下から霜を踏みつぶす音が聞こえ、思わず狩衣の上から腕をこすってしまう。こちらの季節は冬のようだ。
「真弓殿、もうすぐ寺に到着いたします」
牛飼童 に外から呼びかけられ、真弓は襟元を正した。
ここでは真弓は主人公だが、世界が物語の通りにうまく展開するとは限らない。物語が正しく進むように働きかける必要があるだろう。
宮の源氏を観察しながら、ストーリーを運ばせる。これは主人公としての使命だ。
やがて、牛車が軋みながら停止した。
御簾を持ち上げて降り、寺の門をくぐる。女御の縁故の寺ということもあって、わりに豪華な造りだ。
飛び石が玄関である扉まで続いている。庭には灯籠や表面が薄く凍った古池があった。
整えようとして吐いた息が白い。吐息が空気に溶けて消えるのを見届け、真弓は玄関で声を張り上げた。
「申し上げます、藤原真弓です。親王さまをお迎えにあがりました」
反応がない。
二三度同じ文言を繰り返し、はたとやめた。もしかすると、本堂の方で修行中なのかもしれない。読経中であれば、しばらくは戻ってこないだろう。
『冬草草紙』では、連れてきた宮の源氏と牛車の中で帰途をたどる場面から始まるため、居所がわからないのだ。
真弓は裏口の方に回り、下働きの下人でもいないか探した。
枯れかかった草が生い茂っているところをかき分けて、井戸を見つけた。近くに厨があるらしい。
「もしもし、誰かいらっしゃいませんか」
厨の古びた木戸を開けて入ると、いやに背の高い女が料理をしていた。
前髪は眉にかかるあたりで切りそろえられ、腰まで垂れた黒髪の末を紫の紐で結っている。服装は市井の女のそれと変わらない粗末さだが、顔には丁寧な化粧がほどこされていた。
眦と唇にはやや暗い紅を差し、細面には鉛白らしい艶のある白粉が塗られている。
声が聞こえていないのか、彼女は黙って青菜を刻んでいる。とんとん、と小気味いい音が厨に響いていた。
「すみません。親王さまをお迎えに参ったのですが、どちらにいらっしゃるかご存じですか」
女は黙ったまま刻んだ青菜を鍋に入れて、玉杓子でかき混ぜ始めた。すました横顔は冷たく、近寄りがたい空気をまとっている。
「あの──」
さらに重ねて問うた瞬間、女が玉杓子を片手にこちらを振り返った。
「しつこいぞ」
腹の底に沈むように低く、凛とした声だった。
「親王は俺だ。こんな辺鄙なところによく来たな」
あっけにとられて女を見返す。
よくよく観察すれば女の肩幅は広く、喉にはくっきりと突起があった。
「申し訳ございません。てっきり、下働きの女房だとばかり」
「寺に女がいるわけないだろう。なんだ、お前、俺を迎えにきた奴か? 兄上がよこした文に摂関家の庶子の男を送ると書いてあったが」
親王は鼻で笑い、雫の垂れる玉杓子を軽く振るった。
「兄上……今は主上か。俺を内裏に連れ戻してどうするんだ。放っておいた贖罪でもする気か」
「主上の御心ははかりかねますが、共に国を支える仲間になってほしいのだと思っているに違いありません」
作品の展開としては、宮の源氏を迎えた帝は内裏に引き入れ、侍従として召し抱えている。
無論、親王の言う「贖罪」の意もあるだろう。
それを踏まえた発言だったが、親王は舌打ちをして頭を掻いた。
「帰れ」
追い払うような手の動きと共に吐き捨てられ、真弓は背筋に寒いものを感じた。
「なぜですか。都に戻りたいとお考えにはなりませんか」
とたんに親王の白いこめかみに青筋が立った。
「戻るという表現をするほど、俺に都の記憶はない。自分を放っていた奴のところに尻尾振って帰ろうなんて思ったこともないな」
彼の背後で鍋の中身が沸騰し、泡になって吹きこぼれている。
真弓は親王の切れ長の瞳を凝視した。
まだ物語は始まっていない。それでも、登場人物の心情を汲み取ろうと躍起になった。
黙りこくって見据える真弓に、しびれを切らしたらしい親王が怒鳴った。
「なにが言いたいんだ」
真弓は滔々と言った。
「都にくれば、もう僧たちに蹂躙されることはありませんよ」
息を呑む音が耳朶に触れたかと思えば、乱暴に胸倉を掴まれる。眼前に迫られ、親王が真弓より背が高いことに気づいた。
「ふざけるな! お前になにがわかるって言うんだ」
口角泡を飛ばしながら喚く親王に、真弓はつとめて冷静に伝えた。
