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第3話

 親王がそのまま目を覚まさなかったので、真弓は彼を屋敷の母屋まで牛飼童に運ばせ、帳台に寝かせた。  自分の帳台が埋まったため、護衛の意味も兼ねて真弓は帳台の手前に横たわった。  当然寝られず、目の下に隈を作って翌朝を迎えるはめになったが。  母屋の御簾の隙間から曙光が差し込むころ、頭上から声が落ちてきた。 「……真弓」 「親王さま。よく眠れましたか」  身を起こすと、小袖を脱いで帷子姿になった親王がいた。 「あれはお前の帳台だったのか。他に帳台がないということは、本当にこの屋敷にはお前しかいないのだな」 「はい。外から通ってもらっている下女と牛飼童が一人ずつおりますが、屋敷に寝泊りしているのは私だけです」  昨日の朝に確認しただけだが、飯炊き係の下女と牛飼童のみが屋敷に仕えているようだった。  親王はほとほと呆れた、とばかりに額に手をあてた。 「お人よしめ。俺なんぞ厨の隅で寝られる身体だ。そこらに放っておきゃいいものを」 「そんなことできるわけないでしょう。尊いお身体なのですから」 「尊いお身体、など初めて言われた」  真弓がどう反応すれば良いのか迷っているうちに、親王の腹から唸りが鳴った。 「腹がすいた。下女がいるなら、俺が飯を作らんでも良いのだろう」 「ええ。もうじきできるはずです」  ほとんど同時に、簀子から足音が近づいてきた。かたり、と物が御簾の向こうに置かれ、再び足音が遠ざかっていく。 「下女が持ってきてくれたようです。冬ですから、湯漬けですね」  平安時代は一日二食だ。軽食として起床後には湯漬けや水飯を食べるが、これは一食に含まない。  御簾を持ち上げて上にまとめ、折敷を両手に二つずつ持って親王の前に運んだ。  折敷を置き、向かい合って座す。銀に光る匙を手に取り、それぞれ湯漬けを食した。 「温かい飯は久しぶりだ」 「これからは毎日、温かい食事ができますよ。親王さま」  湯漬けを飲み下して笑いかけたが、親王はむくれて匙を置いた。 「その親王さま、ってのどうにかならないか。なんだか落ち着かん」 「では、なんとお呼びしたらよいですか」  親王もとい宮の源氏の本名は明らかではない。  真弓が問うと、彼は少々考えて小さく笑った。 「真弓、お前が名前をつけろ。俺に名前はない。寺での呼び名など捨てたし、御所で呼ばれていた名など幼名だ。使い物にならない」  唐突の申し出に真弓は固まった。しかし断れるはずもなく、しどろもどろに「では、恐れながら名前をつけさせていただきます」と返す。  答えたはいいものの、さっそく悩んでしまう。  行き場がなく浮かせた目線は宙をさまよい、御簾の向こうの庭へと向いた。  庭の池の水面に、太陽の光が降り注いでいる。冬特有の冴えるような光はまぶしく反射し、木々に照り映えていた。 「──冬明(ふゆあきら)、はいかがでしょうか」  頭の中で景色を文字にし、まとまった言葉をおずおずと提案する。  親王は寸の間真顔になり、「冬明か」と反芻するようにつぶやいた。続けて喉をくくっと鳴らし、面白げに首肯した。 「なるほど、悪くない。じゃあ、これからは冬明と呼んでくれ」 「つつしんで承ります」  胸がほんのり温かくなる。それは湯漬けだけのせいではないと、真弓は思った。  数日後、吉日を選んで冬明は御所で元服することになった。  一般に親王の元服は摂関などの高官が行うことが多いのだが、冬明はそれを断り、摂関の派閥ではない大納言に加冠(かかん)役を頼んだ。彼なりの反抗であろう。  御所の紫宸殿(ししんでん)では、黒い束帯をまとった公卿たちが一同に会していた。一番前の席で「関白殿」と呼ばれている男がいたが、おそらく彼が真弓の父だと思われた。  侍従かつ少納言である五位の真弓は、他の侍従に倣って後方に座った。五位の束帯は深みのある朱である。 「主上が参られます」  侍従の一人が述べると、殿舎の入り口から三十ほどの男が現れた。  彼が身に包んでいる小葵(こあおい)紋様の織りだされた白の袍は、帝しか着ることの許されない衣である。下に穿くのは、女房のごとき紅の長袴だ。  初めて見る帝の姿に思わず目が釘付けになる。真弓は瞬きも忘れて注視し、帝が上座に腰を降ろすまで呼吸もできなかった。 「冬明親王さまが参られます」  次に呼ばれたのが冬明だった。彼とは同じ牛車で参内し、清涼殿(せいりょうでん)前でわかれている。  女の恰好で参内するわけにもいかないので、真弓の束帯を貸していたが、髪は垂髪のままで送り出していた。  す、と床をする音がし、真弓だけでなく全員が振り返った。  御所で生まれたにも関わらず、十年以上もの間、遠い寺に置かれていた不遇の親王。  その肩書を持つ男がいかなるものか、確かめてやろうと誰もが息巻いているかのようだった。  冬明は清涼殿で着替えさせられたらしく、黄色い袍に白い上袴を穿いていた。黄色の袍は無位の証である。いわゆる童形束帯だ。  髪は両耳の上でみずらに結い、蘇芳(すおう)の細い布で飾られている。  童形束帯(どうぎょうそくたい)とはいえ、冬明は真弓と同じく二十手前であり、おせじにも童と言える年頃ではない。この歳で元服していないのは異例で、他に着せるものがなかったのだろう。  それを踏まえれば冬明の身なりは奇妙なのだが、誰も笑う者はいなかった。  否、笑えなかったのだ──冬明の姿は圧倒的な威光を放ち、帝すらを飲みこもうとしていた。  完成された美。それこそが今の冬明だった。 「冬明。長く寺に置いたままにして申し訳なかった。父である上皇が帝位にあった時は、私は東宮であったから、お前を御所に戻そうと意見するのが難しかったのだ」  冬明が帝の前に座して初めて、帝が口を開いた。 「許してくれとは言わない。だが、元服した後は私の元で、国を支えるための力添えをしてほしい」  帝の声には哀れみと懇願がにじんでいた。  だが、冬明からの返事は一切なかった。  背筋を伸ばしたまま、微動だにしない。表情をうかがい知ることはできないが、大方あの能面のごとき顔をしているのだろう。  黄色い背中には、薄墨を溶かしたような影すら落ちているようだった。  真弓が隣の侍従を打ち見ると、彼は冬明の態度に腹を立てているらしく、眉をひそめている。 帝のそばに侍る侍従という職掌ゆえ、帝への忠誠心は深くなるため、無礼を許せないのかもしれない。  帝は弟に構わず、柔和に笑った。 「それではお前の元服の儀を行うこととする。大納言、頼むぞ」 「あいわかりました」  代わって大納言が立ち上がり、元服のための道具一式を持ってきた。  道具は髻を結うための紫の紐に、髪を切るための笋刀、鬢を整えるための櫛である。 「御髪をお切りします」  大納言がみずらの細い布をほどくと同時に、冬明の髪が川のように流れ落ちる。肩より少し下に笋刀を差し入れ、勢いよく髪の束を断ち切った。  ──もったいない、あんなに綺麗な髪を。  真弓の心は痛くなった。  そんな中でも儀式は着々と進み、冬明の頭上に髻がつくられた。さらに冠がかぶせられ、気づくと若々しい公達が出来上がっていた。  役目を終えた大納言が引き下がり、帝が立ち上がった。 「冬明、お前に源の姓を授ける。これからは源朝臣(あそん)冬明と名乗るようにせよ」  かなりの間を置いて、冬明の「はい」という短いいらえがあった。  彼の行動の端々に見える抵抗が、真弓には悲しかった。  儀式がつつがなく終わり、公卿たちは日々の政務に戻っていった。  真弓は侍従の仕事のために清涼殿に入ったが、そこでは他の侍従や蔵人たちが立ち話をしていた。  顔を突き合わせている彼らの話題はやはり冬明のことらしく、態度を批判する内容がほとんどだった。 「真弓、源冬明をどう思う。お前が連れてきたんだろう」  一人の侍従に訊ねられ、口ごもった。彼らは冬明を責める言葉を欲している。さりとて、冬明を手厳しく糾弾することなどできそうになかった。 「確かに、主上のお言葉に返事をする時、間はありましたが……それは、宮中のしきたりに慣れていらっしゃらないからではありませんか。きっと、この場に緊張されていただけでしょう」  同僚は肩をすくめた。 「ふん、情が湧いたんだな。それに、敬語はいらないと思うぜ。もうあいつは源の姓をもらった臣下なんだ。位だって俺たちと同じ従五位下だぞ」 「お前っ」  突如、別の侍従が顔を青くして御簾の方を一顧した。つられて身をひるがえすと、御簾を持ち上げながらこちらを睨みつけている男がいる。  真弓たちと同じ、朱の袍に着替えた冬明だった。  彼は御簾の内側に入り、ふ、と不敵に笑った。 「俺を罵倒したいなら好きにしろ。俺は好きなように振る舞っているだけだ」  冬明の反応にばつが悪くなったのか、侍従たちは真弓を残して清涼殿をそそくさと出て行った。 「冬明さま……」  どう話しかければ良いのかわからず、名を呼ぶことしかできない。  冬明は整えたばかりの鬢を指で触り、忌々しそうに眼を伏せた。 「呼び捨てで構わん。冬明さまなどと呼んでいれば、今度はお前がここで浮く」 「お気遣いありがとうございます、冬明」 「それでいい」  彼は御簾の向こうを眺めやって、「だがな」と付け加えた。 「御所で働くのはいい。だが、ここの奴らと仲良くすることは別だ。俺は、父上はもちろん関白や主上も許してはいない。今後、仲良くすることはない」  わかりきっていたことだ。  真弓は頷いてから、「私は」とこぼした。  冬明に嫌われてはいないか、不安に駆られたのだ。 「お前は、まだわからん」  彼は小さく首をかしげ、口の端を持ち上げた。  冬明も真弓と共に侍従として清涼殿で働くことになり、半月が経った。  