「寺で女人の恰好をさせられている理由など、私だってわかります。女人禁制のこの場所で、欲を吐き出すための代用品にされているのでしょう。嫌ではないのですか」
図星だったらしい。
しばし肩を怒らせて震えていた親王は、掴んでいた手を離して仁王立ちになった。
「そりゃ、俺だってしたくて女役をやっているんじゃないが、長く続けているうちに楽な仕事だって気づいたんだ。坊主どものような面倒な修行もしなくていいし、内裏の奴らのように仕事ばかりする必要もない。俺は慣れたこの場所で家事をやって死ぬんだ。今さら新しい事件を求めちゃいない」
──彼の主張はまるきり嘘だ。黒々とした瞳がそう訴えている。
親王は現状から抜け出すことを諦め、自棄になっているだけなのだ。そう思った。
「本気で僧どもの慰み者の立場を享受して、尊い一生を終えるおつもりですか」
親王に言うには不遜な言葉だとわかっていたが、止まれなかった。
一息にまくし立て、真弓は宣言した。
「あなたを連れ帰るまで、私は寺を出ません」
「本当にしつこいな、お前……」
空気が変わった。親王は心底呆れた、とでも言わんばかりに目を見開いて、一歩退いた。
「好きにしろ」
親王はかぶりを振って、ふたたび鍋の前に立った。
とりあえず寺にいる許可は得たようだ。
次は僧たちに話をつけなければならない。
真弓は親王の背に向かって一礼し、厨を後にした。
僧たちの日課として昼間は修行があったため、その間は待たせてもらい、仕事の片付いた夕方に面会するはこびとなった。
寺の主をつとめる阿闍梨 は宮腹の王で、臣籍降下 していないため入道王であるという。
六十近い阿闍梨は鈍色の僧綱襟 に五条袈裟をかけた出で立ちで、本堂の上座にうやうやしく座っていた。
真弓は下座に座り、親王を引き取る旨を伝え、頭を下げた。
「以前、主上から引き取りたいという旨の手紙が届いてはいましたが、本気だったのですね。嫌というわけではないのですが……よもや本当に迎えにくるとは」
阿闍梨はつるりとした顎を撫で、真弓を一瞥した。
「突然のご訪問でしたゆえ、こちらもまだ準備ができていないのですよ。少々困ってしまうというか──」
「女房役がいなくなっては困る、と」
核心をついたつもりだったが、阿闍梨は一つも動揺を見せなかった。
「女人のいない寺で欲を持て余せば、修行に身が入らなくなります。それを考えれば、幼い者に女人の真似事をさせるのも仕方ないことなのですよ。現に、私とて幼い頃は当時の阿闍梨に愛でられて育ちました」
説き伏されて言いくるめられそうになり、真弓は唾を飲みこんだ。
後世の研究で明らかになっている通り、寺で僧の男色の相手になった少年たちがいたのは事実だ。
だが、当人が望んでいるわけでないのに、その立場を強いるのはいかがなものか。
「親王さまは、好きで女房役をやっているわけではないと仰せです」
「けれども、彼は家事を放棄していない。つまり、嫌ではないということではないでしょうか」
「違います。親王さまは、とうに諦めているのです。役目を放棄し、寺を後にすることを。言わずとも、あなたたちは親王さまに女房役を強いているのではありませんか」
ぐ、と咽が鳴り、阿闍梨の眉間にしわが刻まれる。だがそれも一瞬のことで、すぐさま彼の顔には泰然とした表情が浮かんだ。
「まあ、そう気色ばみなさらなくとも。もう日も暮れてきたゆえ、今日は寺に泊まっていきなさい。お前たち、食事の準備をしなさい」
阿闍梨が廊下に向けて叫ぶなり、衣擦れの音とともに若い僧たちが折敷を抱えて現れた。
木製の折敷の上には羹や魚、山菜などが載っている。宮腹の阿闍梨が住む寺ともあって、普通の寺よりは食事のあつらえは豪華なのだろう。
真弓は精進料理など食べたことはなかったが、心の隅でなんとなく思った。
「粗末な食事ですが、どうぞお召し上がりください」
阿闍梨と真弓の前に折敷が置かれ、若い僧たちは後ろへ下がり、並んで正座した。
「では、食事の余興に舞を見せまする」
若い僧の一人が声を張り上げる。
突如として、十にもならなさそうな男童たちが阿闍梨と真弓の間に飛び出してきた。
彼らは揃いの衣裳を着ていた。
額には黄金の前天冠をつけ、黒く艶やかな髪はみずらに結っている。まとうのは朱色の袍で、手元には銅拍子を持っていた。
──稚児舞 だ。
稚児は寺に預けられる男童のことで、寺に置かれたといって必ずしも出家しない。
幼く丸みを帯びた彼らは、時に僧たちの男色の相手になる。おそらく親王も稚児だったのだろうが、彼の姿は見当たらない。
もっとも、親王は稚児というには年かさすぎたが。
美しく着飾った稚児たちは、銅拍子を鳴らしながらくるくると舞い始めた。
寸分の狂いもない動きは洗練されていて、目が離せない。白粉をはたいたのだろう真白い面には、一寸の笑みも浮かんでいなかった。
それはさながら傀儡子のようで、真弓には阿闍梨が透明の糸を後ろから動かして、彼らを操っているかのように見えた。
「失礼ですが、親王さまは舞われないのですね」
舞が終わってから、それとなく真弓は阿闍梨に問うた。
「親王さまも昔は舞っていたのですが、身長がぐっとお伸びになってからはお身体も硬くなり……こう言ってはなんですが、動きがどうも見苦しいので外させました」
「それで今は後ろで家事をさせているのですね。女装までさせて」
皮肉りつつ茶をすする。
「舞は見苦しいけど、女の恰好させておいて損はないもんな。あの親王、顔はいいから」
ふと若い僧の一人が口を開いたのを皮切りに、口々に意見が飛び交った。
「私が頼んだんだ。女の恰好して家事していてくれたら、私の食事をわけてやる、って」
「黙って立ってりゃ綺麗だし、女も同然だ。ただ身体が固くなったから、もう抱けないな」
「私も一度、抱かせてもらうんだったよ」
最後の僧の一言で、どっと場が湧いた。
それとは反対に、真弓の頭は急速に冷えていった。
動きが見苦しいと言われ、僧には蹂躙され、さらに食事を人質に取られていたのか。
なんと腐った寺なのか。
「……あなたたちの話を聞いて、ますます親王さまをこの寺に置いてはいられないと思いました」
真弓は腰を上げ、廊下に出た。廊下の先から白い湯気が漂ってきている。
厨の戸を開くと、相変わらず女のなりをした親王が竈の前でしゃがみ、竹筒で息を吹き入れていた。
瞳はうつろで、光の一片も差していない。きっと、本堂での声が聞こえていたのだろう。
「親王さま」
真弓は彼の背中に問いかけた。
「私と共に都へ参りましょう。僧たちは人間ではありません。あれは餓鬼だ、人の好意をすすってしゃぶりつくす鬼です」
おもむろに親王は立ち上がり、鋭利な眼差しで真弓の身体を射抜いた。
「まだいたのか」
身がすくむほど低い声だった。
「本堂での騒ぎをお耳に入れたでしょう。あなたはここにいるべきではない。このまま寺にいれば、あなたは壊れてしまう」
なんと説得すれば良いのかわからないまま、真弓は拳に湧いた汗を握りつぶしながら口を動かした。
だが、親王には響かないらしい。
彼は肩を軽く回し、凝りをほぐすように片手でもう片方の肩をもんだ。
「俺はとっくに壊れている。稚児舞を見たのだろう? 稚児どもの目が死んでいたのがわかったはずだ。俺の目も死んでいる。心もだ」
「それなら、どうして……」
「一人だからだよ。寺でも一人、都に戻ろうと一人。どっちに行こうが一人だ。それなら、俺は動かない方を選んで、孤独を甘んじて受け入れる」
唇を噛む。
親王を都に連れて行かねば、話は終わりだ。
真弓は両手を狩衣の袖でぬぐい、どうにか腹から絞り出した。
「私も……一人です」
親王の目線が己に注がれるのが嫌でもわかる。真弓は気おされないよう両足に力を込めた。
「私の父は摂関家の者ですが、私は庶子です。母は妾で、私が幼いころに亡くなりました。私は母の屋敷で、一人で暮らしています」
「……だから、なんだ」
「けれども親王さま。もしあなたが私の屋敷へ来ていただけるのなら、私は一人ではなくなる。あなたも一人ではなくなる」
親王の片眉が奇妙に跳ね上がった。
「なにを言っているんだ、お前は」
坦々とした調子の文句に覆いかぶさるように、真弓はつづけた。
「私の屋敷に来てください。共に暮らしましょう。あなたの生まれた場所である内裏に居場所がないというのなら、私の屋敷に住めばいいのです」
心なしか、親王の双眸が丸くなった気がした。
「お前の名はなんと言う」
「藤原真弓と申します」
「……なるほど。それならば」
親王が頷いたかと思えば、身をひるがえして真弓に歩み寄ってきた。大仰に小袖の裾をさばき、目の前に迫る。
彼の右手は開かれ、真弓の顔に振りかぶろうとしていた。
──殴られる!