同僚たちとは上辺だけの付き合いにし、角が立たないように気をつけていたおかげで、変な騒動などはなく日々を過ごせていた。  もちろん、遠巻きに冬明の悪口が聞こえることはしばしばあったが、気にしなければなんということもない。 冬明自身も不機嫌そうではあったが、逆上して暴れることもなかった。彼の矜持なのだろう、と真弓は理解している。  ある日、いつも通りに真弓と冬明が帝のかたわらに侍っていると、冬明がおっくうそうに立ち上がった。 「兄上の顔なんて一時間(現代の二時間)も見ていたくないのでね」  言い残すなり足音をたてて清涼殿を出て行く。帝が日中過ごす場である昼の御座には、帝その人と真弓だけが残された。 「……いつも冬明がすみません」  すかさず謝るが、帝は意に介した様子もなく首を横に振った。 「真弓が気にすることではない。冬明はああ言わないと休憩がとれないのだよ。かわいい言い訳じゃないか」  帝と接してきてわかったが、彼は懐が大きく、品がありながら胆力もある人物だ。 『冬草草紙』を読むだけではわからないことが次第に明らかになっていき、とても楽しい。  だが、帝の横顔は寂しそうであった。 「さりとて悲しい。私が悪いのだが、嫌われているのがありありと伝わってくる。弟に疎まれるというのはこんなにも辛いのだな」  帝は生まれてから周囲に大事にされ、あがめられる。人の悪意と隣り合わせではあるものの、人からの嫌悪を丸出しにされることは基本的にない。  だからこそ、冬明の態度が何割増しにも痛く感じるのだろう。 「そうだ、真弓。お願いがあるのだが、聞いてはくれないか」  つと帝は真弓に竜顔を向けた。 「今度、祈年祭(としごいのまつり)があるのだけど、知っているか」 「ええ。如月に行われる豊穣のためのお祭りですね」 「これを夜に行いたいと考えているのだが、いかがかな」  夜と言われて驚いた。  元来、祈年祭は昼間に行われる祭りである。 「祈年祭は醍醐の帝の時にはすたれていた。それは、皆が祈年祭への興味を失っているからではないかと思うのだ。ならば、夜に行うことで一新してはどうかと考えたのだよ」 「……良き考えだと存じます」  恐れ多く異を唱えることはできない。しかし、夜に行われる祈年祭を見てみたいとも思った。 「ありがとう。お願いというのは、この祭りに真弓と冬明が揃って参加してほしいということだ」 「……確かに、祈年祭でまつる神のもとをたどれば、天照大御神になります。この神は帝の祖ですから、主上を疎まれる冬明は参加したがらないでしょう」 「冬明も宮中の行事に関われば、少し心も変わろう。私なりに考えた、仲直りの方法なのだが……これしか思いつかなかったのだ。真弓、頼まれてくれるか」 「お心のままに」  承ったところで御簾が上がり、冬明が帰ってきた。真弓が帝と話していたのを察したらしく、片眉がいびつに持ち上がっている。  彼は無言で真弓の隣に座り、わざとらしく伸びをした。 「冬明、思ったのですが」 「なんだ」 「疲れているのではありませんか」  虚を突かれたのか冬明が怪訝な顔をした。焦って真弓は取り繕う。 「いえ、深い意味はありませんよ。ただ、伸びをしているということは肩が凝っているのではと思いまして」 「まあ、そうかもしれん。こんな場所で半月も働いていれば、肩くらい凝る」 「それで考えたのです。あと十日も働いたらお休みがとれます。その日に神社に行くのはいかがですか。温泉の出る神社だそうです」 温泉の出る神社、というのは他でもない「冬草神社」のことだ。  現代ではすでに温泉は出なくなっていたものの、温泉に関する石碑や記録が神社内には残っていることを覚えていた。  十日後にあるのが祈年祭なのだが、知っているのか知らないのか、冬明は首肯した。 「神社に興味はないが、温泉は気になるな。話に聞いたことはあるが行ったことがない」  冬明の口のまわりがわずかに早くなった。彼の興味を惹けたことがわかり、純粋に嬉しくなる。 「行くのであれば潔斎いたしましょう。温泉が目的といえども神社に参るのですから、身を清めねばなりません」  祈年祭は神事なので、一定の潔斎が必要である。温泉の湧く神社で冬明を釣って潔斎させ、流れで祭りに参加させるのだ。  騙し討ちのようで辛かったが、温泉なら別日に行けばいい。嘘にはならないし、帝の頼みを断るわけにもいかない。 「潔斎か、わかった。水にでも浸かればいいのか」 「近所の寺の蒸し風呂を借りて、水に浸かりましょう。都の民たちに開かれている浴場です」  貴族と言っても屋敷に風呂はない。風呂に入るには寺に行く必要があり、また湯に浸かるわけではなく蒸し風呂だった。  ──主上、これで大丈夫でしょうか。  真弓は帝に目配せする。  真弓の作戦を汲み取ったらしく、彼は脇息にもたれながら微笑んでいた。

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