とっさに後ずさりし、背中を厨の壁に打ち付けてしまう。目を閉じようとしたが、不思議とまぶたが言うことをきかなかった。
果たして、親王は殴らなかった。代わりに真弓の顎を捕らえ、指で強く鷲掴みにしたのである。
「親王、さま」
両側からかけられる指の圧力で、明瞭な言葉にならない。
彼は真弓の呼びかけを無視し、なおも顔を近づける。
整った白皙の面がぼやけるほどになってから、やっと真弓は瞑目することができた。
直後、唇に柔らかな感触が広がった。
それは水を吸うように二三度くっついては離れ、顎の自由が戻ると共に消えた。
息を止めていた真弓は思わず咳き込んでしまう。
すっかり重くなったまぶたを持ち上げると、そこには唇からわずかに紅をはみ出させた親王が佇んでいた。
「親王、さま、私になにを……」
なぜか訊いてしまった。本当はわかっていたのだが。
「なにって口吸いだ。反応を見るに、お前、初めてなんだろ」
能面を張り付けたような親王の顔からは、一滴の感情も読み取れない。
「俺は坊主どもに蹂躙されるのは嫌いだが、奴らのせいでこんな奇癖になってしまったものでね。俺は男だが、男に欲情するんだ。お前、それでも俺を屋敷に迎え入れる気か?」
真弓の全身に震えが走った。
たった今、自分が提唱した学説が立証されようとしている。
──私の考えは、間違ってなどいなかった!
掴まれていた顎から熱が広がって、頬までを覆う。
もちろん熱の中には、長年あこがれていた者からの口吸いへの歓喜もあった。むしろ、その思いが大半を占めるくらいである。
だが、真弓は慌てて喜びを隠した。
「構いません。私は親王さまがどんな方であれ、迎え入れる覚悟しかございません。寺でのこのような惨状を見た今、黙殺して都へなど帰れるでしょうか」
一思いに言い切り、親王の前で胸を叩く。
刹那、彼の目に光が横切った気がした。
厨に静寂が訪れ、遠巻きに虫の声が耳鳴りのごとく聞こえる。なぜか、本堂の僧たちの声は聞こえなかった。
続ける言葉に悩んでいるうちに、胸に置いていた手が下がっていく。
ふいに、腰の横に垂れさがろうとした手が止まった。
親王が下がった手を捕えたのだった。
「都に行くんだろ。連れて行けよ」
投げやりな口調だったが、反して顔には微笑があった。さりとて純粋な微笑ではなく、試すような、いたずらな笑みであった。
「はい」
真弓は親王の手を握り返し、厨の扉までひいていった。
外はすでに夜更けだった。
面倒くさくなるのが目に見えているので僧たちには後で事情を話すことにし、先に牛車で都へ帰ることにした。
「牛車なんて、この寺に来た時ぶりだ」
牛車に乗りこんだ親王は、ぼんやりと独り言ちてすぐに寝入ってしまった。
家事を毎日させられて、ほとんど寝る暇もなかったのだろう。
親王に家事をさせるなんて、とんでもない話だ──と歯ぎしりする。
彼は真弓の隣で丸くなり、大人しく寝息をたてていた。
物見を開けて月の光を取り入れる。ちょうど親王の顔に月光があたり、長いまつ毛の端までを青白く輝かせていた。
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